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今朝はいつもと変わったことがあったけど、それ以外は本当に普通だった。
いつもと違うことが少しでも起きると、何かの前触れかと勘ぐってしまう癖があるから少し緊張というか、喉に何かが詰まる感覚を覚えていたけど、それすらも馬鹿馬鹿しく覚えてしまうくらい本当にいつもと変わらない日常を送っていた。
5時間目が終わり、そろそろ眠くなってくる時間帯。教室のそこらかしこで机に突っ伏して寝ている人がいる。その中に凪沙が含まれていて、今は二人とも私の席の周りには集まっていない。絵麻は教室にもいないから、トイレか他のクラスに遊びに行っているのだろう。
私もようやく休める時間がきて、広げていた小説に視線を落とす。
凪沙と絵麻が周りにいないから集中して読むことは出来るが、いないことによって聴覚がいつも以上に敏感になる。その為、聞きたくもない話し声がいつも以上に大きく聞こえてくる。
「え、お前! また時計変えた?」
「それ高いやつじゃん。すげえなぁ……」
後ろが騒がしくなれば、それは決まって彼が会話の中心にいるということ。
それだけで腹が立つというのに、時計を新しくしたって? こちとらお小遣いなんて貰ったことがないし、お昼代として貰っている5千円で全てやりくりしているというのに……高校生が高い時計って分かるくらいなのだから、相当の物っていうもの分かって余計腹が立つ。
「別にそんなに高い物じゃないよ」
「おいおい、マジかよ」
「さすが玲青くん」
「どんな時計でも玲青に似合うのがすごいよね」
「あはは。ありがとう」
彼の発言に周りの人たちは更に騒がしくなる一方、色んな感情が一瞬にして生まれ、自分では制御できないくらい心が騒がしくなっていた。
本当、こういうところまでいつもと変わらない日常だ。私がいちいち反応して腹を立てて、自分と何もかも違う彼に罪悪感と劣等感を抱く。そして羨ましくて、死にたくなる。
最後に出てきた感情こそが、一番素直で切実なものだった。
甘やかされて育ってきている妹と同じように、彼も家族や親戚から無条件の愛を沢山貰っているのだろう。きっと馬鹿みたいな金額のお小遣いを毎月毎月貰っているに違いない。
あぁ、うざい。
彼は勿論、彼を持ち上がる周りの奴らも同じようにうざい。
きっと、ああやって持ち上げれば、気分が良くなった彼が色んなものを奢ってくれるのだろう。高いお寿司などから、安いファーストフードまで。
学生は常にお金がない。自分の財布の中からお金が減らずに、美味しいものを沢山食べたいに決まっていて。世の中を上手く生きていくのには便乗も必要。きっと取り巻きの連中らの行動は正しいのだろうけど、私はそこまで堕ちるわけにはいかない。
あんな奴らと一緒だなんて認めたくないし、何よりも自尊心を傷つけたくない。
まだ騒いでいる後ろの奴らを睨みつけたいけどグッと堪えて、心の中で『10分休みが終わるんだから早く席に着けよ』なんて呟きながら再び小説を読もうと文字をなぞり始めた時、教室の空気が突然一変した。
感じたこともない空気感に胸騒ぎを覚え、周りを見渡そうと顔を上げようと思ったその時だった。
「白石さん」
聞き覚えのある嫌な声に初めて名前を呼ばれた私は、思わず勢いよく顔を上げてしまう。
男子だというのに女子のような大きな瞳の持ち主であり、私が常に劣等感を抱いている大嫌いな人物、天王寺玲青が私の机の前に立って私を見下ろしていた。
クラスメイトが不思議がっている何倍も私は不思議に思っているし、不気味にも思っている。
何のための行動? 私は何の駒にされる?
色んなことをぐるぐると考えながらも結局は驚きが勝っていて、私はなかなか声を出すことも目を逸らすことも出来なかった。
「白石さんって、この小説好きだったよね?」
そう言って、スマートフォンの画面をこちらに見せてきた。
画面に映っていた小説は、あの人に貸して今は手元にない小説だった。
見せてきている小説と出会ったのは一年前。長編だったのに二日ほどで読み終わってしまったため、それ以降は学校に持ってくることはなかった。彼とはクラスが違ったし、同じクラスになってからも接点がないのに彼が知っているだなんておかしすぎる。おかしいことだらけで、偽りの自分を保つことが出来ない。
マジで急になんなの。今まで一度も話しかけてこなかったくせに。いつも私にだけ見せている笑みではなく、みんなに見せている笑みで私を見下ろしてくるのも怖い。
彼の変化に色々と勘ぐってしまう。
いつも先に目を逸らされているから、今度は私が先に目を逸らしてやろうと思うのにそれが出来ない。周囲は不気味な静けさに包まれていて、それが余計に目を逸らせないことに繋がっていた。
「……好きじゃないです」
「え?」
「初めて見ました」
「前に読んでなかった?」
「読んだことないです」
彼の目を見てはっきりと嘘をつけば、彼は少しだけ表情を崩したように見えた。
普段だったら表情なんて崩れないくらい完璧なものを演じているというのに、珍しいこともあるもんだ。でもその裏を返せば、私にはいい顔なんてずっとしたくないってことで。今日も今日とて見下されている。
彼から目を逸らして小説に視線を落とせば、開いているページに折り目がはっきりと残るくらい、ページを思い切り握りしめていることに気づく。
今にも力を抜きたいのにそれが出来ない。どうして……と悩んでいると、私を救うかのようにチャイムが鳴って、先生も教室に入ってくる。心の中で安堵の溜め息をつき、小説を閉じて机の中にしまえば、目の前にいた彼が私から少しだけ距離を取った。
「そっか」
わざと大きい声でそう言った彼は、いつもの笑みを浮かべて私の前から立ち去る。
けれど横を通った際に彼は、私にしか聞こえない程度の音量で聞いたこともない低く冷たい声でボソッと呟いた。
「嘘つき」
心にぽつりと怒りの炎が立ち上がり、導火線に火がついて小説を握る力が強まった。
怒りに任せて振り向き、彼を引き留めてビンタでもしてやろうかとも思ったけど、ここまで築き上げてきたものを一瞬にして壊すわけにもいかなかったから、私はまた我慢をすることしかできなかった。
後ろからも横からも見られないように少し前屈みになって、耳にかけていた髪をわざと下ろした。今の顔は見せてはいけないくらい、怒りで酷くなっているだろう。口元が怒りに歪んだ様子なんて見るに堪えないだろうから、無意識に握りしめていた手のひらで口元を瞬時に隠す。




