第一章 変事
行間
またしても冬が訪れた。
雪が木々に積もり、枝を低くしなだらせている。積雪が大地の本来の姿を覆い隠し、大小ふたつの足跡が遠くへと伸びている。
「わあ!お父さん、見て!梅の花がいっぱいだよ!」
幼い上条伏嗣は目を大きく見開き、遠くを眺めながら、思わず足を止めた。
「はは、相変わらずこれが好きなんだな。もう追いつけないよ」
上条真源が後ろから小走りで追いかけてきた。
梢には梅が咲き誇り、寒風が肌を刺す季節の中、木々のてっぺんに降り注ぐ陽光が格別に暖かく感じられた。
「今日は絶対に負けないぞ!」
上条伏嗣は高らかな声で宣言し、前方の梅の木へと走り出した。
「僕も今日は全力を尽くすよ」上条真源はそう言うと、すぐ近くの別の木へと向かって歩き出した。突然、真源の左腕に伏嗣の雪玉が命中した。真源はうつむき、頭を守りながら、目標へと急ぎ足で向かう。
「やった!先制攻撃成功!お父さん、頑張ってね!」
作戦成功の伏嗣は、真源に向かって「Vサイン」を送りながら、自分が完全に真源の射程圏内に入っていることをすっかり忘れていた。
「攻撃するよ、気をつけて!」
そう言いながら、真源はさっき作ったばかりの雪玉を手に取り、伏嗣の額に向かって投げつけた。「うわあ!」という悲鳴とともに、真源の雪玉は寸分の狂いもなく伏嗣に命中し、衝撃で彼は思わず後ろに倒れこんだ。
「うっ……痛い……」
雪の上に倒れた伏嗣は額を押さえ、雪の上でくるくる回っていた。
「ごめんね、力加減を間違えたみたい……伏嗣、大丈夫か?ごめん、お父さんが悪かった……?!」言葉が終わらないうちに、真源は突然飛んできた雪玉を額に受けた。続いて、腹部にも攻撃が加わった。
「ははっ、お父さん、罠にかかった!俺の入念に練った作戦はどうだ?どうやら俺の勝ちみたいだな!」
地面に倒れていた伏嗣は跳び起き、胸を張り、腰に手を当てて目を閉じた。時々真源の方をチラリと見ながら、褒め言葉を待っていた。
「はは、伏嗣の勝ちだね。こんなに賢くなるなんて思わなかったよ。これからは僕も慎重にしないとね」
真源はうつむき、伏嗣の頭を優しく撫でながら、温かい笑みを浮かべた。そして、真源は伏嗣の手を握った。
「ん?もう帰るの?」伏嗣は真源を見上げて尋ねた。
「うん、そろそろ日も暮れてきたし、伏嗣も十分楽しんだだろう?」
「うう……わかった……」伏嗣はうつむいた。
「お父さん……次は……冬に帰ってくる?」
「うん、帰るよ。その時はまた一緒に遊ぼう」
「約束……できる?」伏嗣はやや落ち込んだ様子で、真源に右手の小指を差し出した。
「うん、約束する」真源も右手の小指を伸ばし、伏嗣の指に絡めた。指先から伝わる温もりが伏嗣の全身に広がり、心の中の雪が溶けていく。雪だけの日々の中で、何かが咲き始めていた。
お父さんもきっと喜んでいるはずだ。
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**0**
部屋の中は、恐ろしいほど静かだった。
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「ッ!」
上条は突然目を覚まし、ベッドから飛び起きた。そして周囲を茫然と見渡した。
「……?」
辺りを見回す。ここにあるものは全て見覚えがある。彼は次第に朦朧とした意識から正気を取り戻した。
ここは彼の家だった。
「頭が……痛い……」
上条は乱れた髪を揉みながら、ここに来る前に起きた出来事を必死に思い出そうとした。
どうやら不良少年を倒し、ぼんやりとした意識の中で突然現れた香鈴の姿を見た。その後のことは何も覚えていない。
「ということは……香鈴が連れ戻してくれたのか……」
上条は窓の外を見た。すでに夜は更け、星がちりばめられていた。
「……」
上条は自分の右手を見た。
紋様に覆われていた右手は、すでに正常に戻っていた。
「……一体……どういうことなんだ……」
「虚無理論」。彼の体内に潜む未知の力。
発動条件は不明。発動するたびに、異なる効果が現れる。
時には「解析全能」、あらゆる魔力の流れと術式の構成を見抜く。時には「異象絶禁」、あらゆる魔法現象を消し去る。
これらの能力は例外なく右手に現れ、魔力値の瞬間的な急上昇を伴う。
しかし、時折「虚無理論」が発動しても右手に何の変化も現れず、魔力値は依然としてゼロのままなことがある。その代わり、左手に淡い紫色の鱗と鋭い爪が現れる。
まるで、竜の爪のようだ。
左手の能力は不明。なぜなら、幼い頃に一度だけ現れて以来、二度と現れていないからだ。
