魔法の杖
日付が変わるころから降り始めた雪は、ぼんやり眺めているうちにどんどん勢いを増していった。道路も近くの家々も現場監督の車も白い雪で覆われる。
すごいなー、と感じ入りながら彼はふと、みょうにヘルメットが重いことに気づき、首を傾けた。
バサッ、とヘルメットに積もっていた雪が足元に落ちる。
驚いてよく見ると、両肩にも雪が積もり、足はくるぶしまで雪に埋まっているではないか。
ひー、雪だるまになってしまう!
何度か小さくジャンプして、体に積もった雪をふるい落とした。
しかし、彼は午前2時、大雪の中に立ち続けなければならない。
現在道路工事の警備員アルバイトとして勤務中だ。
工事のために通行止めを行っているエリアの入り口に彼は立ち、進行して来た車に頭を下げて、赤く光る誘導棒で迂回路を示す。
大雪が降ろうと、真夏の炎熱にさらされようと、警備員は決められた着任ポイントから動いてはならない。
彼はまだ二十七歳だった。将来の夢や、なりたい何かは別に無い。それでもいま雪だるまになってしまうわけにはいかないし、コチコチ凍りついた冷凍マグロになってチェーンソーでバラバラにされて出荷されるのもイヤだ。彼は気合いを入れて何度も小さくジャンプし、生きて終業時間である午前5時を迎えた。
ヘルメットと誘導棒、腕章に安全反射ベストを、使い古したスポーツバッグにつめる。服装はそのまま、警備会社から貸し出された分厚くて重いコートに身を包んで現場から最寄りの駅に向かう。
歩きながら警備会社に勤務終了の連絡をした。少しおおげさな感謝とねぎらいの言葉が返ってくる。夜勤を終えた彼は、このまま眠ることなく、次の日勤の現場に向かうことになっていた。そろそろ年度末ということで現場の数が多く、警備員が足りない。
次の現場がある駒込まではJRで向かう。
山手線の車内に一足踏む込むと、暖房が効いていて暖かい。
うわー。
彼は内心で感謝の叫びを上げ、いかに体が冷え切っているかを今知った。
ありがたや。解凍されていくなあ。
午前5時半。山手線の車内は満員でこそ無いが、すでに座れる座席は少ない。彼は立ったまま暖房の温もりに身を委ねた。
眠るわけにはいかないのでしっかり目を開けて、車内を眺める。出勤の人。夜勤明けの人。まだ小学生なのにこの時間から遠方の学校に向かう子供。酔って寝ている人。一晩遊んだ興奮がまだ冷めやらずはしゃいでいる二十代の集団。おはようの人、お疲れ様の人、おやすみの人、まだもう一軒いく人。
彼は、自分はどの分類か考えた。お疲れ様、と言うにはまだ次の仕事が控えていているし、新たな一日のスタートではなく連勤の合間に過ぎない今はおはようの気分でもない。
2駅だけ穏やかな時間を過ごして駒込駅で電車を降り、再び早朝の冷気に包まれる。駅のホームから空を見ると、夜の紺色はだいぶ上空に引き上げて、雑多なビル群の上に太陽の前ぶれであるうっすらピンク色の朝焼けが見えた。頬が冷たい。こんなきれいな朝に、おはようの人に分類される人たちがうらやましい。
次の現場は駅から徒歩20分。7時半までに着けばよいから、今からまだ1時間以上余裕があった。マックでひと休みしよう。
肩から下げていたスポーツバッグを大きく揺すってホームから駅へ向かう階段を降りようとした時、彼は初めて階段を駆け上がってくる少女に気づいた。
発車ベルは鳴り終わり山手線のドアは閉まろうとしている。少女はさらに加速して階段からホームに飛び出そうとした。彼は体をひねってそれをかわしたはずだったが、スポーツバッグのことを計算していなかった。それは少女も同じで、彼をかわして電車に駆け込むはずが、スポーツバッグに衝突した。
