8 彼の衝動が及ぼした、道上まろのの憧れに対する影響
そのとき、道上まろのは初めて間近で天使を見た。
彼女にとって天使は憧れの存在だった。子供の頃にTVで見た、災害救助にあたる天使守護隊はどんなアイドルやヒーローよりもカッコよかった。特にグレーがかった白色の大きな翼が大好きで、段ボールで自作してはよく天使の真似事をしていた。
天崎高校に入ったのも憧れのためだった。天使国で働けるごく一部の超ド級エリートは置いておいて、国内に点在する守護隊関連機関で働きたいと思ってもそれだって狭き門だ。天崎高校を卒業したあとは天使共同研究大学へ入るのがお決まりのルートだが、天共大を出たところで守護隊関連職に就けるのはほんの一握りである。
ただ、天崎は国内で唯一天使国立学校との姉妹校である、というのがなんといっても強い。“天高贔屓”なんて言葉がひそかに囁かれているように、圧迫面接官も天崎高校出身と聞けば柔和な表情になる……とかなんとか。情報非公開のところも多いので眉唾だが、国内外の守護隊関連職に就いている人間の7〜8割は天崎高校出身という話もある。フツーの人間で守護隊関連の仕事に就こうと思うなら、まずは天使国とゴリゴリの蜜月関係にあるこの学校に入るというのが手堅い方法である。だから天崎は倍率がめちゃくちゃ高いのだ。
そして、天使はそれほど誰しもにとって憧れの存在で、手の届かない雲の上の存在だ。
そんな天使が間近にいた。
それどころか自分を助けてくれた。
地面に激突する寸前のところで、道上を抱き止める光来の下に、守護隊員の天使が滑り込むようにして2人を助けてくれたのだ。
2人は天使の翼に包み込まれていた。夢にまで見た大きな翼はとてもしなやかで柔らかく、それでいて強い芯があった。触れて、感触を知った。TVではじめて天使隊を見た、あの日以上にドキドキしていた。でもどこか不思議な感覚があった。これは、なんていえばいいんだろう?
「怪我は無いですか?」
「はっ、ハイッ!」
道上はそのままの姿勢で咄嗟に返事をした。光来は何も言わなかった。しかし、なぜかそのとき光来の腹にグッと力が込められたのを、道上はもたれかかるようにして触れ合った背中越しにかすかに感じた。
「立てますか」
「はいっ」
「…………はい」
3度目の問い掛けに、光来はやっと小さく返事をした。憧れの天使を前にして緊張しているのだろうか?
道上と光来はゆっくりと立ち上がった。足がぷるぷる震えている。
隣の光来を見ると、彼は足だけでなく手も震えていた。きつく握り込んだ拳が小刻みに揺れている。光来は様子を伺う道上の視線に気づいて、左手で右腕を掴んで無理やり震えを抑えた。
「うん……見た感じ、大きな怪我は無さそうですね。もう大丈夫ですから。これから保健室の先生と相談して、必要そうならちゃんとした病院にかかってください。私が付き添うこともできますが」
「はっ、はい! わ、私達だけで行けます!」
これ以上守護隊員の手を煩わせるわけにはいかない。道上は身体に問題がないことを示すために、その場で兵士の行進のように足踏みをしてみせた。しかし焦って右手と右足が同時に出てしまい、恥ずかしくなってすぐにやめた。
「わかりました。では私は巡回に戻りますので、これで。お気をつけて」
守護隊員は簡潔にそう伝えると、音を立てずに飛び立って空の巡回に戻っていった。セルリアンブルーの隊服が空に溶けるみたいでカッコいい。
それから少しの間、2人は呆然とその場に立っていた。
道上の胸にはいろんな思いが交錯していた。はじめて会った憧れの天使と、自分の身も顧みず助けに来てくれた、しかしどこかおかしな様子の光来……
と……とにかく何か、なにか言いたい……!
道上はぐるぐる考えながら、勢いに任せて口を開いた。
「きょっ、きょうきん……」
「……?」
「胸筋、すごかったねっ! 守護隊の人!」
道上の言葉に、光来は開いた口が塞がらない様子でポカンとしていた。しばらくすると果物が弾けたように笑い出して言った。
「そこかよ!」
電流が走ったようだった。
そのとき、道上はさっき抱いた不思議な感覚に答えを出した。それはある種の爽快感を伴っていた。
難しいことは知らない。
南君が好きだ。