だが、左手であれ右手であれ、効果が終われば、彼はまた魔力値ゼロの普通の人間に戻る。
「はあ……これが運命の悪戯か……」
その時だった。
「ピピピピピピ!」
居間にある固定電話が鳴り響いた。
「?」
上条はベッドから飛び降り、一歩一歩居間へと向かった。
「こんな時間に……誰からの電話だ……?」
彼が知らないのは、この一本の電話が、彼の長きにわたる平穏な生活を打ち破るものだということ。彼を巡る巨大な陰謀が、今、幕を開けようとしているのだ。
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**1**
「ツー……ツー……ツー……」
父親が亡くなった。
「……」
固定電話は保留音を発し、コードが電話機をぶら下げて空中で揺れていた。
上条伏嗣は電話機のそばに蹲り、沈黙していた。
突然すぎた。
母親からの電話。何か用かと思えば、父親の訃報だった。まったく無防備な状態で。
父親は約束を破った。これから一緒に梅を見ようと、毎年冬には帰ってくると、永遠に上条のそばにいると約束したのに、もう二度と帰ってこない。
父親は大嘘つきだ。
(なんか……すごく疲れた……)
上条は疲労感を覚えていたが、頭は常に冴えていた。ただ眠りにつき、翌日目覚めたらこれが夢だったと思いたかった。
しかし、それは不可能だ。ここは現実だ。必死に自分にこれは夢だと信じ込ませようとしたが、結局自分の心を欺くことはできなかった。
父は逝った。それが事実だ。
上条は何もしたくなかった。ただここに座り続け、父が迎えに来るのを待っていたかった。
彼の目尻が次第に赤くなっていく。
両手で目元を覆い、誰にも涙を見せまいとした。父は言っていた、男の子は簡単に涙を見せるなと。だが、もう父は上条の涙を見ることはない。
「お父さん……」
上条は唇を強く噛みしめ、感情を必死に抑え込もうとした。父は言っていた、もし自分が死んだら、それは避けられないことだから悲しむな、ただ前を向いて進めと。
だが、もう父には見えない。
「明日7月31日15時から17時にかけ、臨沂市では大雨から豪雨の恐れがあります。市民の皆様は十分な対策を……」
部屋にはテレビの音声が響き渡り、かえって静けさを際立たせていた。壁の時計がカチカチと音を立て、針は8時34分を指していた。外はすっかり闇に包まれている。
上条は依然として微動だにしなかった。彼はあらゆる願い、あらゆる考えを放棄していた。ただ眠りたかった。あまりにも疲れていた。母親から父がいつ亡くなってもおかしくないと聞かされていたにもかかわらず、その日が来ると、彼が必死に築き上げた心の防壁は一瞬で粉砕された。
「僕は……ちゃんと……お父さんの言うことを聞かなきゃ……しっかりしなきゃ……」
上条は必死に立ち上がろうとしたが、足はまだ力なく、どんな動きも支えきれなかった。眠気が襲ってきた。
「すごく眠い……じゃあ、まず寝よう……」
眠りから覚めたら、すべてが良くなっていることを願った。たとえ彼の悲しみも、和らぐことを。
それが父の最後の願いだった。
「……?」
しかし、彼は長くは眠れなかった。翌日まで眠り続けることもなく、窓の外は相変わらず真っ暗だった。
9時50分。
「グーグーグー~」
彼の腹が時を選ばず鳴った。
「……お腹すいた」
そういえば、今日は一日中何も食べていなかった。今になって空腹を感じるのは当然だ。
「……お父さんが言ってた……ちゃんと生きなきゃって……」
上条は体を丸め、父の一言一句を必死に思い出そうとした。父が生きている間は守れなかった約束を、父が逝った今、一つ一つ拾い上げなければならない。あの世で父に心配をかけるわけにはいかない。
彼は必死に体を支え、壁に寄りかかりながら、ゆっくりと立ち上がった。コンビニに行かなければ。さもなければ父が悲しむ。
「……これは自己欺瞞かもしれないけど……もう誰にも悲しんでほしくない。僕自身も含めて」
彼は一歩一歩と玄関へと歩み寄り、ドアノブを必死に回し、ついに家を出る最初の一歩を踏み出した。
10分後。
「ありがとうございました!」
上条はコンビニから出てきて、大きなスーパーの袋を手に提げていた。
「うっかり……買いすぎた……」
上条は少し後悔した。これだけの量を一人で食べきれるはずがない。しかも、いつの間にか食材まで買ってしまっていた。彼には料理をする気力など全くなかった。悲しみに浸りすぎていたせいだろうか、今でも少しぼんやりしていた。
家に帰る途中の路地を通り、父を思い出しながら、買ったパンの袋を破り、かじろうとした。
「?」
ふと、奇妙な感覚がした。
(さっき……風向きが一瞬で変わった?)