何がどうからまったのか、少女がバッグにぶつかると同時に、バッグはするりと彼の肩からはずれ、少女はバッグと共にホームの上で転倒した。彼のほうはよろめいたものの階段の手すりにつかまって持ちこたえた。
ドアは閉まり電車は去った。ホーム上にいた人たちはすべて乗車し、ホームにはほとんど人がいなくなる。
その中でスポーツバッグと共に倒れている少女。
彼は一瞬ぼう然としてしまったが、すぐに少女に駆け寄った。
「あの、大丈夫?」
少女もまた仰向けになったまましばらくぼう然としていた。声をかけられてハッと我に返り、
「あー、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
高速で3回謝りながら上半身を起こした。
彼は、将来の夢もなりたい何かも無いことに加え、27歳にして女性と手をつないだことすらなかった。こういう時にどうすればいいのか混乱の中で必死に思考しつつ、たぶんこうだろうと思い、起き上がろうとする少女にぎこちなく右手を差し出す。
少女は差し出された手に気づくと、不審な目でちらっと彼を見、その手をとらず立ち上がった。
彼は差し出した右手をゆらゆらと引き戻しなぜかお腹にあてた。
「け、けがしてないかな」
「すみませんでした!」
少女は太もものあたりに両手を揃えて深く頭を下げた。
「あ、なんか、変わった格好してるね」
「今のは私が悪かった、で、す・・・」
少女は、業務用のコートに身を包んだ男がこわばった笑みを浮かべて自分を見つめていることに気づいた。警戒しながら少女も男の様子を観察する。ここまで会話はひとつも噛み合っていない。
少女は確かに変わった格好をしていた。黒いハーフローブに黒いスリムパンツ、ブラウンのロングブーツ。まるで魔法使いのコスプレだ。
「あっ!」
少女は小さく叫んだ。振り返ると、スポーツバッグのショルダーベルトとからまるように落ちていた1メートルほどの棒を拾い上げる。
それを両手で持ち、顔に近づけて注意深く観察した。
「あーっ!」
少女はあらためて叫んだ。
「ひびが入ってる・・・」
彼は、何かまずいことになってきたのを感じながら、数歩あるいて自分のバッグを拾い上げた。
少女は、両手で棒を握りしめ、それをじっと見つめながら固まっていた。
「大事なものなの?」
おそらくそう声をかけるべき場面だろうと思い、彼は声をかけた。
「はい。これが無いと私、生きていけません」
「えっ」
彼は深刻な同情の念がこもるよう注意して一声発した。内心ではどんな棒だよそれにどんな人生だよと突っ込んでいる。
「1000年の間受け継がれてきた、魔法の杖なんです。ああ、許してくださいご先祖様・・・」
彼は立ち去るタイミングを逸したことを後悔した。なんやねんこいつ。
しかし好奇心もくすぐられる。また、もちろん罪悪感もあった。駆け込み乗車しようとしたのは少女が悪いが、朝焼けを見てぼんやりしていなければ回避できた。
「修理、できないの?おれ、もし、あの、あれだったら弁償するよ」
少女はため息をつきながら魔法使い風のハーフコートをめくり、腰のベルトに杖を差し込んだ。ベルトにその棒のためのホルダーがついているのを彼は見た。
少女は見上げるように彼の目を見つめた。彼はやせているが身長は高く180センチを少し超えている。少女とは30センチほどの身長差があった。
「ありがとうございます。弁償は大丈夫です。その代わり、じゃないですけど・・・ちょっとお願いしてもいいですか?」
彼はいやな汗をかいた。もしかしてこれはやばいやつじゃないか。なんだろう。新種の当たり屋みたいなものか?イルカの絵でも買わされるのか。
