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05.王宮を目指して

 二筋の月光が、動き出した創世の女神像の道行を照らしていた。

 翡翠ひすい色の女神の素肌は陽光を浴びる人間が血の色を透かすように、月明かりを受けて白緑びゃくろくの光を放ち、淡くなまめかしい輪郭を夜闇の幕に描き出す。


 滑らかな女神の魔鋼まこう装甲は、アリアンヌの白い素肌を宿すようでもあった。

 乙女の柔肌だけではない。令嬢の豊かなプラチナブロンドを想起させる、エメラルドの如くに輝く女神の長髪が、夜風を孕んでなびくのである。


 すでに人神一体、神像と化した侯爵令嬢のアリアンヌであるが、淑女らしさをいささかも失いはしない。優美な足取りで未だ宴たけなわであろう夜会の会場を目指し、歩みを進めていた。


 しかし、石畳で舗装された道筋は、人の足と馬車が行き交うためのもの。推定重量四千五百トンもの女性の素足が踏みしめることを、想定していない。

 路面がえぐられ巨大な足跡をつけた様を見てアリアンヌはすぐさま、街道を逸れ草地を歩き、森の樹々を踏みしめることとなった。


 女神像の王都訪問の道行は、出立よりさほどの刻をかけてはいない。ゆるりと足を運ぶだけでも女神の歩みは、常人からすれば疾風の如きであった。


 大聖堂は王都城壁の外、王宮から機獣馬の足で小一時間ほどかかる距離にある。だがその半分の刻も要さずに、アリアンヌは城壁の目前にまで迫ろうとしていた。


 ――夜風がこんなに心地よいなんて、知らなかったな。

 初めて経験する深夜の散歩を、アリアンヌは素直に楽しんだ。


 身体操作のみならず、五感に至るまでアリアンヌと神像との同調は進んでいた。肌を撫でる風の優しさを感じた。耳をすませば、虫の鳴く声、獣の息づかいまでもが聞こえてくる。足に触れる樹木は魔鋼製の表皮を通じて、柔らかな下草を素足で踏みしめるに等しい心地よさを、アリアンヌにもたらした。


 知らず乙女の足取りは軽くなり、スキップを踏み始める。

 地を打ち震わす振動が、神像の総身を心地よく揺らした。


 だが、アリアンヌは気づかない。

 令嬢の足が刻むステップが、大地の慟哭となって王宮にまで届いていたことを。


    §


 王宮では華やかな夜会、城下は各国から訪れた旅客によって大いに賑わう――浮かれた夜であるのに、守備隊のオルロは王都を囲む城壁の上、鋸壁きょへきの隙間から城下を見下ろし、何度目かのぼやきを漏らしていた。


「こんな日に夜番なんてよお。どうせ守るんならよう、おらぁ、ルーチェちゃんの土手を守りたかったあよお」

 言いながらオルロは、酒瓶に残った最後の一滴を、肥えた喉の奥へと流し込んだ。


「ぼやくなぼやくな。酒の配給があったんだぞ、ありがたいじゃねえか」

 細身の守備兵が自分の酒瓶をくゆらせる。オルロの相方、同僚のジェムスンは祝いの支給品を大事に飲んでいたのか、手にする酒瓶にはまだ酒が半分残っていた。


「それはそれ、これはこれよう。だいたい守備たって、おれらがやるのはあいつらのご機嫌とりだけだろうがよう」

 酒精の強い北方の酒を生のまま吞んで、男の舌はすっかりもつれている。


 オルロは城壁から等間隔にせり出す側防塔の頂に座す、守護機獣ガーゴイルに向けて顎をしゃくった。夜目が効き、人より遥か遠くまで見通せる有翼の悪魔像は、この国で掘り出された発掘機獣のひとつである。


 人間が起きていようと寝ていようと、守護機獣は休むことなく外の世界を見張っていた。だが、大陸統一の成った今、王都を攻める者などありはしない。


 機獣は彫像よろしく微動だにしない――はずであった。

 悪魔像の一体が、あり得ない異変に反応した。


 チチチチチッ――待機状態からの復帰音が鳴った。うつむいていた悪魔が、首をもたげる。しかしなぜか、敵襲を知らせる警告音を発しない。みじろぎせず、遠く大聖堂のほうを見据えていた。