一瞬で風向きが180度変わり、風速も微風から強風に変わった。どう考えてもおかしい。何らかの大型機械がタイミングを計って変えたのでなければ、明らかに人為的なものだ。
しかし、人間が自力でこれほどまでに自然を変えられるものだろうか?
……
(やめよう……考えても仕方ない)
上条はこれ以上考えることをやめた。風向きの変化は彼に何の影響も与えない。何よりも、彼にはこうした奇妙な問題を考える気力が残っていなかった。ただ早く家に帰りたかった。
石畳の小道をまっすぐ進むと、すぐに自宅に着いた。
「リンリンリン……」
上条の携帯電話が鳴った。彼はポケットから携帯を取り出し、発信者を確認すると、通話ボタンを押した。
「ん?お母さん?こんな時間に……まだ起きてるの?」上条はソファに座り、電話の向こうの母・逢坂雨汐に尋ねた。
「まだ寝てないよ!今寝る方がおかしいでしょ!ロンドンは午後3時だよ!時差を忘れちゃダメよ」
向こうの母は文句を言った。
「ああ、そうだった……」
上条は少し気まずさを感じた。
「ところで伏嗣、気分は良くなった?やっぱり突然の知らせだったから……もっと後で言うべきだったかな……」
「大丈夫、心配しないで」上条は母をなだめた。「もう心の準備はできてるよ。数日もすればきっと大丈夫。だって……これもお父さんの願いだから」
しかし、上条が不思議に思ったのは、伴侶を失ったにもかかわらず、母は非常に元気そうで、まったく動揺している様子がなかったことだった。午後に父の死を伝えた時もそうだった。しかし、考え直せば、彼女が一番に知らせを受けたのだから、上条よりも早く衝撃と無力感を味わい、伴侶を失う苦しみを誰よりも深く知っているはずだ。だからこそ、人一倍気を遣っていたのかもしれない。自分にはまだ子供がいて、果たすべき責任があることに気づいた。もし彼女がこの感情に浸りきってしまったら、誰がこの家を支えられるだろうか?だからこそ、彼女はしっかりしなければならなかった。最愛の人のためにも、子供のためにも。
そして今、彼女は苦しむ上条を奮い立たせなければならない。おそらく、これが彼女の平静な口調の背後にある深い理由なのだろう。そう考えると、上条は思わず軽く笑ってしまった。
「じゃあ、早く休んで、しっかり体調を整えて、それから頑張って生きていきなさい!そっちはもう遅い時間だろうから、切るね」
「頑張って生きていくか……」
上条は携帯電話を閉じ、ベッドに横たわりながら、母の言葉と父の面影を思い出した。彼は幸運だった。こんなにも素晴らしい家族に恵まれ、たとえ不幸に見舞われても、すぐに立ち直れるのだから。
「僕の幸せって、本当に価値があるのか?」
しかし、上条は少し自責の念に駆られた。世界には苦しみにあえぎ、不測の事態に直面している人々が大勢いる。なぜ自分だけがこんなにも平穏な世界で心安らかに生きていられるのか?これらは本来、自分にはふさわしくないものだ。才能もなければ、得意なことも何もない。彼が得たものはすべて、運命がそう定めていたからに過ぎない。
もし可能なら、本当にもう不幸がなくなり、誰もが笑顔で明日を迎えられるようになってほしいと願った。
彼には現状を変える力などない。ただそう願うことしかできない。
ただそれだけだ。
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**2**
**7月31日、14時20分。上条は不測の事態に見舞われた。**
1時間前。
「……」
家が停電した。どうやら昨日のあの奇妙な風が続いており、ついには一本の木を倒してしまったらしい。その木がたまたま電線に絡まり、アパート全体が停電した。
「ついてないな……」
上条はイライラした。電気がないと、上条の家はまるで蒸し風呂だ。連日の猛暑に加え、風通しの悪い部屋はサウナそのものだった。
「じゃあ……散歩に行くか?」
上条は躊躇した。正直言って、可能なら外出は絶対に避けたい。彼は筋金入りのインドア派で、「出かけずに済むなら絶対に家から一歩も出ない」を信条としており、一ヶ月の外出回数は3回を超えなかった。