うっすら恐怖を感じ、早くこれを終わらせてマックで落ち着きたいと念じるが、この不思議な少女への好奇心もざわめく。
何にしても駅のホームでいつまでも寒風にさらされていることはない。どこかで少し話そうということになり、2人は駅前のマックに入った。午前6時ちょうど、まだ客は少ない。
「ハイ、わたしは林アカネって言います。高校2年生ですもし学校に行ってればだけど」
席に落ち着くなり、少女は手短にそう述べた。
「おれは、佐藤拓司。んー。フリーターかな。歳は27」
「え、佐藤タクシー?運転手さん?」
「たくしだよ。誰が個人タクシーだ」
林アカネはボケとツッコミが成立したことにキャラキャラと笑って、
「いえーい」
と片手でハイタッチを求めて来た。佐藤拓司はおずおずとそれに応じた。
「タクさん、でいいですか?私のことはあかりんで」
「別にいいよ」
返答しながら、拓司は少女の呼び名を林さんで固定した。
「それ、普段着なの?」
拓司はあらためてアカネの風変りな服装を指摘した。さっきこれをスルーされたことがわだかまっている。
「あ、はい。コスプレみたいですよね。でもそう思ってもらおうと思って。だってこの杖持ってて、普通の服だと余計浮いちゃうから。この格好だと、魔女のコスプレでもやってんだろうな、で済ませてもらえるかなって」
面白いアイデアでしょ、という意味の笑顔を浮かべるアカネに、拓司は
「なるほどー」
と素直に感心した。根本的にヘンだが理屈は通っている気がする。
アカネはお願いの内容を説明した。
この魔法の杖を修理するには特殊な技術が必要で、それができる職人は日本には数人しかいない。幸い、そのうちの一人が池袋で店を開いている。ただその店は北口の繁華街の奥地の怪しげな界隈にあって、十代女子ひとりでは行けない。しかも夜8時にならないとオープンしない。その店に用がある時はいつもは親に同行してもらうのだが、自分のヘマで杖にひびを入れたことを親には言えない。
「だからタクさん、今日の夜、一緒にそのお店について来てもらえませんか。なんていうか、ボディガードとして」
上京して5年、拓司は東京が何かと気をつけないといけないところだというのは理解している。警戒も怠っていない。だが、魔法うんぬんがタワゴトであるにしろじゃあ何なのか見てみたいという好奇心と、アカネの素直さと陽気さ、そして自分ごときをボディガード扱いしてくれる嬉しさが、客観的な考察を放棄せしめ、彼女の
「ね!」
というひと押しに、
「わ、わかった」
と答えてしまった。小さなハイタッチが再び行われた。
「なんか、嬉しい。タクさんとは、今日初めて会った気がしない」
こういうセリフはそれでもイルカの絵の購入への布石に思えてしまうが。
拓司とアカネは、夕方6時に駒込駅で待ち合わせすることを約束して解散した。
それからの日中の数時間、拓司はマンションの建築現場の誘導員として働いた。
仕事を終えれば楽しいことが待っている状態で一日を過ごすのはかなり久しぶりだ。昨夜雪だるまになりかけた男が、今日の夕方には、学校に行っていれば女子高生の少女と待ち合わせ、そのボディガードとして少しの時間を過ごす。この差は大きい。夜勤から日勤の連続で一睡もしていないにも関わらず、拓司の動きは軽快だった。
夕方5時に業務は終了し、拓司は5時半には駒込駅についた。まだ待ち合わせには時間があるが、コーヒーでも飲んで待つほどの経済力は無い。駅構内の、風をしのげる位置の壁に背中を押し付け、腕組みをしてうつむき目を閉じる。仮眠だ。
しばらくして、さてどのくらい時間が経っただろうかと目を開けてみると、目の前にアカネが立っていた。