 不意に、下から身体を突き上げるような揺れが、城壁を震わせた。


「ひっ、な……なんだあ?」

 慌てたオルロが酒瓶を取り落とす。十メートルほど下にある路地の敷石をしたたかに打ち、ガラスが飛び散る音が響いた。

 下に誰もいなけりゃいいんだが――と通行人の心配をしかけたオルロだったが、ただちに我が身を案ずることとなる。


 ドドッ、ドドッと、感じたことのない大きな音と振動を伴って、城壁がもだえ苦しむ蛇のように、震え出したのである。

 鋸壁のでっぱりにオルロはしがみついた。はらわたがひっくり返りそうになり、激しい嘔吐えずきを必死にこらえた。

 そんな酔っ払いの同僚に向けて、城壁の外を見ていたジェムスンが大声を上げた。


「おっ、おい……見ろ! なんだあれ……っ!?」

 まださほど酔っていなかったジェムスンは、顔を外に向けたまま、手探りでオルロの袖を引っ張った。口元に手を当て嘔吐を押さえるオルロは、むりやりに外壁側へと連れ出され、言葉に詰まった。


「ありゃあ……そんな……」

 ドドッ――

「女神っ――」

 ドド、ドドドッ――

「サマあっ、おぅっ……おげぇぇぇ」

 辛抱たまらず、オルロは胃の中のすべてを石畳に吐き出した。


 となりではブーツに汚物がかかるのも構わず、ジェムスンがどうにか自分の身を支えている。鋸壁から身を乗り出し、地平より迫りくる翡翠色の巨人の姿に目を釘付けにした。


 スキップしながら城壁目掛けて駆けてくる女神像――そうとしか言いようのない、異様な光景。しかし、その所作だけを見れば少女のような仕草にも見える。

 一歩近づいてくるごとに、城壁の震えは大きくなる。不落を誇る堅牢な石壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が次々と刻まれる。


 ついに女神像は巨体のステップを止め、城壁の前にそびえ立った。

 地上から十メートルはある城壁の上、さらに九十メートル頭上にある女神の尊顔を拝そうと、ジェムスンはひっくり返るほどに背を逸らして女神像を見上げた。


 ようやく胃を空にしたオルロは酔いまで醒めたのか、改まった口調でジェムスンに声をかけた。


「おい、王宮にしらせを出さないとじゃあないか?」

 受け応えるジェムスンは、上の空である。

「知らせるたってよ、なんて報告すればいいんだ……」

「そりゃあ、正直に女神さまが――」

 だが、どちらが王宮へ走るべきかと言い交わそうとしたとき、大の男は二人とも、足をすくませその場から動けなくなった。

 女神像が城壁の前で膝をつき、オルロとジェムスンに声をかけてきたのである。



 神像の中でアリアンヌは、慌てるような怯えるような、言いようのない守備兵二人の様子を見ていた。どうやら敵意は持たれていないと安心する。神像の巨体をかしげて膝をつき、できるだけ話がしやすいようにと、男たちのそばに顔を寄せた。


 おずおずと「あの……」と、ひと声発したとたん。


「ひいいいいいいぃ」

 守備隊の男は二人して、小娘のような悲鳴を上げた。互いの髭面を擦り合わせるみたいに、怯えて抱き合った。


「どうか、どうか落ち着いてくださいまし。私――その、信じて頂けないかもしれませんが、アリアンヌと申します。アリアンヌ・ルスタリア、ルスタリア侯爵レムルスが娘でございます」


 できるだけ落ち着いて、しかしまくしたてるように、アリアンヌは震える二人に自身の素性を語り聞かせた。


 こんなときに意外や肝が据わっているのは、オルロのほうである。先に落ち着きを取り戻すと、ジェムスンと抱き合ったまま、女神像に向けて返事を絞り出した。


「アリアンヌ様……て、もしかして、あの侯爵令嬢の……」

「さようでございます、信じて頂けるのですねっ!」

 男二人はがくがくと頭を上下に揺する。オルロは信じ、ジェムスンは半信半疑だったが、どちらの男も肯定する以外の道がない。


 神像の中で、アリアンヌのおもてがぱっと明るくなった。神像は無表情のままである。だが、娘らしい弾む声を巨岩の如き顔より発しながら、アリアンヌはうれしそうに巨人の手を胸元で打ち合わせた。