しかし、今の状況では選択肢はなかった。このまま家にいたら、その場で気を失いそうだった。上条はため息をついた。
「仕方ない、少し歩いてこよう」
上条は父の言葉を思い出した。父はいつも上条にもっと外に出て世界の美しさを感じてほしいと願っていたが、上条はまったく耳を貸さなかった。しかし父が逝って初めて、父の言葉、父が彼の手を引いて街を歩いた時間を懐かしく思うようになった。
「……僕はいつも失ってから……その価値に気づくんだ……出かけよう、せめてお父さんのために」
そうして、上条はドアを開け、外の世界へと一歩を踏み出した。
……
「?」
しかし、上条の予想に反する事態が起きた。ドアを出た瞬間、彼は意識を失った。気がつくと、自分は郊外にいた。
周囲は密生した森に囲まれ、外界と繋がっていると思われる草一本生えていない小道以外、脱出できる道は見当たらない。
「どういうこと?」
上条は必死に状況を理解しようとしていた。その時、一人の少女が彼の前方の木陰からゆっくりと歩み出てきた。
「『指定吸引アトラクション』、術式発動成功」
少女は無表情に告げた。
銀灰色の絹のような髪、琥珀色の瞳、無感情な表情、白い聖職者のようなローブを身にまとった少女。上条は確信した、目の前の少女を見たことは一度もない。彼は深い疑問を抱いた。
「えっと……君は?」
「コードネームP0327、執行課・花奏祈羽、大主司の命により、残存者の掃討に参上した」
上条伏嗣が少女の言葉を理解するには、しばらく時間がかかった。
特定の術式、執行課。これらを考慮すると、可能性は一つしかない。
魔術師。
伏嗣の父、上条真源も魔術師だった。だから上条はこの連中の行動原理と手段をよく知っていた。その名の通り、魔術師とは魔法を自在に操れる者のことだ。彼らは組織の制約を受けず、ただ己の考えのみで行動する。そのため、時に甚大な罪を犯し、時に恩恵をもたらすこともある。この理不尽な行動を取る者たちを憎む者は多く、魔術師という身分は常に襲撃され死亡する可能性を意味する。おそらく伏嗣の父の死も、彼の魔術師としての身分と関係があるのだろう。
そして執行課とは、魔法を乱用し生ける屍の山を築いた魔術師を排除する任務を担う。
目の前に立つ、13、4歳にしか見えないこの少女こそが、殺戮を任務とする者なのだ。幼いながらも、これほどの重責を背負わされている。
「くっ……」上条は心の中で呪った。事の経緯はわからなくとも、子供にこんなことを強いる連中を心底嫌悪した。
「あの……君、人違いじゃない?僕は魔術師じゃないよ。ほら」
上条は少女に説明し、証明するために右手を差し出した。必死に属性を凝集しようとしたが、手には何の変化も起きなかった。これは上条が魔術師ではないことの証左だった。むしろ、上条は魔法すら使えなかった。
しかし少女は聞く耳を持たないようだった。上条の説明を聞きながらも微動だにせず、虚ろな目で上条を見つめているだけだった。
すると、少女は一歩前に踏み出し、同時に呟いた。「方向変更、圧縮」
一瞬で、少女は上条の眼前にいた。強大な風圧を伴い、上条は目を開けていられなかった。上条が何が起きたのか理解する間もなく、腰を落とした少女のアッパーカットが肉眼で捉えられない速さで放たれ、上条の顎を強打した。
「?! 」
上条は状況を全く理解できぬまま、突然の一撃を受け、体が後ろに反り返った。上条が反応した時には、すでに地面に倒れていた。周囲で吹き荒れる強風が上条の耳元をかすめ、周囲のすべてが非現実的に感じられた。顔にうずく痛みだけが、自分がまだ生きていることを認識させた。
(くそっ……)上条はもがきながら立ち上がり、心の中で呪った。(一体何が起きたんだ?なんで突然わけもわからず殴られるんだ?なんで彼女の動きが見えなかったんだ?そもそも、なんで彼女は「掃討」だとか言って僕を襲うんだ?くそ、一体全体どういうことだ?!)