「うおっ」
「ごめんね。疲れてるよね」
「ああ、いやいや。おれは不死身だよ」
「ありがとうございます。これ」
アカネは両手にひとつずつ持っていた缶コーヒーのひとつを拓司に差し出した。
「まじ、ありがとう。おごりなの?」
温かい。
「ご遠慮なく。工事現場の人って、缶コーヒーよく飲むみたいだから」
「はは、確かに」
拓司は壁にもたれたまま缶コーヒーを開けて口をつけた。アカネもとなりに立ち、くいっと缶コーヒーを飲む。駅を利用する人々が忙しく行きかう片隅で、二人並んで壁にもたれて缶コーヒーをすする構図が出来上がる。
「実は今日、タクさんが働いてるところ、のぞき見しちゃいました」
「のぞき見?」
「うん。どんなお仕事なのかなーって、ちょっとあの後、タクさんを尾行して、建築現場のところまで行って」
「まじ。ストーカーじゃん」
もちろん不快ではない。見られて困るものも無い。
「ですよね。いけないことだって思ったんだけど、ちょっと見てみたくて。ほんとは予定あったんだけど、朝電車に乗り遅れちゃって、あーもういいやって思ってそれキャンセルしちゃって、時間もあったから」
「そっか。どうだったおれ。まじめに働いてた?」
「うん。素敵だなって思いました。なんで警備員の仕事やろうって思ったんですか?」
「なんでってほどの理由は無いよ。大学卒業してすぐ就職したんだけど、入って半年ぐらいで会社つぶれちゃってさ。あせって別の仕事探したけどぜんぜん採用してもらえなくて。とにかく何かでお金稼がないとアパートの家賃も払えないし、しまいには餓死するしかないからさ。とりあえずの仕事だな」
「そっか・・・でもなんか、似合ってましたよ。赤い棒ふってピッピッって笛ふいて、ダンプをこう、誘導して」
拓司は苦笑した。
「似合うってのもなんか微妙だなあ。一生警備員やっていくつもりないし」
「実は目指してるものがあったりするんですか?バンドやってるとか」
「あー、うん、警備員やってる人たちには、バンドマンとか劇団員とか、けっこういるな。あとお笑い芸人のたまごとかね。でもおれはそういうんじゃない。なんの才能も素質も無し!目標も夢もなんにも無し!未来への希望も無し!」
「えー、そんな、そんなの。そんなの楽しくないじゃないですか」
「ええ。楽しくないですとも。楽しくないといけませんか」
アカネはあせって打ち消した。
「ううん、そんなこと」
「何かを目指してたり、何かになろうとしてないと、生きてちゃいけないのかも知れないけどね。ほんと、何のために生きてんだか。ただ一日一日を我慢してやり過ごして、それを繰り返すだけ。それじゃダメ?」
何かの怨み言にも似た感情が言葉に乗る。
「今のままじゃダメだとは思うよ。でもめんどくさいし。ただ流されてるのって気持ちいいんだよなあー。ほんとクズ人間!意味ない人生だろ?キモいだろ?」
問い詰める口調に、アカネは黙った。
目線を拓司からはずし、缶を口にあて目をまっすぐ向かい側の壁にに向けたまま、動かない。
拓司はすぐに取りつくろった。
「ジョークジョーク。ごめん」
実際、女子高生相当の少女に向かって、大人げない。恥ずかしくなる。
アカネは明るい表情に戻って拓司のほうを向いた。
「彼女とかは?」
「い・ま・せ・ん!彼女とか!いるわけないっしょ!今までの話聞いてなかった?そんな奴に彼女とかはできないの!」
反省したばかりなのに拓司は興奮して荒ぶった。
「金があるか、才能があるか、有名な会社に勤めてるか、そのどれかでないと、大人の男は女性とお付き合いできないの!まあ、金も才能も無くてもイケメンだったら遊び相手にはしてもらえるけど、それはおれには一番ない」
