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カーテン・コール  作者: お寿司
4/14

ゴミ箱の中で 1

 ソウが診療所で暮らし始めて、二週間が経った。

 残念ながら手がかりについては進展がなく、記憶が戻る気配もなかったが、その代わりにカダミアの住民とはすっかり打ち解けていた。

「────というわけで、四桁の計算もこれまでと同じように解ける。じゃあ、実際にやってみようか」

 そう言ってイアは、診療所内を見渡した。視線の先ではテーブルを囲むように、子供たちが所狭しと座っていた。座りきれなかった子供たちは床にノートを広げていて、中には数人の大人も混じっている。

 イアは医者の他に、私塾のようなものの講師もしていた。字や簡単な算数なんかを教えていて、今日は週に二回のその勉強会の日だ。

「はい、問題を壁に貼ってくから、それをノートに解いてみて」

 イアは使い古したボロボロの紙を、壁に画鋲で貼り付けていく。そこには四桁同士を掛け合わせる計算問題が大きな文字で書かれていた。

 この私塾には黒板もホワイトボードもない。あるのは何枚かの紙と、砂鉄と磁石を利用したおもちゃのお絵かきボードだけだった。だからイアは基本的には、勉強のポイントをあらかじめ書いておいた紙を壁に貼り付けながら、数年前に拾ったお絵かきボードをミニ黒板がわりにして細かいところを補足していた。

 子供たちも、ノートやペンを十分に持っているわけではない。それでも目を輝かせて、楽しそうに勉強に励んでいた。

「イア先生、できました!」

「出来た子から持っておいで、丸をつけてあげるから」

「はーい、俺いっちばーん!」「あっ、ずりぃ!」「私が先だったのにー!」

「喧嘩しないの。早く解けても、正解してなきゃ意味がないよ」

 そうやって採点している間も、人間、魔族、そのハーフ、様々な種族の子供たちが、イアの周りに集まってくる。

「イアせんせー! 宿題の問題がわかんなかったんだけど!」

「少し待ってねイジー。……はいマルコ、惜しい。ここ間違えてるから、ゆっくりやり直してごらん。……お待たせイジー、どこがわからなかったの?」

「えっと、最後の問題なんだけど、どうしても答えと合わなくてさー」

「あっ、俺もそれ難しくてわかんなかった!」

「見せてごらん。……ああ、こことここがごちゃごちゃになってるんだね。アレックスはここ。二人とも桁を揃えて、一つ一つ確認しながら解いてみて」

 二人のノートに訂正箇所を書き込むと、背中に衝撃が走った。

「せんせー! おれ本拾ってきたんだ、読んで!」

 犬のような耳を持つ少年が、同じく犬のような尻尾を千切れんばかりに振りながらイアにのしかかっていた。

「ウーゴ、キミまた拾ってきたの? 何でもかんでも拾うのはよくないってこの前……」

「イア、俺もできたよ」

 ソウが、割り込むようにイアに紙を突きつけてきた。視界いっぱいに広がった紙を受け取ると、ウーゴを引き剥がしたらしいソウが、片手でウーゴを持ち上げていた。子供とは言えど、魔族の腕力は人間の常識に当てはまらない。

「なにすんだよソウ、はなせー!」

「今は算数の時間。イアの手を煩わせないで、俺が読んであげるから」

「おれはイアせんせーに読んでほしいの! なんだよちょっと頭いいからってえらそうに、お前だっておれが拾ってきてやったんだろ!」

「それとこれとは別」

「だいたいお前、なんでイアせんせーのこと呼び捨てにしてるんだよ!」

「俺はいいの。イアの助手だから」

 ぎゃあぎゃあと言い合う二人の様子は、もはや日常風景と化しつつある。馬が合うのか合わないのか、この二人は勉強会以外でも顔を突き合わせればこうやってお互い突っかかっていた。喧嘩するほど仲がいいとは言うが、毎日の小競り合いを注意するのに疲れたイアは、ため息がてらソウに渡された紙を見た。そこには、四桁の掛け算の他に、二次方程式の解の公式の証明が丁寧に書かれていた。

「……へぇ、証明も正解だ。すごいねソウ。これキミくらいの年だと結構難しいはずなんだけど」

 半ば意地悪のつもりで出した宿題だったのだが、あっさり解いてしまうとは。するとソウが口を尖らせて振り向いた。

「だから子供扱いしないでって。俺、子供じゃないから」

「うんうんそうだね、えらいえらい」

 ウーゴとの口喧嘩を中断してまで、律儀に子供じゃない発言をしてくれたソウの頭を撫でた。

「あっ、イアせんせーおれもよしよししてよ!」

「えー、ならあたしも!」「ぼ、ぼくも……」

 ソウが混じったこともあり、勉強会はいつも以上に賑やかだ。


 †


 夢の中の自分は、何かの液体に満ちた透明な筒に閉じ込められていた。浮力で支えられているはずの体は沈むように重く、動かすのがひどく億劫だった。

 液体の中にいる自分は、耳も目もまともに使えない。視界が揺らめくだけの変わらない景色に飽いて、目を瞑ろうと思ったとき、その湾曲して滲んだ景色に誰かが映り込んだ。その人が筒の前で何かの作業をしているのを見ていると、不意に声が聞こえてきた。