目眩とめまいが彼の重心を制御不能にしたが、それでも必死に思考を整理しようとした。
「一瞬で任務を終えられず、私の落ち度です」少女の機械的な謝罪口調に上条はますます訳が分からなかった。「今日の風向きは甚だ奇妙で、正確に掌握できません」しかし続く言葉は上条をさらに困惑させた。
「風?」上条は突然見覚えのある感覚を覚えた。
昨日突然変わった風向きは、目の前の少女と何か関係があるのか?人間の肉体だけでは昨夜のような変化は無理だが、魔法を介せば話は別かもしれない。
すべてを繋ぎ合わせると……
もし上条の判断が正しければ、目の前の少女は風を操る魔術師だ。
今日の乱れた風向きのおかげで、上条は少女の一撃で死ぬことはなかった。しかしそれでも、上条の顎はかなりの衝撃を受けていた。目眩がする彼は、このまま膠着状態が続けば、必ず殺されると理解していた。
この窮地を打破する方法はただ一つ。上条はもちろん十分に理解していた。
上条は徐々に足場を固め、試すように手を振った。「どうやら少しずつ制御できるようになってきたな」彼は独り言ちた。
そして突然、彼は反対方向、つまり少女から遠ざかる方向へと走り出した。
「ん?逃げるの?」少女は首をかしげたが、この状況も想定内のようで、特に驚いた様子は見せなかった。上条は少女の言葉を無視し、その小道をひたすらに駆け抜けた。
逃げ切れば、この窮地を脱出できると彼は信じていた。たとえ後で少女に見つかっても、同じ方法で逃げ切れる。少女は無関係な者を傷つけることはなさそうだったから、追いかけるしかない。ならばひたすら逃げ続ければいい。少女が見つけられない場所へ逃げ込み、そのまま生活を続ければいい。
「今ならすぐに追いつけますが、大主司はその方法をよしとはされないようです」
父もかつて言っていた。魔術師との正面衝突は避けろと。非魔術師である上条が魔術師と戦っても勝ち目はなく、逃げるのが最良の選択だと。魔術師は強大な力を持つが、ごく一部の広範囲探索術式を使える者を除けば、大半の魔術師は狭い範囲の探索術式しか使えない。そしてこの少女はそのごく一部には属していないようだ。ならば術式範囲から逃れさえすれば、この少女が再び彼を見つけるのは難しくなるだろう。
「それ故、掃討任務開始前に、大主司は私に別の任務を下されました」
人質を使って上条を脅迫されないよう、妹も一緒に逃げるつもりだった。妹も今この街にいる。逃げるルートに妹の住所を組み込めば万全だ。生活が落ち着いてから母に状況を報告しよう。上条はそう考えながら、外界への第一歩を踏み出そうとした。これで二度とこんな窮地に陥ることはないだろう。
「それは、上条香鈴の拉致です」
「?! 」
上条の足は、宙に浮いたまま止まった。
上条香鈴。上条真源の子であり、上条伏嗣の実の妹。
「くそっ!そこまで計算済みか?!」
上条は少女に向かって怒鳴った。もし家族が巻き込まれるなら、彼には戦う理由がある。もうこれ以上失いたくなかった。
「これは大主司のご命令。私は命に従って行動しているだけです」
少女は上条の怒りに依然として無反応だった。周囲の木々が突然激しく揺れ、上条も強烈な風圧を感じた。危うく後ろに吹き飛ばされそうになり、必死に踏ん張って激しい風波に抗った。
戦うしかない。上条は心の中でそう決意した。
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**3**
上条は少し躊躇したが、突然右拳を振りかざし、少女に向かって素早く突進した。しかし少女は何の動きもせず、無表情に右手を一振りしただけで、前進する上条の足は進むことができなくなり、吹雪に遭ったかのようだった。そしてゆっくりと元の位置に押し戻されてしまった。
