今ひとたびの、あふこともがな
神崎繭は幼い頃から美しい少女だった。
彼女は僕の幼馴染であり、繭の美しさが褒められると僕も何だか誇らしい気分になったものだ。絹糸のような光沢のある黒髪に陶磁器の白肌、桜色の頬と唇、黒曜石の瞳。
整った容姿を褒められると真っ赤になって俯いてしまうような、繭は真面目で大人しい少女だった。
小さな頃、僕らが夢中になって遊んでいると『ご飯ができたよ』と母親が呼びに来る。その声で僕らは一日がもう終わりに近いことを知るのだが、その声に応えて遊び仲間は一人抜け二人抜け、温かい夕飯が待つ家へと帰って行く。その様子を繭は羨ましそうに見ていた。
繭の家は母子家庭で母親の帰りは遅い。僕はそれを知っていたからお袋が僕を呼びに来るといつも繭を誘った。繭は小さな声で僕に言う。
『あたし一人で帰れるよ、りょうちゃん』
『そんなん。一緒に帰ろ、繭ちゃん』
僕も繭も一人っ子で誰もいない家へ帰る寂しさは僕にもよくわかったのだ。お袋も心得たもので、僕と繭を両側に従えて夕日の中を三人で帰ったものだった。
『おかあちゃんの携帯に電話しとき、繭ちゃん。帰りにりょうちゃんの家に寄ってなって』
『うん、ありがと、おばちゃん』
仕事帰りの繭の母親が息を切らして迎えに来るまで繭は僕と一緒に本を読んだり、お袋に髪を梳いてもらったりしていた。お袋にしても女の子の世話をするのは楽しかったようだ。綺麗な髪留めや可愛いハンカチを繭に用意して僕に内緒で渡しているのを僕は知っていた。
僕と繭が住む、郊外にはまだ田園が広がるこの静かな町が喧騒に包まれたことがあった。 繭がいなくなったのだ。山が紅葉で染まり始めた秋のことだ。
彼女も僕も六年生になっていたから、小さい頃のように一緒に登下校したり遊んだりすることはなくなっていた。だから繭の母親が血相を変えて僕の家にやって来て、事件を知った時はもうすでに夜になっていた。
『亮治、たいへんや。繭ちゃんがまだ家に帰っとらんと』
それを聞いた時の僕の驚き。親父が警察やら消防団へ電話をかけ始め、お袋は『心配ない、心配ない。大丈夫』と憔悴した繭の母親を励ました。間もなく消防団が慌ただしく翌朝の山狩りの準備に集まり始め、パトカーがやってきた。
『何でもええから知っとること隠さんとおまわりさんに話すんやで。ええな亮治』
僕もパジャマ姿のまま警察に話を聞かれたが、学校を出てから後のことは何も知らないと答えた。
遊んでいて川へ落ちたのではないか、いや山に入って道に迷ったのだろう、いやお寺の古井戸が怪しい、いや明神池に決ってる、などなど人々は噂した。
思えば僕たちの平凡な暮らしとは、こんな事件でも起こらなければ気付かない危険といつも隣り合わせであったのだと思わずにはいられない。
翌日になって繭の運動靴の片方が氏神様へ続く石段脇の草むらで見つかったことから、事態は急速に深刻な様相を呈し始めたのだった。
不審者を見なかったか、見たことのない車が停まってはいなかったか、僕たちは何度も先生に聞かれ、警察に聞かれ、マスコミに追い回された。主だった道路では検問が行われ、それはどんどん範囲を広げていった。繭の母親も徹底的に調べられ、捜索は何日も行われた。そのあまりの厳しさに繭の母親はげっそりとやつれ、僕たちの小学校の校長は心労のあまり入院してしまったほどだ。増員された捜索隊が氏神様の山から明神池にかけて草の根を分け、何度も池の底を浚い、古井戸を覗き、心当たりをしらみつぶしに捜した。
それでも繭は見つからなかった。
神隠しか、誘拐か。
僕は気が狂いそうになっていた。僕のせいだと思った。僕との約束の場所へ行ったために何かが繭の身に起こったのだ。それでも僕は誰にも何も言わなかった。言えなかったのだ。
少女の失踪は全国紙でも報じられマスコミもたびたび事件を取り上げた。地元警察は血眼になって彼女を捜したが行方は杳として知れなかったのである。
何カ月かが経ち繭の事件が落ち着きを見せ初めた頃、僕は一人で氏神様への道を辿っていた。県道から逸れて山裾の道をぐるりと回ると右手に石造りの鳥居が見えてくる。真っ直ぐ進めば明神池へと続く。