アカネは笑いをこらえた顔で人差し指を立て、拓司の顔を指さした。
「その通り!」
「すこしは否定しろよコラ!」
二人は和やかに笑い合って、飲み終わったコーヒーの空き缶を自販機の横のごみ箱へ投じ山手線のホームに向かった。
池袋に到着してまだ午後7時前。魔法の杖を修理するという店は夜8時開店だから、ファミレスで食事をすることとなった。ついてきてくれるお礼としてアカネがおごると申し出たが、いやもともと弁償の代わりだからお礼はいらないと拓司は断り、割り勘であることを事前に合意する。
拓司はカツカレーを、アカネは海鮮ピラフを食べた。
食べながら、拓司は「魔法」についてアカネに尋ねた。
「わたしのうち、代々魔法使いの家系で、わたしもそうなんです」
アカネは服の好みの話でもするかのように気軽にさらさらと説明した。
「もともとは今から150年ぐらい前にハリー・パークスっていう偉い人のお供の一人として、わたしのおじいちゃんのおじいちゃんがイギリスからやって来たの。魔法を使って、国家機密に関わるような何かの大事なお仕事をしてたんですって」
「へえー。じゃあなに、林さんはハーフなの?」
「ハーフじゃないけど、イギリス人の血は入ってる。英語はしゃべれないですよ。で、おじいちゃんのおじいちゃんの家族の中の何人かが、日本大好きになっちゃって永住して、日本人と結婚して子供産んで。その間、魔法使いとしての技や能力を忘れてしまった人たちもいるけど、わたしのお家ではバッチリ引き継がれてるんです」
「すごいな。魔法って、どんなことができるの?空とんだり、火の玉とばしたり?」
「んー。できなくはないですけど、そんなことしたって、へんに珍しがられたり騒がれたり、怖がられたりするだけですよ。ビジネスにもならないし」
「な、なるほど。じゃあどんな魔法?」
「聞きたいですかー?」
アカネは意地悪く微笑んで、拓司を見つめた。
「うんうん聞きたい聞きたい教えて」
拓司は簡単に尻尾を振った。
「タクさんなら信用できるから、教えてあげますね。わたしたちの魔法は、人に夢とか幻を見せること。ただの夢じゃなくて、現実につながる夢」
「というと?」
「まあたとえば、タピオカっていう食べものがあった時に、たくさんの人に、タピオカは珍しい、おいしい、これから流行るぞ、乗り遅れたらかっこわるいぞ、ていう幻を見せるんです」
「おお!」
「そうすると、みんなその幻に動かされて、どんどんタピオカビジネスを始めちゃう。いろんなひとがお金儲けできる。そうやって成功したら、私たちはブームの仕掛け人の人から報酬をもらうわけです」
「じゃあ、あのタピオカブームも、林さんたち魔法使いの魔法が引き起こした・・・」
「ま、今のはたとえばの話ですけどね。でも、そうでもなきゃ、あんなただの丸いグニグニに誰もが夢中になるなんて、へんじゃありません?」
「なるほどー!」
拓司はいたく感じ入ってしまった。
「ちょ、そんな大事な秘密、おれなんかに教えちゃって大丈夫なの」
「人に教えたくなったら、教えてもいいですよ。誰も信じてくれませんから」
アカネは楽しそうに笑った。
午後8時ちょうど、二人はファミレスを出た。
派手な看板のライトが賑やかな繁華街の中を歩く。居酒屋、焼き鳥、ラーメン、カラオケ、キャバクラ、出会いカフェ、DVD鑑賞ルームなど。遊ぶお金を持っている人にとっては、楽しい場所なのだろう。
拓司はアカネにナビされるまま、アカネの半歩前に立って彼女をガードしつつ歩いた。四方八方を常に警戒し万が一の事態に備えるのは警備員の基本だ。