少女はゆっくりと腰を落とし、右拳を背中に隠した。何かを準備しているようだ。続いて、少女は一歩前に踏み出した。空間を引き裂くような爆発音とともに、少女は一瞬で肉眼では捉えられない速度で上条の目前に現れ、右拳を上条の腹部へと強烈に叩き込んだ。
「?! 」
上条は尋常ならざる衝撃を感じた。まるで時速100kmのスポーツカーが腹部に直撃したかのようだった。上条の体は制御不能に後方へ吹き飛び、地面に接触するとさらに数メートル転がり、ようやく止まった。
全過程、2秒に満たなかった。
(くそっ……)上条はもがきながら立ち上がった。(さっき一体何が起きたんだ?なぜ彼女は一瞬で俺の前に来られた?風向きを利用して自分の運動エネルギーを増幅させたのか?)
しかし、少女は考える時間を与えるつもりはなかった。
次の瞬間、少女は再び一瞬で上条の目前に現れた。思考中の上条に突然猛烈な風が襲いかかり、風圧で彼はまともに目を開けられなかった。少女は低く身構え、超音速で動くチーターのように、獲物を虎視眈々と睨みつけながら、上条の顎へアッパーカットを放った。
(!)
上条は過程を考える暇もなく、体を自ら後ろに倒した。一撃必殺のアッパーカットを受けるより、わずかな痛みを代償にこれをかわす方がましだ。少女の拳は上条の顔の前をかすめ、この一撃は空を切った。
(なんだこれ?!昇龍拳かよ!)上条は思わずゲームの技を連想した。
空を切ったアッパーカットを引っ込めると、少女の拳は再び目前の上条を狙って放たれた。拳の一撃一撃が激しい強風を伴っていた。
(やばい!)上条は体を横に転がした。少女のこの一撃は地面へと直撃した。
この一撃は明らかに上条を殺すために放たれていた。少女の手は、地面に深くめり込んだ。
この隙に、上条は慌てて立ち上がり、少女から遠ざかる方向へと走り出した。接近戦では彼女の敵ではない。彼には使える道具が何もない。このままでは確実に死ぬ。
少女は腕を地面から引き抜いた。右拳の拳峰からは血が流れていたが、彼女はただの感情のない殺戮機械のようで、すべての痛覚感知細胞を遮断し、まるで何事もなかったかのようだった。
少女は上条の方を見て、血に染まった右拳を握りしめ、無表情のまま、ゆっくりと一歩一歩上条へと近づいていく。その足音一つ一つが、上条を窒息させそうだった。
(警戒、油断するな!早く勝てる方法を見つけ出さなければ!)
上条は唾を飲み込み、緊張しながら少女の一挙一動を凝視し、何度も自己暗示をかけた。
続いて、少女が突然突進してきた。上条はわずかに白い残像を捉えただけで、少女は一瞬で彼の目前に現れ、右拳を握りしめ、上条の胸をめがけて強打した。
上条は行動を起こす間もなく、砲弾のような右拳が上条の胸板を直撃した。強大なエネルギーが上条の体内に移行し、内臓が激しく震え、彼は真っ直ぐ後方へ吹き飛ばされた。
(早く考えろ……早く!何か方法を考えろ!)
空中にいる上条は、脳裏で散らばった思考を必死に整理しようとした。
相手は風を操れる。「風魔法」の使い手。
相手は事前に風の軌道を予測する必要がある。
風の予測は極めて正確でなければ、全力を発揮できない。
着地した上条は、何度も転がってようやく止まった。頭の中でようやくまとめた考えは、転がるうちにぐちゃぐちゃに攪拌されてしまった。
彼は必死に体を支え、思わず血を吐いた。さっきの一撃はかなりの衝撃だった。もう一発喰らえば、確実に重傷で気を失う。その時は必ず死ぬ。
しかし、それでも窮地を脱する方法が思いつかない。
(くそっ……これが結末か?)
