11 兄を憶う夢
古い1LDKのアパートには自分の部屋は無かった。でも母親はろくに帰ってこないから1人の時間は充分にあった。
しかしこのとき、光来は目の前にいる学生服の男を一瞥し、その時間すらも失われることを悟った。
「どうも、光来君。それ何やってんの?」
男は光来の手元のスマホを見て言った。
「…………ソリティア」
「そうなんだ! 俺は光雪、よろしく」
光雪は右手を差し出した。光来は無視してソリティアを続けたが彼はしばらくしても手を引っ込める様子がなかった。つい出そうになった舌打ちをぎりぎりで抑え、少しだけ視線をスマホから外し、“面倒”と“仕方ない”の感情を出来るだけ左手に込めて握手に応じた。
“再婚するから”
と、事前に告知があっただけ今回はマシだと思っていた。帰って来たら知らない大人の男に“今日からお前の父親だ”と言われることなんて何度もあったから。でも兄弟ができることは聞いていなかった。これははじめてだった。
「なあ、2人とも名前に光が入ってるんだぜ! すごくない?」
「別にすごくない。ややこしいし」
「あは、確かにややこしいな。ミツキとミツユキで1文字しか変わらないし」
「じゃあオマエ、コーセツな。音読みで」
「勝手に名前変えんなよ!」
馴れ馴れしい男だ。こういう変に明るい奴とは仲良くなれそうにない……光来はそう思った。
ーー気づくと場面が切り替わり、光来は毛布を被って横になっていた。身体が熱くて頭が痛い。そうだ、俺は風邪をひいてたんだ。思い出したら一気にしんどくなってきた。離陸する前の飛行機みたいな音が頭の中で鳴り続けている。こうしてじっとしていると自分がひとりぼっちだということがまざまざと実感させられるようで、どうしても虚しさのために胸が締めつけられてしまう。眠ろうとしても眠れない。きつく目を瞑るほどに酷くなる頭痛が光来の弱った心を蝕んだ。
光来ははっと目を開いた。随分長く眠っていたような気がするけど、1時間ぐらい眠ったかもしれないし、せいぜい5分ぐらいだったかもしれない。でもとても怖い夢を見ていた。たとえば絶対に掴めない何かを必死に掴もうとするような、そんな夢だった。知らない間に毛布を強く握っていて、毛布は手汗でじっとりと濡れていた。はっ、はっ、と短く吐いていた呼吸が少しずつ落ち着いて、ふと気づくと傍に光雪がいた。片手で文庫本を読みながら、もう片方の手は光来の毛布に添えられていた。
「お前ッ、なんでここに!」
光来は驚いて飛び起き、光雪を睨みつけて言った。
「光来! よかった」
光雪は驚いた様子の光来に構うことなく、心底安堵したように息をついた。そしてすぐに「これ、光来に」と言いながら横に置いていたコンビニのレジ袋から何やら次々に取り出してきた。
見ると、ポカリとアクエリアスとOS-1が2本ずつ、味の違うのど飴が3袋、風邪薬、頭痛薬、酔い止め、冷却ジェルシート、ゼリー飲料……
「おい待て、何だよこれっ」
「何って何だよ。ほら、好きなの選んで。風邪? 頭痛? 足りないものあったら言って。買ってくるから」
何でこんなこと、とか、買い過ぎだろ、とか、いろんな言葉が次から次に飛び出しそうになってキリがなかったが、光雪の表情を見て何も言えなくなった。
光雪はとても心配そうな顔をしていた。風邪をひくことと心配されることの関連性がみえてこなくて、どうしてそんな顔をするのか光来にはわからなかった。でも心の奥がじわりと暖かくなって、それがむず痒くて、手元にあった枕を投げた。
「うるさい!」
「うるさいじゃないだろ。早く治してキャッチボールすんぞ」
光来は思い出した。
そうだ、俺はいつも光雪とキャッチボールをしていた。コイツはなぜかやたらと肩が強くて、それで俺はいつも手が痛くなって……
「ヤダよ、お前の球痛いんだもん」
「そんな寂しいこと言うなよぉ!」
そうだ、こうやって思ったことを素直に言ってもコイツはちゃんと聞いてくれて、悪態をついても真っ直ぐ受け止めてくれて、俺がいるのに隣の部屋で事に及ぶお袋や、俺とお袋を捨てた最初の親父みたいに、俺のことをいないモノとして扱わない、はじめてのーー
『光来、天使国には関わるな』
ーーそこで目が覚めた。
「ああ………………ゆめ…………」
光来は口の中だけで呟いて、無造作に髪を掴んだ。虚しさが嵐のように吹き荒れて仕方がなかった。
するとそのとき、まるで嵐をかき消すように、枕元のスマホがけたたましくアラームを鳴らした。表示された日付を見て心臓が跳ねた。そうだ。今日は運命の日だ。決着の日だ。取り戻す日だ。待ち望んだ日だ。
「光雪」
光来はまた小さく呟いてカーテンを開けた。嫌になるくらい眩しい朝日が差し込んでくる。春から住みはじめたこの1LDKのアパートは、新しくて広くて1人じゃ意味がない。
光雪。
お前とまたキャッチボールがしたいよ。
光来は朝日を見据えて大きく深呼吸を2回すると、ぱしん、と音を立てて両手で頬を叩いた。
ーー待ってろ。
迎えに行くから。