 ゴオォーンと重たく、地獄の鐘を打つのに似た音が響くと、巨像が合わせた両手の隙間から暴風が吹きだした。


「ほごぉっ……」

 簡素な金属鎧に身を包んだ兵士たちは突風にあおられて、奇妙な悲鳴を上げながら鋸壁に身を打ちつけた。


「ああ、なんてことをっ。ごめんなさい、ごめんなさい」

 ひくひくと震えているが、命に別状はないらしい。どうにか体を起こして、ジェムスンがなだめる声で、女神像に懇願した。


「女神……様。どうかお鎮まり下さい。そのお体の動き一つひとつが、我らの脅威となるのです」

「そう、ですね。私としたことが、すみません」

 胸に構えた手を極力何事も起こさぬように、静かに地に降ろした。ずうんと重たい地響きが城壁を揺らし、干割れた壁から石材が剥げ落ちてゆく。


「それであのう、女神様は何しに来なすったので?」

 素朴な疑問を口にする相棒に、ジェムスンは押し殺した声で「おい、バカ、よせ」とたしなめる。

 神像の聴覚センサーは微細な声もすべて拾っていたが、アリアンヌは聞き流した。それよりも、為すべきことがあるのだから。


「私、王宮へ、コマース殿下の元へ参りたいのです。それで――」

 口にしたとたんに、アリアンヌはしおらしくなる。巨体を揺すってもじもじとする様は、いとけない少女の仕草そのものであった。


「しばらく、身を伏せて下を向いて頂けませんか?」

 城壁の高さは十メートル足らず。神像の足であれば簡単に跨げてしまう。


 しかし、アリアンヌは躊躇した。

 股座を覗かれるのでは――と、恥じらっているのだ。


 オルロとジェムスンは素直に縮こまり、顔を隠してうずくまった。

 とにかく、機嫌を損ねることだけは、避けねばならない。女神が荒ぶりでもしたら――どうにかやり過ごさねばという、男二人にあるのはその一心のみである。


「絶対に、絶対に顔を上げないでくださいねっ!」

 ――ああもうっ。私ったら、なんてはしたない……でも、仕方ないよね。

 自分で自分に言い聞かせ、身を起こし、立ち上がり、片足を振り上げた。

 艶めかしい女神の足が月明かりを隠して、城壁と城下に黒々とした影を作る。

 アリアンヌは〝えいっ〟とばかりに城壁を大きく一跨ぎにした。


 城壁近く、まばらに建つ家並みが大きく揺れた。

 そこかしこから、屋根の瓦が崩れ落ちる音が鳴り、床に就いていた住人たちが飛び起きて何事かと騒ぎ立てる声が聞こえた。

 巨神の姿を見て驚き、悲鳴を上げる声がいくつも夜空に響き渡る。


「ああっ! ごめんなさい。皆さま危ないですから、お下がりくださいませ」

 言いながらアリアンヌは城壁の外に残した片足で地を蹴って、どうにか両足を城下の内に納めた。二つの足が揃ったとたん、ひときわ大きな揺れが起こり、ついに何件かの家屋が倒壊した。

 もうもうとした土煙が家並みを縫うように立ち込めて、どれほど被害が出たものか、闇にも紛れて判然としない。


「ごめんなさい、ごめんなさい。この埋め合わせはきっと、必ず――」

 約束にもならないことを口にする。


巨神のつま先で地面を抜き足差し足し、極力何も踏みつぶさぬよう気を使いながら、アリアンヌは足早に王宮目指して歩き出した。


 派手な足音の忍び足で、女神像は次第に城壁から遠ざかる。翡翠色の巨大な背中を、ようやく立ち上がった守備兵の二人は、鋸壁の間から顔を出して見送った。


「たまげた……女神様って、すっぽんぽんだったんだなあ」

 オルロがぼそりと呟いた。怖いもの見たさに、勝てなかったらしい。

「お前なあ」

「ようく、見えた。守りがいのある、そりゃあ立派な土手だった」

 呆れるジェムスンにオルロは「田舎の親父に、いい土産話ができたよ」と、付け加えるのだった。

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