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ほんの少しだけって決めていたのに、だいぶ長くトイレに居座ってしまった。
速く出ては行きたかったけど、他の生徒がいて鏡を見れないことから早く帰ってくれないかなと待ち続けた結果、誰一人としてトイレから出て行かないで時間だけが過ぎていった。
自分が今どんな顔をしているのか確認したかったけど、いくら待ってもそれは無理だと気付き、小さく息を吐いてから私は個室を出た。
手を洗い、濡れた手をハンカチで拭きながら嫌な教室に戻ろうとした時、「ましろちゃん」と階段の手すりに寄り掛かっていた陽斗先輩に声をかけられた。
どうしてここにいるんだろう、と疑問が生まれた数秒後、サーッと血の気が引いていった。
「ご、ごめんなさい……! 小説を受け取る約束をしてたのに、私すっかり忘れちゃってて」
「ううん、気にしないで? さっき着いたところだし、突然言い出したのはこっちだから。そうだよね、泰雅」
「うん。ましろちゃん、ごめんね?」
私は目を落としながら、小さく首を横に振った。
先輩の優しさに、今は心が救われる。
たった1歳しか違わないのに、どうしてこんなにも大人なのだろう。
やっぱり私は、若菜ちゃんのような年上の人といる方が楽だ。
「それでさましろちゃん、返したばかりで悪いんだけど他にいい小説ない? なんなら今持ってるのでもいいよ」
「おい泰雅」
返してもらうと同時に黒木先輩からそう言われ、私はまた罪悪感を覚える。
「ごめんなさい、最近持ち歩いてなくて……」
「そうなの? 珍しいね」
「……テスト勉強が忙しくて」
テスト勉強なんてしてないくせに。先輩たちもそのことを知っているけど、苦し紛れに出た嘘がそれしかなかった。
「そうだよね。ごめんね泰雅が」
「いえいえ。テストが終わったら持ってきますね」
「持ってこなくて大丈夫だよ。泰雅が自分で小説を探して買えばいい話なんだから」
「陽斗は分かってないなぁ。ましろちゃんがオススメする本だからいいのに」
本には当然価値はあるが、私のオススメなど価値はない。
でも、必要とされているのに断る理由もない。
「テストが終わったら必ず持ってきますね」
「うん。俺がいなかったら陽斗に渡して」
「分かりました」
「じゃあ俺行くね。その小説面白かった」
ひらひらと手を振りながら階段を下りていく黒木先輩の陽斗先輩はついていくのではなく、私を何故かじっと見つめていた。
瞳に浮かぶ感情というものは、こんなにも分かりやすいものなのか。それとも、ただ陽斗先輩が分かりやすいだけなのか。
「無理してない?」
「はい」
「本当に?」
「……はい」
「本当、頑固だね」
困った顔をしながらも柔和に笑う陽斗先輩は、なんだかいつもと違って見えた。
「耐えられなくなったらすぐ呼んでね。どんな時でも駆け寄るから」
遠回しじゃない言い方に、動揺からキュッと喉が鳴った。
ただ人目もあり、下手に反応できずにいると、陽斗先輩は黒木先輩のようにひらひらと手を振り始めた。
「僕ももう行くね。テスト頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
完全にこちらに背を向けた陽斗先輩に手を伸ばし、「あの」と引き留めそうになっている自分を必死に抑え込み、親指の皮を抉りたい衝動にも駆られるが、親指をしまうように掌を握りしめて現実と向き合う覚悟を決める。
逃げてきたものの、これからどうやって輪に入ろう。
逃げると面倒だから逃げたくなかったのに、どうしてこうも理想と違う行動をしてしまうのだろう。
顔にかかった髪を後ろに退かすように一度上を向き、話しかけられなくても、空気のような存在にされても私は自分の席に戻って周りが求めている私を演じよう。
大丈夫。私なら元に戻れる。