進むうちにだんだんと派手な看板はまばらになり暗闇の割合が増す。そんな薄暗い中に細い路地があり、高い建物に囲まれた小さな古いビルが見えた。
「そこ。緑色の看板があるビルの、二階です」
緑色の看板には黄色い文字でマッサージの料金表が書いてある。エレベーターは無く、二人は階段で二階に上がり、何語なのか読めない文字で書かれた小さな看板を掲げるドアの前に立った。ここが目指していた店だ。正式には何屋なのかよくわからない。
「よかった、ここまで来たら大丈夫」
アカネは自分でドアを開けた。
「タクさんも中に入って、待っててください」
拓司は、魔法の杖を修理する店と聞いて、恐ろしい魔法の館を想像していた。しかしドアを通って中に入るとそこは蛍光灯に照らされて明るく、商品がきちんと整理して並べられていた。
ただ、どの品物も何なのかよくわからない奇妙なものばかりだし、商品の説明のフダの文字も読めない。
拓司はコートのポケットに手を入れ、棒立ちになって店内の様子を眺めながら、アカネを待った。アカネは店主らしき年配の女性と話し、魔法の杖について相談している。
「すぐ直るって!もう少し待ってて」
振り向いたアカネに、拓司は笑顔でうなずいた。よかった。
間もなくして杖の修理は終わり、アカネは拓司の目の前に杖をかざして見せた。
「よーし完了!魔法の杖の復活よ!どう?傷はなくなってるでしょ?」
拓司は杖に顔を近づけて、よく見た。傷はどこにも見当たらない。
じっくり見ているうち、ふいに、眠気が襲ってきた。
連勤の疲れと睡眠不足が一気に出たのか。頭がふらつくほどの強烈な眠気だ。
「あ、ちょっとタクさん、大丈夫?」
心配するアカネの声に、何か答えようとした。しかし何も言葉にならず、拓司はそのまま意識を失った。
再び目を覚ました時、拓司は仰向けに寝ていた。
視界いっぱいに空が広がっている。
朝だろうか、夕方だろうか。夜の紺色がうすい青を経て朱色に続くグラデーション。
頭はもうろうとしている。何だろう、ここはどこだろう。
起き上がってみた。
「おや」
周りを静かに水が流れている。川らしい。
拓司は自分が小さな木舟に乗っていることに気づいた。
川の流れはごく穏やかだ。空が朱色に染まっている方向が川上で、空がまだ夜である方向に向かって流れている。
木舟もゆっくりと、夜のほうへ流されていた。
舟にはオールがついている。
「へえ」
面白そうなのでちょっと漕いでみる。ひと漕ぎするごとに舟は川上のほうへ進んだ。
楽しくなる。拓司はオールを漕ぎ続けた。
空の朱色は、どうやら朝焼けらしい。力をこめて漕ぐごとに、舟は夜から遠ざかり、朝に向かって進んでいく。
あっちは明るい。暖かい。朝の方向に漕ぎ続けていかなければ。
だが、すぐに苦しくなる。つらい。漕ぎ続けるのはつらい。
漕ぐのをやめてみる。一気に楽になった。これはいい。快適だ。
漕ぎ進めることをやめると、舟はゆっくりと自動的に、夜のほうに流されていく。
おそらくこのまま流されていくと、最後には、夜の闇に飲み込まれてしまうだろう。
それがどういうことなのか、想像できる。闇に飲まれる苦しさと痛みは壮絶なものだ。それにそこまで行ってしまったら、もう戻ってくることはできない。
恐ろしくなって、彼は再び漕ぎだした。つらい。苦しい。しかし漕ぎ続ければ、舟は明るい朝に向かって進み、恐ろしい夜の闇から離れることができる。
どんどん苦しくなる。やめたい。やめてみる。楽になる。闇に落ちていく。こわい。また漕ぐ。苦しい。やはり漕ぐのをやめる。
闇に飲み込まれてしまったら終わりなのはわかっている。しかし、落ちていくこの心地よさはどうだろう!