 ごめんね、少しだけ我慢して。きっと、外に出してあげる。

 耳に付けられた機械からそう聞こえたのは、女の人の声だった。

 それと同時に、透明な壁に白い手形がぺたりと張り付いた。恐らく、この声の持ち主が筒に触れているのだ。そこだけが道しるべのように、霞む視界にくっきりと浮かび上がっている。それに触れてみたくて、鉄と化してしまったかのように重い腕をやっとの思いで動かし、中から手を合わせた。

 その時、違和感を覚えた。自分のものであるはずの手は、いつもよりひと回りもふた回りも大きい。恐らく男性の手だ、よく見れば腕も太くて長い。だが、今の自分にとってそんなことはどうでもよかった。優先順位の一番上にいるのが、この白い手の人物だった。

 感覚を手に集中させた。透明な壁越しに重ねたその掌から、じんわりと温かさが伝わってくるようだった。内側にいてもわかるほどこの壁は恐ろしく分厚い、熱など伝わるはずもないのに。

 ふと、自分の中の誰かが、足りないと呟いた。本当は熱を感じるだけでなく、触れたい。顔を見たい、声が聞きたい、もっとそばに行きたい。

 次々と溢れ出す欲求にまるで応えてくれるかのように、もう片方の手が壁に浮かび上がった。自分も残った方の腕の感覚を確かめるように動かして、なんとかそこに手を合わせる。

 だが、それでもこの両手が、外にいるこの人に触れることはない。もしかすると、永遠に。

 体の内側が、ぎゅうっと締め付けられた。見えない巨人の手で握り潰されたかのような胸の痛みに、叫ぶよりもまず泣きたい気分になって、笑った。

 大丈夫。絶対に、助けるから。

 そう言ったその人も、笑った気がした。



 空が青く白み始めた時間、イアは目を覚ました。

 何度も見る夢だ。自分の持っている知識によると、夢の中の自分が閉じ込められていたのは、魔族からマジックコアを抽出するときに用いる大型の試験管だ。

 恐らく、この夢は自分のコアになった魔族が、まだ生きていた頃の記憶なのだろう。そうでなければ、あの夢がまるで実際の体験のように鮮明であること、そしてドールであるイアが感じたことのない、あの全身を支配するような激情は説明ができない。

 不思議な二人だった。心のつながりというものがあるのなら、確かにそこには形容し難い絆のようなものが存在していた。触れ合った手から伝わるのは、伝えたかったのは、イアが知らない感情。

 あの人は助ける、と言ってくれたが、今自分がここに存在するということはそれが叶わなかったのだ。

 夢の中では切なくて幸せな気分なのに、目を覚ますと少しだけ気分が落ち込む。自分という存在が、二人の約束が破られた証だからだ。

「……イア?」

 自分を呼ぶ幼い声に、顔を上げた。まだ暗い部屋の中で頭をボサボサにしたソウが、カーテンの仕切りの向こうから心配そうにこちらを覗いていた。

 魔族ゆえに気配に敏感な上に、聡い子だ。イアのいつもと違う様子に気付いて、見に来てくれたのだろう。イアは夢の残滓を振り払うように笑って、ベッドの淵に座ってソウを手招きした。

 とたとたと軽い足音をさせて何の警戒もなく駆け寄ったソウを、思いっきり抱きしめた。

「! イ、イア」

「ちょっと、悲しい夢見ちゃって。慰めて、ソウ」

 甘えるように言うと、柔らかくて温かい体は戸惑ったように硬直した。どうするのかな、とワクワクしながら待っていると、やがてそろそろと頭に手が添えられた。

「よ、よしよし。俺がいるから、大丈夫だよ」

 そう言って、ソウはいつもイアがしているみたいに不器用に頭を撫でてくれた。きっと彼なりの精一杯の慰めに、可愛いやら嬉しいやらで顔がニヤつくのを抑えきれなくなったイアは、抱きしめる力をいっそう強くした。

 ぐえ、と変な声が聞こえて、イアは彼を解放した。

「ソウのおかげで、元気になった。ありがとう」

 心からそう言って、頬に手を添えて、顔を付き合わせながら微笑んだ。照れたように顔を赤くしたソウを見て満足し、イアは彼の手を取って立ち上がった。

「さて、今日も患者さんが来る。お手伝いよろしくね、ソウ」

「うん。ねえ窓開けようよ、今日も俺負けないから」

 朝に二人で窓を開けることが日課になっているが、なぜか二人で別々の場所を同時に、しかも手を繋いだまま開ける、というのが我が家のルールになりつつあった。この家には突き上げ式の窓が三ヶ所あるが、そのどれもがバラバラの位置にあるので必然的に引っ張り合いになる。

「よし、ワタシも負けない。と言いたいけど、やっぱり魔族のソウには敵わないよ。ちょっと手加減しない?」

「だーめ。じゃあ行くよ、よーい、どん!」

 イアは精一杯踏ん張るが、結局は幼い魔族の少年に引きずられてしまった。二人のきゃあきゃあとした笑い声が響き、いつもの朝が始まった。




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