7 忘れられないあの日の事故
終業のチャイムから既に30分が経っていた。なんとなく駄弁っているだけで時間なんてものはすぐに溶けてしまう。
教室にはただだらだらしている光来と増田、そして課題をやっているらしき夕慈と道上と八重川がいた。道上が授業でわからなかった部分を夕慈と八重川に教えてもらっているようだった。内容はおそらく数学で、よっぽどわからないのか道上はたまにキーと言って教科書を半分に裂こうとし、その度に2人に止められていた。4月の頭でそのつまづき方なら入試はどうしてたんだと思ったが、変な発作に巻き込まれてはたまらないので光来は見て見ぬふりをしていた。
弓道部の練習へ向かった宮本をはじめ、他のクラスメイトは大抵部活に行っている。女子3人組もなんだかんだいってちゃんと勉強をしているし、何をするでもないのは光来と増田の2人だけである。計画のために普通の生活を送っているとはいえ、これはこれで何もしてなさすぎて不安になってきた。
「……帰るか。俺も家で課題するわ」
「え〜っじゃあこのガチャだけ引いてや、このエンターテイメントファミリードラゴンってやつ、これ当ててくれたら帰るから」
「なんだよそれやんねえよ! もういいって、帰るぞ」
「え〜ん」
増田はもにょもにょと文句を言いながらスマホをしまった。と思ったら次の瞬間にはもう帰り支度を済ませており、鞄を肩に掛けて「え? 遅っ」などと荷物を片す光来を煽った。光来は驚いて、ちょちょっと待って、などと情けなく言うしかない。焦る光来を増田はあっさりと流して、「先出とくで」と言いながらさっさと廊下へ出てしまった。あっという間にどこかたそがれた様子で窓の向こうを眺めている。なんだアイツ。
と思いながらも、置いて行かれた光来がわたわたと帰り支度をしていた、そのときだった。
退屈そうに待っていた増田が、あっと声をあげて光来の元へ慌ただしく戻ってきた。そんなに距離もないのにハアハア息があがっていて、まるでおもちゃを見つけた犬のような興奮ぶりである。増田は窓の方を指差して言った。
「さっ阪下と小川がっチチチチューしてる!!」
「エェ!?」
光来は鞄を放り出し、増田と一緒にハアハア言いながら廊下へ走った。
つとめて静かに窓ガラスを開けそっと下を覗き込むと、増田の言う通り、校舎裏の隅に隠れるようにして古典の阪下先生と美術の小川先生が抱き合っているではないか。先生方のあらぬ姿に光来は思わずキャーッと声を上げそうになったが、すんでのところで両手で口を抑えた。
さらに光来は思い出した。そういえば小川先生は既婚者だったはずだ。たしかダイヤがめちゃくちゃデカい上に髑髏の形をしている結婚指輪をつけていて、そういうのアリなんだ、などと感想を抱いた記憶がある。美術というのはかくも難しいものである。
光来と増田は興奮に乱れる呼吸を必死に堪えてお互いの顔を見合った。あふれる笑みを無理に抑えて2人とも鼻の穴が倍ぐらいに膨らんでいる。先生方は生垣に隠れるようにして夢中で身を寄せ合っており、上からがっつり覗き見る生徒の姿には気がついていないようだ。ああ、ここに宮本がいないのが残念だ。アイツが弓道ガチ勢じゃなければ一緒に見れたのに。
「阪下と小川がチューしてるってマジ?」
すると、増田の報告を聞いていたらしい道上が2人の背後に現れた。
「おっ、ちょっと、シッ!」
「わかってるって。静かにするから私も見る」
道上は小声で言いながら無理矢理光来の隣にやって来た。3人一緒に顔を出すと窓ガラスはかなり狭い。ぎゅうぎゅう押し合いながら現場を覗き込むと道上も声にならない声をあげ、鼻の穴を倍ぐらいに膨らませて目を輝かせた。
と思ったら突然顔を顰めて鬼のような形相になり、ポケットからスマホを取り出して窓の外に腕を伸ばした。グッと空中に大きく身を乗り出していたので、光来は思わず小声で静止する。
「おい道上っ危ないぞ、やめろ」
「大丈夫!」
道上は聞かない。何が大丈夫なのか。光来は小声による静止を続ける……昼休み然り、今日は小声でキレないといけない場面がやけに多いな、とうっすら考えた。
「撮ってどーすんだよっ」
「TikTokで晒したるんじゃ」
「やめとけって!」
「やめへんッ! 小川が先に晒してきたんやぞ、アイツ私がはじめて授業で描いた絵を“下手すぎる”ってクラス中、いや、学年全員に晒したんやぞッ!」
「アアアーッお前らうるさいんじゃ!! バレるやろが!!」
囁き声史上一番大きな声を上げて増田がキレた。
ーーとその瞬間、何か巨大な影が飛来して辺りが一瞬暗くなった。生徒3人と教師2人は一斉に空を見上げた。
「トッ……トンビ!?」
遥か上空を飛んでいたトンビは黒い羽を大きく羽ばたかせて一瞬のうちに高度を落とし、道上が手に持っていたスマホを強奪していった。パンの絵が描いてあるスマホケースだったからか、と光来が思った瞬間、引っ張られた道上の身体が完全に窓の外に出た。考えるより先に身体が動いた。窓ガラスの縁を後ろに蹴った光来は空中で道上の腕を掴んだ。
ーーああ、これ、死ぬ?