僕は右手の鳥居をくぐる。だらだらと長い石段を登ると山の中腹に拝殿があった。神主はおらず、氏子がふた月に一度掃除に来るくらいで普段は人気のない場所だ。それでも日曜日ともなれば境内で遊ぶ子供たちで賑わったりもしたが、繭の事件以来、子供の声も聞かれることはなくなった。
拝殿の後ろには一段高く本殿が続く。
僕はごくりと唾を飲み込んだ。本殿裏の扉は掛金が壊れていて中へ入れるのだ。正面の格子戸から見えるのはご神体だけで、その後ろは間仕切りひとつで物置になっており、屋根の葺き替えで役目を終えた古い鬼瓦やら風雨で朽ちた木製の狛犬だのが所狭しと放り込んであった。明り取りと換気のための小さなサッシ窓が上の方に一か所あるだけで、扉を閉めてしまえば昼でも薄暗い。
きいっと微かな音を立てて扉が開くと甘美な記憶が僕を柔らかく蕩けさせていく。安置されているご神体の裏側、そこが僕たちの秘密の場所だったのだ。もちろん繭の失踪事件の時、ここも拝殿も床下から天井にいたるまで捜索の手が入った。消防団で捜索に加わった父親から聞いたから確かだ。ホームレスが鍵を壊して寝場所に使っていたのだろうと誰も気にも留めなかったらしい。
僕は風に揺れてきぃきぃと鳴る扉を見ていた。繭はどこへ行ってしまったのか。
僕がそこを見つけたのは偶然だった。氏神様でのかくれんぼ。六年生になる春のことだった。格子戸から覗き込んだくらいでは中がどうなっているのか、ましてや奥に小部屋があることなどわからない絶好の隠れ場所だった。ここなら見つかることはない。何より、悪戯盛りの子供でも神様は尊いもの、崇めるものというおぼろげな認識があったのだ。神様のところに隠れているなど誰が思うだろうか。僕は自分の発見に心を躍らせた。
今から思えば、ここに足を踏み入れた時から僕はすでに普通ではなくなっていたのだろう。不敬な輩に罰を与えるため神様が意地悪な罠を張って待ち受けていたに違いない。僕はまんまとその餌食になったのだ。そしてその罠に自ら飛び込む無謀な蝶も現れる。
ここへ隠れた僕を追いかけて繭が後から入ってきたのだ。
『りょうちゃん、バチあたりやな』
『繭ちゃん、来たらダメや』
思えば小さな頃から繭は僕の後ばかり追いかけていたように思う。内気で人見知りをする彼女は僕を通してでないと遊びの仲間にも加われなかったから。もう鬼が探しに来ると言って繭は僕の横へと無理矢理に体を滑り込ませてきた。
けれど天井は低く子供でも頭がつかえそうだったし、一間ほどのスペースは乱雑に押し込まれた物で一杯になっており、自然と僕らは膝をかかえてほんの少しの隙間に引っ付いて座らざるを得なかった。
突然ヒヨ鳥が甲高く鳴いて拝殿そばの竹やぶから飛び立った。
繭が驚いて声をあげた。
『声出したら見つかるが、繭ちゃん』
『ごめん、もう絶対に声出さんから』
僕らを探す鬼の声が聞こえてきて、繭が僕にしがみついてきた。触れ合ったところから、火傷のようにヒリヒリとした痛みが広がってくる。だがその痛みはどこか甘く心地良い。
それは繭も同じだったのだろう。気がつくと僕らは固くお互いを抱き締めていたのだ。
頬が熱くて、体が熱くて、僕の心臓はバクバクと壊れんばかりに音を立てていた。繭の長い睫毛が僕の頬をくすぐり思わずため息が漏れた。どれだけ長い時間、僕らはそうやっていたのだろう。
鬼だけでなく遊び仲間が探す声で僕らは我に返ったのだ。僕は繭から静かに体を離した。
『僕、先に行くわ。繭ちゃんは後からおいで』
『うん』
夢を見たような顔つきで繭は頷いた。
『誰にも言ったらいけん。秘密な』
この場所が秘密なのか、二人で感じた背徳感が秘密なのか、その両方なのか。僕は言わなかったけれど繭は頷いた。淡い光の中で微笑む繭は神々しくて途轍もなく美しかった。
『うん、りょうちゃん。約束する』
子供から脱皮した二匹の幼い蝶が羽を広げた瞬間だった。
