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どのくらい墜落したかわからないが、とにかく、あるとき目が覚めた。
自分は、自分がこの世界に生を受けたばかりであるということを知っていた。しかし自分が置かれている状況が“墜落”であることも知っていたし、それを“落下”と言い換えることができるのも知っていた。誰からも教わらないのに知っているのはおかしいことだとわかっていたが違和感はなかった。
墜落は続いた。自分は一体どこから落ちてきたのか、それは知らなかった。目が覚めた、というのは、自我が芽生えた、とか、私という存在に気がついた、とか、そういうふうに言い換えることができるかもしれないと思った。
私は自分の姿かたちを知らなかった。墜落しながら腕を広げて掌を見ると、先端には5本の指が生えていた。“腕”、“掌”、“指”という言葉、指はふつう5本であること、それらすべてが雪崩のように脳裏に舞い込んでくるのではなく、はじめからそこにあった。産まれたばかりの赤ん坊が泣き方を知っているようにはじめから備わっているものだった。例えば服を着ようと思って箪笥を開けるように、頭の中に言葉が入っていてそれを引き出しているだけであった。目の前のものや頭で思っていることに対して適切な表現をするために使うのが言葉という道具で、私ははじめからその道具を持っていた。
ふと背中に感じるものがあり、力を入れてみると両翼が開いた。左右合わせると身長の倍ほどはありそうだった。これによって“墜落”が終わり、代わりに“飛行”がはじまった。
それから私はしばらく飛んだ。飛び方も知っていた。高く飛ぶ、低く飛ぶ、速く飛ぶ、遅く飛ぶ、どうすればできるのかすべて知っていた。辺りはじつにどこまでも青かった。翼を羽ばたかせて飛べるということはここは“海”ではなく“空”で間違いないらしかった。飛ぶほどに感覚は鮮明になっていった。青い空の色は果てまで見えたし、肌を滑る風は私の一部であったのだ。感覚が実際をともなってきたといった方があるいは正確かもしれない。“私は私である”という実感が飛ぶほどに湧き立つのだ……それはじんわりと膨らみ続ける充足を私に与えた。
思うままに飛んでいるとだんだん気温が下がっていくのが体感された。眼下に目を凝らすと白い雲が見えてきた。そうすると雲の下の下等な世界の下等な民衆のことも思い出された。こちらの苦労も知らず文句ばかりつける、口先だけの愚民共である。私は頭を掻きむしった。急に身体がつっかえて足元を見るとぬかるみに蛆が集っていた。おい、ここは誰だ? 誰が畑をこんなにしたんだ。蛆が湧いてるじゃないか、舐め腐りやがって。頭を掻く爪の間がぬるぬるしてきた。私はその辺にあった紙を適当に投げた。
飛行は続いた。どのくらい経っただろうか? 時間という概念は元々備わっていたが、さして必要だとは感じられなかった。すべては私の思うがままだった。私はすべてを支配できるのかもしれない……そういう思いでいっぱいになった。すると遠くに赤い雨が降るのが見えた。私はそれをジッと見た。はじめはひと雫……赤い雨はモゾモゾしながらゆっくり降った。気がつくと別のところにまたひと雫、同じようにモゾモゾとゆっくり降った。少しずつ降る雨を見ながら私は気づかぬうちに言葉を発していた。「“兄弟”」。ああ、じっと見ていると燃えるように熱く、なにかわからない、ただとても根源的な欲求であることはわかった、そうした欲求がとめどなく胸に溢れた。兄弟達よ、わかるだろうか?
赤い雨達は一体どこから降るのか?
私はふと気づいた。こうして飛んでいたしばらくの間、私は“上”を見たことがなかった。だから見上げたーーそれは私の奥深くに杭が打ちつけられたようであった。私は言い様のない感情に囚われた。まるで奴隷の気持ちだった。もっと正確にいうなら奴隷の身でありながら奴隷を売る商人のようだった。私が何を知っているのだろうか? おかしいと気づくべきだったのだ。私は下界に背を向けて空中で横たわり、そのまま翼に込めた力を抜いていったーーつまり重力に身を任せた、そして胸の前で両手を組んだ。どうしてそうしたのか何の理由も説明できない。理解を拒んだわけでも説明を放棄したわけでもなく、身体が勝手にそうしたから、それ以上に説明できないのだ。……いや、それは誤りかもしれない。ただ胸が誰もいない森のように、はたまた嵐の海のようにざわついて、私はこれに足る言葉を私の中に探した。墜落しながら、そして私はそれを見つけた。さっきの話は撤回しよう、私はこの“祈り”を説明できるたったひとつの言葉をついに得た。私は厚い雲から差す光芒を憶い、目を瞑った。
これは“畏れ”かもしれなかった。