その先に壮絶な苦痛が待っているのはわかっているのに、闇に落ちていく心地よさに逆らえない。
「タクさん、ダメ!」
誰かが呼んだ。舟の上から、キョロキョロとあたりを見る。
遠く離れた岸辺に、アカネがいた。
「オールを漕いで!こっちに来て」
「林さん」
拓司は嬉しくなって、力強くオールを漕いだ。
「そうそう!大丈夫、しっかり漕いでここまで来て!」
やはりつらくなってきた。苦しくなってきた。オールを漕げない。やめたい。やめるのは心地よい。
「ダメよ!そうじゃないでしょ!漕ぐの!闇に飲み込まれたいの?」
林さんは正しい。闇に飲み込まれるわけにはいかない。
拓司は一心不乱にオールを漕いだ。とにかく漕いだ。
一度勢いがつくと、だんだん漕ぐのが楽になる。強くひとつ漕ぐごとに、次のひと漕ぎは少し軽くなる。
「そうよ、すごい!その調子」
岸にいたアカネは、ひざまで川の水につかって、舟の上の拓司に向かっていっぱいに手を伸ばした。
もはや落ちていく心地よさの誘惑は感じない。拓司は休むことなく漕いだ。
「やったあ!」
拓司は、アカネが伸ばしてくれていた手につかまった。アカネはそれを一気に引っ張り、二人はもつれあって岸の上に倒れた。
拓司は、目を覚ました。
ガバッと跳ね起きる。ここはどこだ?
「あ、よかった起きた起きた」
アカネの声がした。
「おう・・・ここ、どこだっけ。何してたんだっけ」
「池袋。魔法の杖を修理してくれたお店のビルの、屋上ですよ。タクさん、修理ができた杖を見たとたん、倒れちゃって。ただ寝てただけみたいだったから、お店の人に頼んでベッドで寝かせてたんだけど、明け方にいきなり飛び起きて、屋上までかけ上がって。それでまた、バタン、てここで倒れて」
「そ、そうか、ごめん。変な夢みてた。川が流れてて・・・」
周りを見る。なるほど確かにビルの屋上らしい。フェンスに囲まれ、物干し竿の台と水のタンクがある。
目の前の空には、うっすらピンク色の朝焼けがビル群の上に荘厳なカーテンを引いていた。
「この杖、強い力を持ってるから、タクさんにはへんなふうに影響しちゃったのかも。疲れてたし寝てなかったし。わたしのほうこそごめんなさい」
「昨日の今頃もおれたち、お互いにごめんとか大丈夫とか言ってなかったっけ」
「あ、そうだ、やだー!」
アカネは弾けるように笑った。
舟を漕ぐ夢は、恐ろしい夢だった。アカネのおかげで助かった。夢の中とはいえ・・・
拓司はひざを抱えて座り、陽の光に薄れていく朝焼けを見つめた。
そのとなりにアカネも同じくひざを抱えて座る。
「もうすぐお日様が昇るのかな。見えるかな」
「そうだな、たぶん。あー。疲れた。今日は日勤じゃないから、帰って寝る。寝まくる」
アカネは拓司の肩をぽんぽんと叩いた。
拓司がアカネのほうを振り向くと、
「おはよ」
と、アカネは微笑んだ。
なぜかじわっと泣きそうになった。
「おはようじゃねーよ。夜勤と日勤と続けて、そのあとまたこんなところで悪夢にうなされて。一日の区切りがどこにもない」
「でも、朝だよ。夜の続きじゃないんだよ。真っ白な新しい1ページじゃないですか。だからおはよ」
拓司はすこし驚いたようにアカネの顔を見た。夢で見た、拓司の手をつかんでひっぱってくれた時の笑顔と同じ笑顔だ。
「おはよう」
「いえい!」
アカネは片手で小さなハイタッチを求めた。拓司は苦笑しながらそれに応じた。
太陽の光の最初のひとすじが二人を照らす。
オワリ