それからはまるで何かの熱に冒されたようにあの場所で僕は繭と会い始めたのだ。合図は簡単だった。言葉はいらない。目と目が合えばそれでよかった。僕の中にくぐもった捉えどころのない熱い固まりが頭をもたげて来ると、僕は繭を見ずにはいられなかった。僕と目が合うと繭は金縛りにあったようになる。そして目には見えない何かに操られていそいそとあの場所へとやってくるのだ。まるで主人に忠実な召使いのように。この完璧なまでに美しい僕だけのしもべ。
だが、あの場所では僕の方が繭の下僕だったと言えるかもしれない。類まれな美貌を持つ少女。彼女の命令を僕は喜んで引き受けた。焦らされ試され僕はますます彼女へと絡めとられていった。僕は繭という首輪をつけた犬のように従順だったのだ。
きぃと扉が開く音で神様の部屋の空気は変わった。繭はいつも僕を待っていて僕が現れると恥ずかしそうに笑みを浮かべるのだ。
そして小さいけれど熱っぽい声で僕の名前を呼ぶ。
再びきぃと音を立てて扉が閉まると魔法の時間が始まっていくのだ。
幻と現が交錯し、もはや境界は二人の熱で溶けて解けて定かではなくなっていく。
体温と吐息だけで僕と繭は会話した。
明り取りの窓から漏れてくる陽光が二つの体を淡く夢の中のように浮かび上がらせて、自分たちがどこにいるのかも曖昧になる。
繭は微笑んでいた。
神様が微笑むみたいに。
僕も笑い返した。神様は慈愛に満ちた眼差しで僕らを見て微笑んでいる。
悪いことをしているという意識は全くなかった。ここは聖域なのだ。ここでは許されるのだ。なぜなら神様がそうするよう命令したのだから。
僕たちのしていることはとても神聖な儀式なのだと。
その証拠に繭は僕と会うたびにますます美しくなっていった。僕は何を考えているのかわからない大人びた子供だと言われるようになったけれど。
他の者に怪しまれぬよう、繭と僕はお互いに距離を取り始めた。当然のことだ。あの場所は二人だけの秘密なのだ。誰にも知られてはならない清浄な行為なのだ。秘密は守られてこそ、秘密なのだから。
繭は女の子たちと、僕は男友達と遊ぶように気を付けた。ちょうどあの年頃にあるように繭たちは少女らしく『男なんて』と言い、僕らは少年らしく『女なんて』と言って無関心を装ってお互いを避け始めていたから、繭と僕にとってはとても都合が良かった。そうすることで、僕らがあんなことをしているなど誰も考えもしなかったのだから。
僕は扉に手をかけた。きいっと微かな音を立てて扉が開く。
あの日も僕らはここで会うはずだった。
繭は来ていなかった。こんなことは初めてで、けれど、心の奥底では妙にほっとしている自分がいた。
あの日、いつまでも来ない繭を待ちながら僕は考えていた。
繭は正気に返ったのかもしれないと。
だってあんな異常な状態が続くほうがおかしいのだから、ついにその日がきたのだとすぐに思った。
繭にかけられていた魔法が解けてしまう日が来ること。それは予想できないことではなかった。なぜなら僕も僕自身にかけられている神様の魔法の力が弱くなっていることに気付いていたからだ。
確かに二人の始まりは熱いだけで、そこには冷静な思考も常識も欠いた異常なものだった。しかし熱した鉄がいつまでも熱さを保ってはいないように、僕もいつしか客観的に繭との関係を判断し始めていたのだ。特に繭と別れての帰り道や繭と会った日の夕食時などには、子供の顔をしながら大人を欺く自分の強かさに呆れ、同時に嫌悪した。僕は自分のために繭の優しいけれど弱い性格を利用していたのだ。ずるずると強いものに引きずられてしまう繭の弱さを。それなら尚のこと、僕の方が正しい道へと明るい道へと繭を連れ戻してやらねばならなかったのではなかったか。
正気に返った繭はどうするだろう。僕を再び受け入れてくれるだろうか。それとも僕を拒絶するだろうか。それが怖くて神様の魔法が続いているフリを僕はしていた。繭にあんなことをしておいて、あんなことを喜んでしていた僕に悩む資格があるのかどうかはわからない。それでも僕はきちんと自分の気持ちを伝え、もし繭が僕を選んでくれなくてもこの『秘密』を逆手にとって繭を苦しめることだけはしてはいけない。順番はおかしくなったけれど普通の付き合いを始めてみたいと言わなくてはいけない。