彼は悔しかった。父にちゃんと生きると約束したのに、その約束を果たす間もなく、突然の災難で死ななければならない。とても頑張りたいと思ったが、少女の魔術師という身分は越えられない壁のようで、息が詰まりそうだった。
彼は香鈴のことを思い出した。人生で最も楽しかったこと、最も印象深いことを思い出した。昨夜、一人で体を丸め、家の隅で縮こまっていたことを思い出した。
……
(待て)
上条は突然何かを思い出した。腕時計を見ると、2時58分を指している。
(もし記憶が正しければ……)
上条はよろめきながら立ち上がり、脳をフル回転させた。どうやら一つの方法を思いついたようだ。
この方法を実行するには、賭けに出なければならない。彼がずっと疑っていたことを。
(……賭けてみるのも、じっと死を待つよりはましだ)
上条の自信が徐々に燃え上がった。彼の眼差しは強固になり、前方で無反応な祈羽を見据えた。
彼は少女に向かって「5」の手を掲げ、ゆっくりと顔を上げた。「これから、5分以内にお前を倒す」目にわずかな冷たさが浮かんでいた。
「?」
上条の挑発に対し、少女は一瞬ためらいを見せたが、すぐにまた冷たい表情に戻った。
少女の右拳が上条の顔面を目がけて放たれた。しかし少年はただ軽く後ろに反らすだけで、その必殺の一撃をかわした。
拳を引くと、少女は一瞬でストレートを繰り出し、腹部を狙った。しかし少年はただ軽く体をかわしただけで、この一撃は空を切った。
「……?」
少女は少し驚いた様子を見せたが、次の瞬間には元の表情に戻っていた。彼女は十数メートル後退し、ゆっくりと右手を掲げ、何かを唱え始めた。
すると、次第に光り輝く球体が彼女の手の中で凝縮し、拡大していった。同時に周囲の風も激しく渦巻き、球体はブラックホールのように周囲の空気を吸い込んでいく。
「もう終わりです。これほど長く耐えた者、あなたが初めてです。誇りに思うべきですよ」
彼女はこの一撃に絶対の自信を持っていた。
彼女は真っ直ぐに少年を見つめた。少年の目の前で乱れた髪が彼の顔を隠していたが、彼女はかすかに少年の口元を捉えることができた。
彼は笑っていた。
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
少年は狂ったように笑い続けた。奇妙な関節音を伴い、目の前で乱れた髪はまるで精神を病んだ患者のようだった。
少年は両腕を広げ、体を「大」の字にした。頭を上げ、目を閉じ、この一撃を正面から受け止める準備をしているようだった。
「あなた……?!何をしているの!」
少女はかなり驚いた様子だった。少年がこれほど無謀なことを選ぶとは思わなかった。しかし彼女は動作を止めることはなかった。
「あなたが……こんな狂気じみた行為を選んだのなら、私も全力を尽くすべきでしょう」
光る球体は膨張を続け、すでに上条を完全に飲み込める大きさになっていた。少女は全力を尽くすことを決意した。
しかし上条はそれを無視し、依然として元の姿勢を保っていた。
「終わりです。さようなら」
球体が限界まで膨張した時、少女は別れの言葉を告げ、右手を振り下ろした。
ところが、
「……?」
光る球体は何の動きも見せなかった。
少女は怪訝そうに顔を上げ、確かめようとした。
しかし彼女が見たのは、さらに恐ろしい光景だった。
その巨大な物体は、数秒のうちに跡形もなく消え去った。
この奇妙な現象に対し、上条は依然として意に介さず、まるですべてが彼の予想通りで、彼自身が仕組んだことであるかのようだった。彼は静かにこのすべてを感じ、そよ風のように心地よさを感じていた。
「一体……どういうこと?」
少女は少し慌て始めた。彼女の指先がわずかに震えていたが、平静を装って自分に言い聞かせた。
「きっと……どこかで問題が起きたんだ。だから……さっきのように……もう一度……」
少女は右手を高く掲げた。再び風の力を凝縮しようとした。
しかし、
今度は何の変化も起きなかった。微風がそっと吹き抜けるだけで、彼女の風魔法は何の効果ももたらさなかった。
