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03.悲しみの祈り

 事の成り行きが耳に届いていたのだろう。華やかな会場の外にて独り大扉を守る衛士はアリアンヌを見るなり、そのいかめしい土気色の顔を困惑で染めた。


 何も言わず、アリアンヌはただ衛士の男に微笑みかける。

 他に人はいない。ユースチフの姿もない。

 さっと踵を返して、令嬢は歩き出した。


 淑女らしく静かな足の運びで、石畳を靴音で鳴らすこともなく。

 だが次第に、交差する足の動きは速くなり、歩幅も広がった。

 衛士の影が闇となるころ、打ちひしがれた乙女は宮殿の回廊を駆けていた。純白のドレスの裾が床を擦るのも構わず、息を切らして靴音を打ち鳴らす。


 やがて気がつけば、アリアンヌは独り、王宮の庭園に佇んでいた。

 晴れ渡った夜空に輝く大小の月と星々の明かりが、庭園の中央に据えられた小作りなガゼボを照らしている。


 呆然とした様子で、アリアンヌは天を仰いだ。


 ――いつもいっしょのお月さま、私と殿下みたいですね。


 この星をめぐる二つの月に、相愛と信じた許嫁同士に重ねた幼い日の記憶が、アリアンヌの心に去来した。


 大きな<王の月>と、寄り添い浮かぶ小さな<后の月>が、昔と変わらぬ眼差しで令嬢の姿を見つめていた。純白だったドレスの裾は擦り切れ、煤ぼけ、乙女の心そのままに痛々しい姿を夜の中に晒して、令嬢は虚しい瞳を夜空に向ける。


 ふいに、暖かいものが両の肩を包みこんだ。


「まだ夜は冷える季節です。お体に障りますよ」

 ユースチフだった。


 アリアンヌが物心つく頃から兄のようにして育ったルスタリア侯爵家の青年政務官が、冷えた淑女の体を天鵞絨ビロードのケープで暖めたのだ。


 今まで感じていなかった夜気の冷たさを、アリアンヌは初めて覚えた。

 ユースチフは何も言わず、柔らかく令嬢の手を取る。みだりに女主人の手に触れるなど、普段ならはばかられることだがアリアンヌに拒否はない。穏やかな仕草で青年は少女を誘い、ガゼボの丸屋根の下へと導いた。


 月明かりから、年若い男女の姿が隠される。

 暑い日差しの元、足を止めた途端に噴き出す汗のように――

 押しとどめていた涙が、アリアンヌの頬を伝った。

 とん――と、少女の額が青年の胸を打つ。

 嗚咽と涙が、ユースチフの体に注がれた。

 青年の肩はわずかに揺れたが――

 男は少女が泣くに任せて、ただ柱のように立っていた。

 やがて泣き疲れたアリアンヌの耳に口元を寄せ、囁いた。


「大聖堂へ参りませんか。今なら誰もおりません。創世の女神さまにお祈りをして、心を平らかにいたしましょう」

 顔を上げたアリアンヌに、青年はやさしく微笑みかける。


 月明かりに照らし出された大聖堂と、そのうしろにそびえ立つ巨大な創世の女神像を、アリアンヌは静かに見上げて、小さく頷いた。


    §


 王宮庭園の外には、青銅ブロンズ像のごとき機獣馬きじゅうばの引く二頭立ての馬車が停まっていた。車体にはルスタリア家の紋章が刻まれている。屋敷から王宮へ出向いたときに馬車を繰った御者は消えていた。ユースチフがチップでも握らせ、帰らせたのだろう。


 この国で生身の馬が貴族の馬車を引くことは、すっかり廃れている。

 十数年前、発掘された太古の機械仕掛けの獣たち。彼らに魔力を流すことで自在に操れることが知られて以来、掘り出された神話の獣たちは魔導王国の主力兵器の座も独占していた。北方の小国に過ぎなかったこの国が、わずか十数年で世界統一を成し遂げるに至った暴力装置の原動力である。


 ユースチフはうなだれたままのアリアンヌを馬車の中へ隠すように座らせてから、自らは御者台に登った。

 微動だにしない機獣馬に、手にした手綱を通じてユースチフは己が魔力をわずかに流す。鈍く低い起動音が鳴り、馬の眼に生気が灯る。魔鋼まこう造りの二頭の馬が命を宿した生き物同様にひと声いななくと、馬車は滑るように動き出した。


 八つの鉄蹄てっていが石畳を軽やかに叩き続ける音のみがあり、車軸の軋み一つ聞こえない。ルスタリア家が懇意にする魔工職人の技巧が為せるわざである。

 小一時間ほど馬車を走らせたのち、城下の外れにある女神を祀る大聖堂が、二人の若者を出迎えた。



 見上げるほどに巨大な石造りの大聖堂は、滑らかな曲線とその分岐により、複雑でありながらも優美な造形を示している。遠い昔、歴史の彼方に消えた王朝が築いた美の極致の一端を、今に伝える威容であった。