そして、そうしなければならなかったのに。
僕がぐずぐずしてまだ大丈夫、もう少しと思っているうち、繭はいなくなってしまった。僕は自分の思いを伝え、過ちを修正するチャンスを永遠に逃してしまったのだ。
僕は二人で座った場所へ一人で腰を下ろした。
繭ちゃん、どこにおるんや。
僕は呟いた。
謝らせてもくれんのんか、繭ちゃん。
これが神様の罰というならいくら何でもひどすぎる。繭を巻き込んでしまったのは僕なのに。それともこれが神様の本当の狙いだったのか。
あまりにも美しい生贄として繭を手に入れるために。
僕は唇を噛みしめて嗚咽をこらえた。そしてもしかしたら始まっていたかもしれない幸せな未来を思い浮かべた。
僕は繭に好きだと言う。繭はきっと頷いてくれる。そうしたら堂々と皆の前で肩を並べて歩いてみせるのに。
だから神様、と僕は祈った。
もう一度、繭に会わせてくださいと。
繭がいなくなってから僕は他人との距離を取る無愛想な子供になってしまった。親父の転勤で町を離れたのは中学二年に上がる春だった。新しい環境は僕をほんの少し開放的にしたが、他人と距離を取るクセは相変わらずだったし、高校に入るとそれが却って興味をそそるらしく僕に近づいてくる者が結構いた。
桂木美保もそんな一人だった。
「大野先輩、ちゃんと聞いてます?」
「ちゃんと聞いてます」
「今度の連休に予定している旅行のことですよ。文芸部恒例! 三年生追い出し豪華一泊旅行。予定入れないでくださいってお願いしましたよね」
パソコンで作った旅行案内を僕に押し付けて桂木は黒髪を指でかきあげた。僕は引退したばかりの文芸部の部室に呼び出されていた。僕はとりあえずの部長で部内の連絡や行事のまとめ役は桂木が一手に引き受けていた。彼女がそういう雑務をしてくれていたからこそ僕でも部長が務まったのであり、その点で僕は桂木に結構感謝し、申し訳ないと思っていたのだ。
「恒例なのか? 旅行」
「んもう、先輩はこういうイベントの時はいつもいなかったから知らないんですよ! 前部長としては是非出席ですからね」
「うん、あけてあるよ。っていうか予定なんてないからね」
「それ笑顔で言うことですかー」
「心の寄り道、十七文字の青春か……。俳句でも作るつもりなのか? それより、これ集合場所だけで行き先が書いてないな」
新部長桂木はにこにこと陽気に言った。
「高原のペンションを予約してありまーす。それ以外は秘密ダヨ」
「恐ろしい旅だなあ」
てへへと桂木はまたも陽気に笑った。
僕はその明るさに見事に騙された。
「二人だけって、それ、どういう」
「先輩怒らないで! 騙したことは謝りますから!」
集合場所へは桂木と僕しか現れなかった。初めっから仕組まれていたのだ。
「僕は」
「帰らないで。帰るって言わないでください、先輩……」
僕は桂木が泣きだすのかと思って口をつぐんだ。桂木の気持ちには何となく気がついていたけれど、僕が三年になって文芸部を去ればそれだけの関係だと思っていた。こんな思い切ったことをするとは想像もできなかったのだ。
早朝の駅前。楽しいGWが始まったばかりだというのに僕は気難しい顔で立ち、桂木はバッグを掴んだまま俯いていた。
ふわふわワンピースもショートブーツもバッグもカチューシャも、桂木が精いっぱいおしゃれをしてきたということを雄弁に物語っていた。こんな僕のために。桂木は充分可愛いのに、その気になれば桂木を誘いたいと思っている男はたくさんいるだろうに。なぜ僕なんかに関わろうとするのだろう。
桂木はキッと顔を上げた。目がきらきらしている。
「私は大野先輩が好きです」
僕は反射的に目を逸らす。
「返事を聞かせてください」
「桂木、僕は」
「返事はこの旅行が終わったあとで聞きます」
「じゃあ、旅行には行けない」
「先輩はわがままです!」
「わがままはどっちだ!」
