04.神像の目覚め
神像の輝きが大聖堂一帯を真昼のごとく照らし出してようやく、アリアンヌは周囲に起きる異変に気づいた。
閉じた瞼を越してさえ、辺りが光に満ちていることが分かった。
眩しさのあまり目を開けるには至らない。しかし、自分と女神の存在を結ぶ、血筋の繋がりにも似た不可思議な絆の力を感じていた。
「女神様、ああ――女神様。私の心にやすらぎを……!」
膝まづいたまま女神の光を身の内に受け止めようと、両腕を広げてアリアンヌは思いの丈を叫んでいた。
悲しみに満ちた乙女の想いに女神が応えたのか。
次の瞬間、神々しい光の帯が女神像の胸元、心臓の座すあたりから放たれ、アリアンヌの身体を包みこんだ。
しかして、誰一人、知る者はいない。
女神の放った輝きの、真なる意味を。
数万年の時を超えて再び世を焦がす、創世の女神覚醒を意味する証であることを。
やがて輝きは収縮し、冷えるように消えていった。
祈りを捧げた乙女、アリアンヌと共に。
――そして、もうひとつ。
侯爵令嬢のうしろに控えていたはずのユースチフの姿も、消えたのである。
§
アリアンヌは、闇の中で、目覚めた。
どことも知れない空間に、独りとなっていた。
私、女神さまにお祈りしていて――
「ユースチフ、ユースチフっ、どこなのっ?!」
ただ一人の頼りとなった男の名を、アリアンヌは叫んだ。
だが、返す者はいない。木霊すら返らない。
どれほど広がる闇なのかも、見当がつかなかった。
ただただ静謐な闇へと、砂に撒かれる水のごとくに乙女の声は吸われてゆく。
戸惑い驚く令嬢の耳に、ふいに言葉が届けられた。
どこからともなく、女性らしき声が聞こえたのである。
聞いたことのない、知らない女性の声――いや、耳に聞こえたものではないとアリアンヌが気づくのは、この数瞬のちである。
[N013区女型操者候補個体より、創世機関起動要請を受信――]
――え? 声が、頭に……っ!?
続けて青白い光が空間にまたたき、薄い半透明の板状を形成し、アリアンヌの前に浮かび上がった。板は重なっていたのか、宙を滑って縦横に配置されていく。
見たことのない文字の羅列が、宙に現れた板の上に映し出された。ひとつ文言らしきものが記されるたび、聞いたことのない言葉の音列が直接脳裏に響きわたる。
驚くべきは、学び覚えたいかなる言語とも明らかに異なるにもかかわらず、理解ができたことである。脳が言葉と認識しているだけで、その実は思念そのものなのかもしれない。
アリアンヌは優美な書体の造りと、不可思議な音声の響きから、これが神代の言葉ではないかと想像した。もしくは、これこそが女神の声そのものではないのかと。
[――現生人類の収容を完了]
[遺伝子コード、損耗率13%。起動適正範囲内]
[アストラル光波動、99.9%一致。魂の継承を確認]
[現生人類の女型操者として登録、搭乗を承認。排除シーケンス、停止します]
[女型創世機関、起動シーケンス、開始――]
[全システムの正常動作を確認、テラフォーミングシステム再起動を開始、自律型環境保全サブシステムの稼働を多数確認――エラーを発見……ハッキングの痕跡を確認、解析開始…………現生人類による干渉と推定――]
だが、意味がまったく分からない。
言葉の嵐に、アリアンヌは戸惑うばかりである。
何か大きな事がこれから起きようとしている――とだけ、理解していた。
しかし、不安はなかった。むしろなぜだか、暖かい。
神代の言葉が一節進むごとに、アリアンヌは得体のしれない大きな存在と自分の精神が重なっていくことも、感じていたのである。
自分自身が、巨大な女神の化身とでもなるように膨れ上がっていくような――
ふと、身体そのものが軽くなっていることに、アリアンヌは気づいた。
上体を締め付けるコルセットの戒めが失われていた。
目を落とすと、両足を隠し裾まで広がるスカートが見当たらない。
ドレスが消えて――まるで、裸同然となっていた。
浴室以外で晒すことのなかった姿に近い。
しかし、誰に着せられたのか、見たことのない衣服らしきをまとっていた。
金色をした薄皮のような布地を、宙に浮かぶ青白い薄板が明かりとなって照らしていた。金の衣は首から下を指先とつま先まで、全身を覆っている。
絹とも綿とも違う触れたことのない肌触りの衣服だったが、不快な感触ではない。人に見られれば身体の曲線、細かい起伏や隆起まですべてを知られるような衣装である。だが、誰に見られるでもないこの場においては、むしろアリアンヌに開放的な心地よさを与えていた。
手足には、淡い光そのもので作られた立体的な輪が嵌められていた。体を縛る戒めではなく、むしろブレスレッドやアンクレットのような装飾らしいが、何かの役目を果す装具のようにも見える。
[操者との同期接続を完了。創世機関へのダイレクトアクセスを開始、外部への音声発話を解放――]
再び声が聞こえた。
瞬間、アリアンヌは眩暈に襲われた。
突然眼前に、ユールレヒト魔道王国の風景が飛び込んできたのである。