空を隠す巨大な翼の影はまるでジェット機のように、しかしその飛翔音は紛れもなく生き物の音を立てていたからとても不気味だった。鼓膜を裂こうとするその音だけがただ辺りに響いて、あとは無音だった。光来は眼下に目をやった。5階分の地面との距離、風にざわめく植木、俺達を見上げて何か叫んでいる不倫教師共、景色はスローモーションに映り変わり、やっぱりこういうときはスローになるものなんだ、あの映画の演出は監督の実体験だったのかもしれない、と月並みなことを考えた。それに神様がもしいるのなら、これは、死ぬ前にマアちょっとゆっくりしいやという粋な図らいなのかもしれない。お言葉に甘えたいところだがもっと考えないといけないことがある気がする、なんだろう、そうたとえば、
「光来ッ!」
そう呼ぶ夕慈の声が風を裂いて聞こえた。光来ははっとして掴んでいた道上の腕を引き寄せ、空中で身体を反転させると自らの背を地面側にして道上と抱き合うような格好をとった。道上を衝撃から少しでも守るためだったが、そのときの光来は明確にそう考えていたわけではなく、ほとんど本能的にそうしていた。今まで地面を見下ろしていた光来は道上越しに空を見上げるかたちになり、声の方に目をやると、さっきまで教室にいたはずの夕慈が窓から顔を出して光来の名前を叫んでいる。目が合う。俺を真っ直ぐ見るその悲痛な表情に、あの冷静な夕慈が自分のために走ってきてくれたのだろうか、なんて思うと、やけに胸が締め付けられた。
するとそのとき、なぜだか、クールぶって俯瞰していたもうひとりの光来自身がひょっこりと帰ってきて、それと同時に胸の奥底から、次々と吹きこぼれて収拾がつかない熱湯のような気持ちが沸き上がってきた。世界が急激にスピードを上げて回る。ゆっくりと脈打っていた心臓が突然暴れ出す。
……舐めるんじゃねえよカミサマ野郎。お情けでこんなミソッカスみてえな時間をくれるようなのが神様なら俺は信じない。
それよりも俺を殺すんじゃねえ、俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ! 俺はこんなことじゃ死ねない! 死ねない死ねない死ねない!!
「死にたくねええーーー!!!」
光来は腹の底の底の底から叫んだ。しかし墜落、その勢いは増す。腕に力を込める。地面が近づく、草木のざわめきはすぐそこにある、重力が音を立てる、その隙間に、トンビのものでも神様のものでもない、もうひとつの羽音がするりと入り込み、バサ、という音と共に光来達は暖かい灰白色の何かに包まれた。
「……!?」
地面に衝突した感覚がない。
ーーい、生きてる!?
光来は暗くなった視界の中で生きている確証を探した。腕、あったかい、身体、柔らかい、「ちょっ、南君ッ!?」あれッ、これ道上か!?
「ウワッごめん!」
光来は驚いて手を離した。暖かいのはどうやら溢れた血ではなかった。熱い血潮は皮膚を突き破ることなく身体の中を流れている。
「君達、大丈夫?」
暗闇の向こうから知らない声が聞こえて、視界に少しずつ光が差し込んできた。まるでステージの緞帳が上がるときのようだった。
ーーそれが天使守護隊隊員である天使の翼だったことに気づくのには、少々の時間が必要だった。