桂木が息を呑んで僕を見た。ついに涙がぽろぽろ頬を伝う。
「どうして断ること前提なんですか? どうして私じゃダメなの? 先輩、教えてください」
君は繭じゃないから、という言葉を言いかけて止めた。今思い出しても赤面しそうなあのこと。繭は最低の僕を知っている。
「先輩!」
「僕はいい人間ではないから。理由はそれだ。桂木にはもっと違うやつの方が合うと思う」
僕は汚い。それは認める。背骨が溶けていくようなあの感覚は絶対忘れられないものだ。だがそれ以上に僕は繭を忘れていない。あんなことをしている内に繭を好きになったのではない。むしろ逆だ。それを繭に言いたくて、僕の心はもういなくなってしまった少女をずっと捜しているのだ。
桂木は痛ましそうに僕に言った。
「先輩は私と旅行に来なければいけませんよ。だって行き先は昔先輩の住んでいたところですから」
どういうことだと僕は桂木を見た。桂木は憐憫の情を顔に浮かべていた。
「私知ってるんです、先輩の秘密。先輩がこっちへ転校する前にいた中学校の子から聞きました。世間なんて狭いですね。今、塾が一緒なんです。びっくりしたでしょ。その子から聞きました。幼馴染の女の子がいなくなったこと。先輩はその女の子が忘れられないんだろうって。物凄く綺麗な子だったんですってね」
ははっと僕は力なく笑った。桂木はわかっていない。繭が綺麗な子だったから? そりゃ繭は綺麗だった。だがその理屈でいけば、僕は桂木を忘れられずにずっと待っていなけりゃならないことになる。桂木はわかってない。僕が繭を忘れられない本当の理由。僕が桂木を好きにはならない本当の理由。
繭と過ごしたあの町を訪ねて繭はいないのだということを僕に再確認させ、新しい人生へ踏み出せとでも言いたいのだろうか。桂木は全然わかってない。
ありがとう、桂木のおかげで目が覚めたよ、新しい道を君と歩みたい。そんな三文芝居を考えているのだろうか。
ぐにゃりと世界が歪んだ気がした。桂木はわかっていない。僕があの場所でどんなだったか。繭と何をしていたか。
背中を背徳の蟲がぞわぞわと這い上がり、頭の片隅で扉が開く音がした。
繭の不思議な笑みが脳裏に甦る。
「行こうか」
と、僕も微笑んで桂木に言った。
センチメンタルジャーニーへ。
そこで桂木は繭の替わりにはなれないことを身を持って知ればいいのだ。そして何よりそれは自分から言い出したことなのだから。
「おいで」
僕は再び微笑んで桂木に手を差し出した。桂木は今まで目の前に聳えていた高い氷の壁が溶けてなくなり戸惑っているようだった。でも白く細い指でおずおずと僕の手を握ってきた。
僕は自分が蜘蛛になったような気がした。 僕の手の中には、可愛い世間知らずの蝶がいる。
列車は僕と繭が暮らしていた県北の町を目指してトコトコと走って行く。桂木は僕の隣に座って身を固くしていたけれど、僕がぽつりぽつりと話しかけるうちにいつもの陽気さを取り戻していった。
ああ、可愛いな。でもなぜ君じゃダメなんだろう。なぜ僕なんだろう。桂木が眠そうにしているので僕にもたれて眠ったらいいと言った。目が覚める頃には魔法の国へ着くだろう。
列車を降りるとペンション村の送迎バスが僕たちを待っていた。僕の住んでいた田舎町はたった六年の間に丘陵に広がる別荘地を目玉とした観光産業の町へと大変貌を遂げていたのだ。立派なサイクリングロードが整備され、明神池の畔には観光客相手の大きなログハウスまで建っていて僕は苦笑した。
桂木が予約していたのは明神池を見降ろす丘陵にあるペンションで、広場を囲んで同じような建物が幾つもあった。広場には管理棟であるメインハウスがあり、そこで食事やショッピングもできるらしい。桂木がチェックインをしている間、僕は壁に貼られた観光案内を眺めていた。ホタルと花と水の都へようこそ。ポスターはなかなかの出来だ。まるで変わってしまって違う町のようだった。僕と繭が通った小学校や住んでいた家があった地区はどうやら開発の波から取り残されているらしい。懐かしい地名に、空き地に響く子どもの声や三人で帰った時の夕日の大きさを僕は昨日のことのように思い出していた。カウンターでは桂木が顔を真っ赤にさせて宿泊者名簿に記入している。僕のことを何て書いているのだろう。
