1 天使の祝福
ゴオ……バン、と重たい防火扉が閉まる大層な音を背中越しに聞いたとき、南光来は、まるで地獄の入り口だな、とひとりごちた。
頬を撫ぜる風にはまだ少し薄ら寒さが残っている。潮風に誘われるように空を見上げると、地獄とは到底かけ離れた晴天が遥か彼方まで突き抜けている。光来はギリ、と音を立てて歯を噛んだ。どこまで人をコケにすれば気が済むんだ、と。
光来は思った。俺以外の人間からすれば今日という日にこれ程相応しい空模様はなく、それはまさに“祝福”、例えばそんなおめでたいことを、100人居れば100人がそう感じるだろう……俺を除けば。
まるでふざけた空から視線を降ろし、光来は正面に向き直った。海はフェンス1枚を隔ててこの屋上と地続きかのようにみえる。そして燦く細波の向こう、悠然と横たわる緑の島がひとつ……
ーー『天使国』……。
光来は胸元のワッペンバッヂに手を当てた。天使の羽をモチーフにした校章をベースに桜の花弁をあしらった、まさに“祝福”のワッペン。
「ハッ、ふざけるなよ」
俺にしてみれば、こんなのは“くそ喰らえ”だ。
光来はゆっくりと島に向かって歩いた。見てろよお前ら。静かな屋上にフェンスを掴む音がうるさく響いた。フェンスは萌黄色で綺麗に塗装され、少しの錆も見当たらない。こんなところにまで丁寧に手入れがされている……くだらない。光来はまた苛立ちを募らせた。いいか、俺はお前らの顔に泥を塗ってやる。覚悟はとうに決まっている……そのためにここに来たのだから。迷う余地などどこにもなかったーーただ、天使国の上空、青空を自由に回遊する天使達を見ると、悲しそうな兄の顔が過った。コーセツは悲しむだろうか。
……まだ生きているかもしれないのに。これで本当にいいのだろうか?
光来は考えを振り払うように頭を振った。
やめろやめろ、決めたことだろ。ああだめだ、ただ何もしないで立っていると余計なことを考えてしまう。光来は右手に力を込めた。握ったフェンスがぐにゃりと歪んで、少しだけ気が晴れた。
俺は決めたんだ、これが俺の復讐なんだ。
そう、フェンスに片足をかけたときだった。
「おい、何してる」
背中越しに飛んできた声は、ハスキーな……女の声だった。光来は思わず正面を向いたまま動きを止めた。
「動くなよ」
足音が近づいてくる。光来は頭が急激に熱くなるのを感じた。
ーーどうする、どうするどうするどうする! くそッ、なんてタイミングなんだ。止める気か? この偽善者め! ……いや、俺は決めたんだ。俺はやる! 何人たりとも俺を止めることはできないんだ!
光来は声を無視し、フェンスによじ登った。決意と裏腹に、フェンスが揺れる無機質な音が光来の焦りを掻き立てる。急に考えすぎて頭が熱い。急げ、急げ!
「いい誘いがある」
女はそれだけ言った。
無意識下、光来の動きが止まった。
女はそれだけ言った。全てを伝えるのにそれだけで充分だったのだ。その一言で光来は理解したーーいや、理解“させられた”、といった方が正しいかもしれなかった。
こいつ、止めるつもりじゃない。
偽善でもましてや純粋な善意でもなく、確実に俺の意思とは関係のないところに何か理由があって、ただ、“そうする必要がある”から俺に声を掛けているーー今まさに投身自殺を試みる人間を前にして、この女の声はそういう声だった。
光来はフェンスを蹴って後ろに飛び降りた。特に明確な考えがあったわけではない。ただそうしただけだ。光来はゆっくりと振り返った。そしてーー圧倒された。圧倒されるヴィジュアルだった。長い髪が潮風に吹かれている。ヴィジュアル、というのは、単に容姿が美しいというだけの話ではない。それだけではこんなに何もかもを奪われたような気持ちにはならない。
それは芯の揺らがぬ立ち姿であり、真っ直ぐな瞳であり、溢れるオーラとも言うべきもので、それは思春期特有の意味のない不安や焦りや動揺や狼狽諸々といった不安定な何か一切を感じさせず、確固たる信念のもとに全てを決定してきた人間特有の佇まいが、まるで自分の決意が小さく思えてしまうような感情を光来に抱かせた。
それはまさに“堂々”ーー。
到底、15歳そこらの同い年が持つ威圧感ではなかった。そして彼女は言った。
「まあ、一回話聞いてくれよ。聞いた上でソレやろうってんなら止めないから」