 壮麗壮大な聖堂はしかし、祀られる女神像に比べれば背の低い平屋も同然である。

 大聖堂正面の奥には、天を衝き雲を掠めるかという巨大な女性の神像が、眠ったまま魔導王国一帯を睥睨するかのようにそびえていた。


 女神像は太古の昔より、ユールレヒトびとの住まうこの地に存在している。

 像の全高は百四メートル。学者の推定によれば、総重量は実に四千五百トンあまりという。背後の広大な断崖絶壁が、女神の巨大な裸身を支えている。


 表層は青銅に似た風合いの、通称〝魔鋼〟と呼ばれる未知の金属で覆われていた。発掘された機獣たちと同じ表層素材であるとだけは、突き止められている。


 信仰の対象としての長い歴史を持つ神像だが、真の姿は解明されていないのだ。

 加えて、有史以前より創世の女神として語り継がれてきたにもかかわらず、つがいである男神の行方がようとして知れない。伝承によれば女神は、男神と創世を成してのち、人間世界の繁栄を夢見て北方の地で眠りについたとある。


 しかるに、男神はどうされたのか? 女神と愛し合ったはずの巨体の男神像は、世界中のどこを探しても見つからぬままであった。



 ユースチフに手を引かれて、アリアンヌは大聖堂の祭壇へと赴いた。祈りを捧げるべく、祭壇の前に進み出る。


 ありふれた聖堂の造りであれば、祭壇の正面には礼拝者を見下ろす位置に女神の小さな複製像が安置されているものだ。

 しかし、総本山たる大聖堂の祭壇部分は、直接女神像の姿を目にできるよう、総クリスタル製の天蓋によって外部がすべて見通せる作りになっていた。

 雨風に曇ることはなく、陽光がもたらす熱も防がれる。年に二度、夏至と冬至の祭祀にて魔力の補充を怠らない限り、常しえに朽ちることもない。


 アリアンヌが祭壇の前で膝まづき祈りの手を合わせると、ユースチフは令嬢のそばから一歩下がった。


「私は、外でお待ちしております」

「…………」

 物言わぬかわりにアリアンヌは祈りかけの手を解いて、ユースチフの袖に絡めた。

 主人の細指を、青年はそっとやさしく解きほぐす。

「では、少しうしろに、控えておりますので――」

 こくりと小さく頷いたアリアンヌは、夜会の場を離れて以来、初めてやわらかな笑みらしきを浮かべた。


 あらためて、アリアンヌは女神像を見上げる。

 風化しているのか、青錆をまとった表層が、月光を浴びて鈍く碧い光沢を放っていた。背にする巨大な絶壁に、女神の裸身は半分沈み込んでいた。


 姿かたちは人間に似ている。いや、創世の女神である。人の姿こそが、神を模しているのかもしれない。それに、これほどに豊かで美しい曲線美を備えた人間など、この世にあろうか。やはり人間などは――


 ――神を真似た、出来の悪い贋作に過ぎないのかもしれないな。


 そう語るコマース王子とお忍びでこの聖堂を訪れたのは、春、それとも初夏であったか。目を閉じ膝まづく瞼の裏に、在りし日の王子の姿が浮かび上がった。


 ――俺にとっての女神は、アリアンヌ、おまえただ一人だ。

 コマース様はたしかにそう言ってくれたのに。

 あのお言葉は、偽りであったというの……?


 心の平安を求めて女神像に祈るはずなのに、アリアンヌの心に湧き上がるのは王子との思い出ばかり。心を満たしていくのは、前触れもなく訪れた別れによる悲しみの積み重ねのみ――


 初めて出会った四歳の誕生日。祝いとして頂いた創世神話の絵物語に重ねて、十二歳の殿下はご自分をして、〝おまえの男神になる男だ〟と胸を張った。同じ言葉を、パトリシア様にも寝屋ねや睦言むつごとに語りかけたのだろうか。


 国王陛下が戦争を始め、コマース殿下が初陣を飾り、返り血を乾くに任せたまま早駆けして私の元へお戻りになられたあの日。〝逢いたかったぞ〟と抱きしめてくれた腕の中に、パトリシア様の身体を抱いたのだろうか。


 王宮の魔導士たちと共に古代の文献を紐解き、創世の神話は事実であったのだと熱っぽく私に語ったあの言葉を、パトリシア様とも分かち合ったのだろうか――


 指折り数えるようにしながら、王子とのあらゆる出来事を次々に、アリアンヌは思い返していく。暖かいはずの思い出は、すべてが悲しみにかわり、アリアンヌの心の隅々までを埋め尽くしていった。 


 そして――目を伏せるアリアンヌは気づかずにいた。

 彼女の祈りに合わせて、周囲に光が満ち始めたことを。

 悲しみの想いを積み重ねるたび、創世の女神像から白緑びゃくろくの光が放たれることを。

 アリアンヌの心に呼応し、共鳴する音叉のように脈動し、輝きは増していく。

 光はやがて天を衝く柱となり、季節外れのオーロラを北方国の夜空に描き出した。



 巨大な女神像は王都の城下町のどこからでも、その姿を目にすることができる。王宮のバルコニーともなればなおさら明瞭である。


 しかし、大陸世界統一を祝う夜会に興じ、〝正式な〟婚約発表に浮かれる王宮の貴人たちは、何ひとつ気づかずにいた。

 それどころか近衛の騎士や宮廷魔導士、下男の一人に至るまで、女神像に起きている異変に気がつかなかったのである。大戦がようやく終結し、気が抜けて警戒を怠っていたせいであったのかもしれない。


 大聖堂のあたりから巨大な光の柱が立ち昇るさまを見ていた者は、城下に幾人かはいた。夜会を抜け出し、酔いを醒まそうと外へ出ていた貴族たちもである。


 だが、やんぬるかな。光り輝く女神像を目にしながら、彼らはそれを祝賀のための派手な余興であるとしか、見なさなかった。

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