ごめん。思わず呟いていた。
桂木、ごめん。
ペンションに荷物を置くと、僕と桂木は明神池へと遊歩道を降りて行った。五月の若葉のトンネルを通って。僕は桂木の前を歩く。桂木は初々しい花嫁のように僕の後に従った。リバティプリントの花柄模様のワンピースが抑えた喜びに裾を揺らしている。遊歩道は卯の花の甘い香りをまとって池の畔をログハウスへとくねくね続いていた。
夏になるとこの池から引いた疏水にホタルが乱舞し、ホタルを見ようと集まってきた観光客でこのあたり一帯は賑やかになる。ホタルの季節にはまだ早いから僕らの前にも後ろにも観光客の姿はなかった。
夏までの間、周囲の木々を静かに水面に映し、池はとろりとした鈍色の水を湛えていた。
「深そうですね」
手すりをきつく掴んで、池を覗き込みながら桂木が恐ろしそうに言った。
「この池はホタルの名所なんだ。ホタルにみとれて池に落ちる人が結構いたそうだよ。前はこんなちゃんとした遊歩道なんてなかったから。所々深い所があってそこへ落ちたら死体もあがってこない。水底にはそんな死体が手を伸ばして池を覗き込むやつを引きずり込もうと待ち構えているんだ、こんな風に!」
僕が手を伸ばすと『きゃっ』と桂木は覗き込むのを止めて手すりから体を離し、怯えた目で僕を見上げた。
「なんて冗談」
「もう、ひどい、ひどい」
そしてポカポカと僕の胸を両の拳で叩いた。
その仕草が繭を思わせて、僕はたまらず桂木を抱き寄せた。抱き寄せてから後悔した。桂木じゃダメなんだ。どうして桂木じゃダメなんだろう。僕の腕の中で桂木は濡れた子犬みたいに小さく震えている。それから観念したように目を閉じた。僕は仕方なく唇を重ねてみる。
桂木の唇は甘く熟れた果実の味がした。
……りょうちゃん
耳のそばで声がしたような気がして僕は桂木から顔を上げた。
……いやよ
風? 空耳?
「先輩」
桂木は興奮したのか頬が上気している。
「先輩、私」
桂木が言いかけた時だった。水面を渡る風に乗って悲鳴が聞こえてきた。細く、長く、何度も。僕と桂木は顔を見合わせた。ログハウスのあたりが騒がしい。僕は桂木の手を引くと足早に歩き出した。
「何かあったんですか」
「ああ、いや、何でもない。おい! 早うボート出してや!」
僕が話しかけた男はどこかへ携帯電話をかけながら、せわしなく叫んだ。数人の観光客が口々に池を見ながら騒いでいる。ログハウスからも人がばらばらと出てきた。
「先輩、怖い……」
桂木が僕の手を痛いほど握り締めてくる。
僕は池を見渡せる場所へと出るために人をかき分けた。
ちょうど一艘のボートが岸を離れたところだった。
何をしようとしているのだろう。
「せんぱい」
「黙れっ」
僕の心臓は早鐘のように打ち続けていた。息がうまくできない。ボート乗り場では年配の夫婦らしき二人連れが引き攣った顔でボートの行方を追っている。
長いような短いような苛立つ時間が流れた。
ボートは池のちょうど反対側まで進むとエンジンを止めた。風に乗ってオイルの匂いが漂ってくる。何かを捜しているようだ。けれどしばらく水面を睨んだ後、軽やかなスピードでまたボート乗り場へと戻ってきた。
「何もありゃあせんがな。鏡みたいにのっぺりして泡も浮いとらん。あんた幻でも見たんと違うか?」
無駄働きをさせられたと言わんばかりに、ボートの男が皮肉を言った。けれど老婦人は激しく頭を振る。
「女の子が、女の子が落ちたんです。見間違いなんかじゃありません。あそこから、ふわっと飛びこむみたいに」
そう言って彼女が指した先は池の反対側、さっき僕たちが抱きあっていた場所だ。池のすぐ傍まで新緑の山が迫り、遊歩道の白い手すりが覆いかぶさる木々の間から見え隠れしている所。
小学校のグランドを二つ合わせたほどの広さの池だ。だから
「見間違いなんかじゃありません」