ようやくその時、少女は何かおかしいことに気づいた。
彼女の視界が、次第にぼやけてきたのだ。
いや、正確には何かが彼女の視界を覆い、周囲を見えなくさせている。
その時、奇妙な感触が少女の掌に落ちてきた。彼女はようやく何が起きているのかを理解した。
雨が降っているのだ。
少年は両腕を広げ、天からの恵みの雨を浴びていた。まるで聖水の洗礼を受けるキリスト教徒のようだった。それから彼はゆっくりと両腕を下ろし、顔を上げ、地面にへたり込んだ少女をまっすぐに見つめた。
少女は右手の掌を見た。指先で再び風魔法を凝縮しようとしたが、周囲の風は完全に彼女の制御を離れていた。
少女は諦めきったように苦笑した。風の力を失った彼女は、たかが14歳の普通の少女に過ぎない。誰でも簡単に打ち負かせてしまう。
少女は力なく顔を上げ、前方の少年を見た。雨粒が彼の髪を濡らし、その顔を隠していたため、彼女には彼の顔がはっきり見えなかった。
少年が一歩前に踏み出した。
少女は突然奇妙な感覚を覚えた。思わず自分の手を見た。雨で視界はぼやけていたが、それでも彼女は自分の腕に少しずつ現れる鳥肌と、逆立つ細かい毛をはっきりと見ることができた。
恐怖。
「はは……」
少女は力なく上条を見つめ、諦めきったように笑った。
少年の足元で、水しぶきが一つまた一つと跳ね上がる。少年は何も言わず、無表情で歩き続けた。
足取りが次第に速まる。
あと8メートル。
「終わったね……」
少女の声は次第に震え、脱力感が全身を満たした。
上条はただ歩いていた。
あと3メートル。
「……ごめんなさい……」
少女はうつむき、地面を見つめた。次々に跳ね上がる水しぶきを見つめた。
少年はただ歩いていた。
少年が最後の一歩を踏み出し、少女の前に立った。
「大主司……」
少女は少年の顔を見上げ、感情のない彼の瞳をまっすぐに見つめた。全身の力が完全に奪われた。
少年はゆっくりと右拳を上げた。
そして、
少女の顔面を打った。
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**4**
終わった。
上条が少女に放った一撃は、それほど強くはなかった。しかしおそらく少女の恐怖心のせいで、彼女は気を失った。まさに自業自得だった。
しかし、それで良かった。上条はそう考えた。
実際のところ、上条のあの無敵の状態は全て演技だった。彼は賭けに出なければならなかった。少女が自分の行動に影響されることを賭けて、雨が彼女の体感による風向き判断を妨げることを賭けて、豪雨の中で彼女が周囲を見通せなくなることを賭けて。
上条の賭けは当たった。少女は最初の判断ミスで動揺し、上条の神がかった演技が、上条の勝利を決定的にした。
「……結局のところ、まだ子供なんだな……」上条は感慨深げにつぶやいた。もし相手がもう少し大人びていたら、上条がこれほど苦戦することはなかっただろう。
そして、彼は致命的な問題に気づいた。
この少女を、どうする?
(ここに置き去りにする?それは非人道的だ。こんな小さな少女を一人で置いていくのは、何が起きるかわからない。しかも今は豪雨の最中だ。溺れ死ぬかもしれない。じゃあ家に連れて帰る?いやいや、それもあまりに酷い。俺上条伏嗣がそんな軽々しく家出少女を連れ去るような人間じゃない)
しかし、この選択肢以外に、この少女を処置する最適な方法はなさそうだった。
(……たぶん、こうするのが一番いいかな?)
上条はそう考えた。彼は地面に横たわる少女をじっと見た。真っ白だった聖職者のローブは泥に染まってすっかり濁り、地面に倒れ込み、銀灰色の髪は乱れ放題に広がり、雨に浸されていた。彼女の目は閉じられ、微かに開いた唇には次々と雨水が流れ込んでいた。
上条は地面に倒れている少女を背負った。背中から伝わる柔らかな感触に上条は顔を赤らめたが、すぐにまた元の表情に戻った。
今の急務はまず家に帰ることだ。
立ち去る前に、上条は腕時計を見た。
針は3時07分を指していた。
「……作戦計画、完全に失敗したな」