3 海が見えるはずの喫茶店で
天使ーーそれはある日突然地上に降り立った守護の化身である。
彼らは『天使守護隊』を結成し、災害や事件、事故のたびにあらゆる人々を救って日本政府との信頼を築き上げ、日本のとある島を天使守護隊の拠点『天使国』として独立させた。
今日も天使国から青空の彼方へ、守護隊隊員達が飛び立っている。
天崎駅はそんな天使国に最も近い駅である。天使国と日本本島を繋ぐ唯一の橋、『暁天大橋』とも直結しており、連絡経路としての利用も甚だ盛んだ。
天使国の1日の入国には制限があり、年単位の予約待ちはざらである。さらに『暁天大橋』は検査を受けた車両のみ通行が許可されているが、検査はなかなか厳しく、入国許可が取れても検査で落とされる、という場合も珍しくない。
こういった諸般の事情により、天使国への入国は難しいものとして知られている。そんな中、日本側の橋周辺地域は、日本国内であるにもかかわらず、天使の人気にあやかった観光ビジネスですっかり賑わっている。
たとえば天崎駅から海側へ下ると巨大な橋脚がある。一部特別開放されている橋の内部を見学することもできるので、一帯では最も人気の観光スポットになっている。
橋脚のたもとにある公園ではしょっちゅうライトアップイベントがされている。イベントのたびにニュースで報じられる混雑が、“いつもの”と民衆から揶揄されるようになって久しい。
当然、『天崎駅前ビル』も例に漏れず一大観光スポットである。
……が。
「『ニードル』……ここか……?」
天崎駅前ビル2階、その片隅に『ニードル』はひっそりと佇んでいた。おしゃれなレストランや天使関連のショップなどあらゆる店の賑わいをよそにして、まるで閑散を一手に引き受けたような静けさである。
光来はきょろきょろと辺りを見回した。本当に天崎駅前ビルの喫茶店なのかと疑うほど、周囲には人ひとりいない。少し奥まった場所にあるからだろうか?
……いや、違うな。完全に雰囲気だ……良く言えばレトロ、悪く言えば古い、薄暗い、ちょっと怖いの三拍子。
光来は恐る恐るドアノブに手を掛けた。すると、そこではたと気がついた。木製の重々しい扉には“closed”の文字が書かれたパネルが掛かっている。
「んだよ閉まって……うおっ!」
文句をつけようとすると突然扉が奥に開き、半身ほどの隙間からハスキーで高圧的な夕慈の声が飛んできた。
「待ってたぞ。入れ」
店内はほとんど真っ暗だった。左の壁際にあるテーブルの真上とバーカウンターだけ照明が点けられているものの、日中とは思えないほど暗い。この店は海側に面しているはずだったが、と光来は窓の方に目を遣ったが、大きな窓にはぴっちりとカーテンが閉められており、外の様子は全く確認できなかった。
光来は恐々としつつ、夕慈に案内されるまま照明が点けられたテーブルに着いた。店内を見回すと、レコード、木彫りの熊、古時計……などなど、レトロな雑貨があちこちに並んでいる。また壁、天井、床はすべて板張りで仕上げられていて、暗い中でも重厚感を感じさせる。純喫茶、というやつか? ますます、絶対1人じゃ入れない店だ……。
「はゎ……」
「ふっ、ハワじゃねえよ。居心地悪いか?」
慣れない雰囲気に思わず声が漏れてしまい、速攻で夕慈にツッコまれた恥ずかしさから光来は手で口元を覆った。店内が暗くてよかった、顔が熱い。
「だってさ、浦辺さん」
夕慈が声を掛けた先に視線を向けると、苦笑いを浮かべた男性がバーカウンターにひとり、クロスを片手にティーカップを拭いていた。
「この人は浦辺さん。ここのマスターで私とはちょっとした知り合いだ、信頼できる人だから安心しろ」
「どうも……」
紹介された浦辺さんなる男性はぺこりと軽く頭を下げた。光来も小声でドウモ、と応じる。
「浦辺さん、こいつが南光来。さっき言ってたヤツ」
サラリと光来の紹介を済ませ、夕慈はテーブルにあったコーヒーをひと口飲んだ。さっきってどんな話してたんだ。どうせ死のうとしてたヤツだとかプライバシー配慮ゼロで喋ったんだろ? 心なしか浦辺さんの目が憐んでいる気がするしーー
「光来、何にする?」
ーーと光来が心の中だけで夕慈を腐していると、夕慈がテーブルに置かれた小さいメニュー表を向けながら問いかけてきた。“光来”と突然名前を呼び捨てにされたことにびくりとしたが、すぐ決めないとまた馬鹿にされそうだと思い慌てて目を通す。
「えっ、あっ……じゃあ、カフェオレで」
「おっけ。浦辺さんカフェオレ」
「はい」
こいつ何なんだ?
明らかにひと回りは年上であろう浦辺に敬語を使わせる夕慈に若干引きつつ、光来はちらりとバーカウンターの様子を伺った。
浦辺さん……お世辞にも、“純喫茶のマスター”といった風貌には見えない。邪魔にならない程度にカットされたこだわりのなさそうな髪型にフレームの細い眼鏡、シンプルな白のYシャツ……どちらかというと研究員みたいだ。
などと失礼なことを考えていると、どうぞ、と浦辺がカフェオレを給仕してくれた。なんとなく気まずい気持ちになりながら、光来は再び、ドウモ、と頭を下げる。あとは特に会話することもなく、浦辺はまたバーカウンターへ戻ってティーカップを拭き始めた。ザ・真面目……といった印象だ。
「じゃ、光来」
光来は呼ばれて正面を向いた。
ああ……やっぱり真っ直ぐな瞳だ。
「来てくれてありがとう、心から嬉しいよ」
こうも素直に伝えられるとどう返していいかわからない。光来がまごまごしていると、あ、と夕慈が付け加えるように言ってきた。
「あと、ここは浦辺さんの奢りだから安心して」
えっ、と光来が浦辺の方を向くと当の本人も初耳だったらしく、一瞬手を止めて「エ?」みたいな顔で夕慈を見たが、すぐに真顔に戻ってティーカップを拭きはじめた。この人もまた森本夕慈という女に振り回されている被害者なのかもしれない……光来は心の中で唱えた。南無三。
「……で、一体何なんだよ、侵入する“方法”ってのは」
夕慈は待ってました、と言わんばかりににやりと笑って言った。
「校外学習だ」