老婦人は言い張る。
「私たちさっきまであそこにいましたけど、誰にも会いませんでしたよ」
桂木が横から口を出した。ボートの男が味方を得たとばかりに勢いづいた。
「ほらな。何ぞ木の枝か水鳥でも」
「もう一回ボートを出してくれませんか」
僕は男の言葉を遮って言った。何だかさっきから体の震えが止まらない。頭の隅に嫌な汚れがこびりついているような感じだ。そこから来る寒さで体がガタガタ震えている。
「はあ? 何もおりゃせんが」
「本当に誰か落ちたかもしれないじゃないですか!」
……りょうちゃん、いやよ
あの囁き。
だが男も頑固だ。ボートを出す、出さないで押し問答をしていると桂木が叫んだ。
「先輩あそこっ! 何か浮いてる……」
池の底から浮かび上がってきたのは少女の真っ白い屍骸だった。運動靴は片方だけしか履いていない。池から引き上げられ、ボート乗り場の板桟橋に横たえられているのは繭だった。
薄く眼を開けている。黒髪が濡れて頬に貼りついていた。
「綺麗なホトケさんやな」
携帯電話で呼ばれて、やっと姿を現した巡査が思わずそう漏らした。
「兄ちゃん、この子、知っとんのか?」
僕は繭のそばに座りこんだまま、巡査の問いかけにウンウンと首を振った。声は出なくて熱い涙ばかりが滂沱と溢れた。巡査が子供に言うように優しく僕に尋ねる。
「この子の名前とか住所とか、言えるか?」
「か、んざき、ま、ゆ、じ、じゅ、うしょは、さかえ、さかえまち、さかえまち……」
つっかえつっかえ僕が言うと巡査は、もうええ、もうええ、悪かったなと呟いた。
……りょうちゃん、いやよ
「本署へ連絡いれるから。またあとで話聞かせてや、兄ちゃん」
唇は血の気が失せていたけれど、あの日のままの繭だった。
繭ちゃん、やっと会えたな。こんなとこに隠れとったんか。やっぱり僕とのかくれんぼが忘れられんかったんやな。
僕は泣きながら、でも嬉しくて繭の頬を撫でた。
「せんぱい……」
いつのまにか桂木が僕の傍へ来ていた。
「綺麗な子やろ? 桂木。繭は僕の後ばかり追いかけて。ほんまにいじらしい子やった」
……りょうちゃん、いやよ
「先輩、この子、六年も水の中に……。どうして綺麗なままなの……」
桂木は涙を浮かべている。あきれるほど単純なやつだ。
「繭はずっと綺麗なままに決っとろうが」
僕の繭。美しい繭。内気で人見知りをする繭。僕の後ばかり追いかけて、従順でよく言うことを聞いてくれた自慢の幼馴染。
……りょうちゃん、いやよ
まだそんなこと言うとんのか、繭ちゃん。しまいには怒るで、僕。はよ、続きしよ。もっと、もっと僕を。
氏神様の森が華やかな色に染め上げられていたあの日。明り取りの窓も紅で。繭の頬も僕の頬も紅で。
……りょうちゃん、もうやめよ、こんなこと。あたし、りょうちゃん好きやけど。こんなこと頼むりょうちゃんは嫌い。
何で、何で、何で。
……こんなん変や、異常やわ。あたし、おばちゃんに言う。全部言う。りょうちゃんが壊れてしもうたて、先生にも言う。な、治そ、りょうちゃんの病気。
思わず僕は繭を組み伏せた。最初は同じ炎に身を焦がしていたのに。いつからすれ違うようになってしまったのか。繭がいつも僕にしてくれたように、僕の手が繭の白い喉にかかった時。
突然ヒヨ鳥が警笛のような泣き声を上げて明り取りの窓を掠めた。その声に驚いた僕の隙をついて繭は逃げ出したのだ。
境内を突っ切って、石段を転げ落ちるように駆けて行く。途中で片方の靴が脱げ脇の草むらへ跳ねて落ちた。僕は泣きながら繭を追いかけた。
変。異常。そんなことは言われなくても気が付いていた。でも、でも。初めて抱きあった時のあの快感を得るためにはこうしなければならなかった。人通りの多い県道からはどんどん遠ざかって繭は明神池の方へと走って行く。こんな時でも繭は僕のことを考えている、そう思うと余計涙が溢れた。
繭の背中で紅葉が舞う。繭の黒髪に飾りをつけるみたいに。
お池だ。前方に見えた。途端、繭の姿がふわっと消えた。同時に水音がした。
繭ちゃん!