それも尋常な風景ではない。いうなれば、鳥の視点。
はるか上空から見下ろす、大陸世界の大パノラマが広がっていたのだ。
アリアンヌが目を左右に動かせば、広大な風景もまた左右に振れる。
足元を見ると、自分が今までいたはずのガラスの半球に覆われた祭壇が見えた。
うしろで自分を見守ってくれていたはずの、ユースチフがいない。
「ユースチフ、どこなのっ?!」
事ここに至って薄々、アリアンヌは我が身に起きたことについて、理解し始めていた。自分と創世の女神像が、一心同体となっているのではないかと。
もっとよく自身を確かめよう、ユースチフも探さなくては――アリアンヌは首を動かし、足を上げようとした。
だが、動かない――というより、自分の身体は動くが、女神の体が追従しないという奇妙な感覚。何かかが貼りついて拘束されているような、違和感。
――そうだ、女神さまはお体を崖にうずめるみたいに、お休みになられていた。
大聖堂の前に佇む女神像の姿を思い出し、アリアンヌはまず背中をよじってみた。寝台に沈む自分の身体を引きはがすように、背中を押さえる岩の戒めから解き放たれようとした。
大地が、うねった。女神像を支える崖に、幾筋もの亀裂が走る。
突然、地響きの唸りが、アリアンヌの耳を襲った。
大音声に令嬢は驚き、大きく身をくねらせた。
神像も同じく、巨体をくねらせる。
轟音とともに、崖が崩れ始めた。
背中が持ちあがり、両腕が自由になる。
だが、尻が重い。神体の中では自由なはずなのに、アリアンヌは腰の周りにまとわりつく固い戒めを感じた。
豊かなふくらみがその大きさの分だけ、深く崖の地中にはまり込んでいるのだ。
アリアンヌはすっかり、身体感覚を女神像と共有していた。肘を張り崖に手をつき、身をさらに捩り、思い切り身体を跳ね上げる。
女神像の腰ほどまで、五十メートルもの高さの土煙りが猛然と巻き上がった。
大岩が次々に落ちていった。ようやく、腰の周りが軽くなる。
腿裏もふくらはぎも、勢いよく大地から引き剥がされた。
全身が不意に軽くなり、はずみでアリアンヌが大きく足を踏み出すと、女神の足は大聖堂のクリスタル天蓋を踏み抜いてしまった。
千年以上傷ひとつ負うことの無かった天蓋が、粉々に砕け散った。
クリスタルの小片が夜空に舞い、月光を弾いて煌めきながら、粉雪のように降り積もった。破壊が及び倒壊した大聖堂に、死化粧が施される。
「ああっ、いけない! ユースチフ、まさか私、ユースチフをっ」
青年の身を案じた心中を察したのか、〝女神〟の声がアリアンヌに語りかけた。
[報告:周囲に該当する個体名の現生人類は存在しません。遺体の存在も無し――]
「良かった……どうか、無事でいて」
安堵したアリアンヌだが、すぐに別の異変に気がついた。
砕けたのは、天蓋と大聖堂だけではなかったのだ。
青銅色をした女神像の表層が、細かな亀裂を伴って幾つにも割れ始めていた。隙間からは、緑光の輝きがこぼれている。
生まれ変わるような解放感が、アリアンヌの身の内から湧き出した。
それを自覚したとたん、神像のアリアンヌは大きく身を震わせ、足を広げてしかと大地に立ち、両腕を天に向けて大きく広げた。
永き刻、女神の素肌を守り続けていた純度の低い魔鋼の表皮が剥げ落ちてゆく。
全身を翡翠のごとくに輝かせる、神秘の装甲巨人が現れた。
ついに巨大な女神像は、創世の女神としての真の姿を取り戻したのである。
アリアンヌは大聖堂のほとりにある湖に、神像を歩ませた。
自分の姿を、たしかめたくなったのだ。
月明かりに照らされる湖面は、鏡となっていた。
アリアンヌは前かがみになり、自然の姿見を覗き込んだ。
身の内から放たれる白緑の光が、女神の真魔鋼製外装を翡翠色に輝かせる。
湖面に映り込む女神の姿に、アリアンヌは魅入られた。
美しい。なによりも。そう確信できる存在へと、アリアンヌは化していた。
――これが、私。
私自身が、女神さまになったんだ。私が、私こそが、創世の女神……!
身の底から湧き上がる高揚感がアリアンヌの心を捉えた。万能の想いが乙女の身体と、女神の神体を満たしてゆく。
この力さえあれば――そうだ、この力さえあれば、他国の力なんていらない。
ケイアヌス古王国の、パトリシアとの、あの女の力なんて――いらないんだ!
コマース様に、そう申し上げよう。
きっと、きっと、私のことを見直してくれる。
だって私こそが、この世界の女神なのだから。
だって殿下こそが、私の男神さまなのだから――
魔鋼の令嬢は顔を上げ、立ち上がった。
今も夜会のさなかであろう、王宮の一画をまっすぐに見据える。
自信に満ちた確かな足取りで、女神像は王宮へ向かって歩み始めた。
けれど――
ほんの少しだけ、ほんの小さな痛みが、侯爵令嬢の心に残されていた。
崩れ落ちた大聖堂の残骸に、うしろ髪を引かれて。
ユースチフ――いつも私を支えてくれたユースチフ……彼はいったい、どこへ行ってしまったの……と。