僕は水面に目を凝らした。夕日の残滓であるくすんだ明りの中で繭が静かに沈んでいくのが見えた。声も立てずに。それから何事もなかったように池は静まり返った。人ひとり飲み込んだのに。僕は阿呆のようにその場へ座り込んでいた。今、目の前で起きたことは幻だったのだと思った。繭はあの秘密の場所にまだいる。だからいくらお池を浚っても繭はみつからないのだ。
みつからなかったはずだ。繭は自分から隠れていたのだから。僕を待って。あの秘密の場所で待っていたように。
頬に貼りついている髪を指で直してやった。睫毛に残る水滴をはらってやった。
馬鹿やな、繭ちゃん。何であの時誰もおらん方に逃げたんや。僕のためにか。こんな僕のためにか。
六年間も冷たい水の底に独りでおったんやな、繭ちゃん。
綺麗なままでいてくれたんやな、僕のために。
僕が来るのを待っていてくれたんやろ?
「先輩、警察の人が」
「桂木、ごめん。それと、ここへ連れて来てくれてありがとう」
僕は繭を抱きあげるとボート乗り場から身を躍らせた。
水泡が僕たちを包む。桂木の悲鳴が聞こえた。ぐんぐん僕らの体は水の底へと落ちていく。光が薄くなり、まるであの秘密の場所にいるみたいだ。
繭がゆっくりと目を開けた。
そして美しい顔を強張らせた。
繭ちゃん、やっと捕まえた。
続きをしようか。
そう言って僕は繭に微笑んだ。
ホントに繭ちゃんは優しいな。でもその優しさがアダになるときもあるってこと知らなきゃ。あの時、繭ちゃんは明神池じゃなくて人のいる方へ逃げるべきだった。誰かに助けてもらっていたら死なずに済んだのに。僕のことかばってくれたんでしょ? 幼馴染で優等生で繭ちゃんを可愛がってくれたおばちゃんの息子が変な性癖を持っていただなんて誰にも言えないよね。でもきっかけを作ったのは繭ちゃんだからね。僕だって自分にこんなトコロがあるなんて思いもしなかった。お池のどこに隠れていたの、繭ちゃん。消防団の人たちに頼んで何度もお池を浚ってもらったのに。六年間も僕をほうっとくなんてひどいよ。僕が女の子と帰ってきたから安心したんでしょ。あのバカ女は僕が初恋の人を忘れられずに苦しんでいると思っているんだよ。僕は忘れようなんて思ってもいないのに。だって僕は繭ちゃんじゃなきゃダメみたいだから。
ね! 繭ちゃん、あの続きしてよ。繭ちゃんの指じゃなきゃダメだからさ。繭ちゃんの指が僕の喉に絡みついて、絶妙の力加減で締め上げていく。
苦しい? まさか!
ううん、ぞくぞくするね、考えただけでも。
繭ちゃんに会いたくて、僕はずっと神様にお願いしてきたんだよ。それにね神様にお願いするだけじゃないよ、僕は自分でも努力したからね。学校じゃ常にトップ、トップ、トップ。凄いでしょ。繭ちゃんの幼馴染がバカだと繭ちゃんに申し訳ないからね。
ああ、繭ちゃんは本当に綺麗だね。
死体になっても。世界一綺麗な死体だと思うよ。
本当に綺麗だ。
僕は夢見心地で繭に囁いた。
さあ、あの続きしよ?