ないものねだりのGirl meets girl.
文学フリマに応募させていただいております♪
女の子たちの甘酸っぱい友情にキュンとしていただけたら嬉しいです♪
それと、作者の青春も入っております。
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‹真凛side›
「いやぁぁぁだあああ!!!梨緒は私のお嫁さんなんだぁぁぁあああ!!!誰にも渡さないんだぁぁぁ!」
日差しの強くなってきたある春の日。
ボロい校舎の一角にある小さな音楽室に私の金切り声が響き渡りました。
地団駄踏む私の腕を一人一本ずつ掴み、囚われの宇宙人となった私をその他の部員たちがニヤニヤしながら傍観しています。
「はいはい、おママゴトなんて真凛ちゃんは可愛いでちゅねぇ〜。」
「お姉さんたちが真凛ちゃんもちゃーんと構ってあ・げ・るぅ〜。」
吹奏楽部の同級生たちは私のことをいつもこうやって子供扱いします。まったくもってけしからん限りです。
「その辺にしておきなさい。」
“部日誌”と表紙に書かれた黒いノートをパタリと閉じてピアノ椅子に腰掛けたまま振り返るこの美少女こそが私のお嫁さん。その一挙一動が素敵すぎて溜息が出ます。
「はぅぅぅ〜梨緒ぉ〜!みんなが、みんなが私を子供扱いして梨緒のところへ行かせてくれなかったのぉぉぉ〜。」
身長百四十二センチの私、小日向真凛は、私の腕を掴んでいた手を振りほどき、身長百七十二センチのスーパーモデル体型の大月梨緒の長い足に擦り寄ります。あぁ、どさくさに紛れてなんて幸せ。こんな綺麗なお嫁さんをもらえて私は世界一の幸せ者です。
「離してくれるかしら、暑いわ。」
暑いと言いながらもクールな表情のギャップが堪りません。
「はぁぁぁ〜。そんなエスな梨緒も、ス・テ・キ〜。」
私は構わず、更に力を込めて梨緒の脚にしがみつきます。
部日誌を傍らの部員に手渡し、梨緒はピアノ椅子から腰を上げました。梨緒の脚にピッタリへばり付いている私の目線の先は、絶妙な角度で見えそうでなぜか見えないスカートの中身に興味津々です。
「帰るわよ、真凛。」
「はぁーい!」
聞き分けがいいのは返事だけ。梨緒は片足に私をくっつけたまま脚を上げます。私のお嫁さんはなかなかパワフルです。そんなところも、ス・テ・キ。ラブラブな私たちの間に誰も入る隙はありません。
「ではみなさん、御機嫌よう。」
「ごきげんよ〜。」
傍から見れば、片足にへばりついている少女に見向きもしないでさっそうと歩く美少女という可笑しなビジュアルの私たちを笑顔で送り出します。もう、彼女たちもこの光景は慣れたものという事です。これが練習終わりの、いつもの音楽室。つまり西中吹奏楽部の日常です。
※ ※ ※ ※ ※
「そろそろ自分で歩いてくれるかしら?重いわ。」
「うん!」
梨緒の言いつけであれば何であろうと喜んで!梨緒の脚から離れた私は、前を歩く梨緒より一歩下がって歩きます。
「ねぇねぇ梨緒〜。塾通りに新しくクレープ屋さんができたんだって!今から食べに行こうよぉ〜。クレープだよ、美味しいよ?幸せになるよ〜。」
「そうやって幸せばかり体に詰め込んでいるから、そんなに豊満になってしまったのかしら?」
意味深なことを言った梨緒は、私の胸を直視しています。
最近私の下着のサイズが合わなくなってきたのは成長期のせいだけではなさそうです…。
「うぅ〜…。でも食べたいよぉ〜。梨緒とクレープ食べたいよぉ〜。」
駄々をこねる私に、梨緒は大きなため息を吐きました。
「しょうが無いわね。一つだけよ。」
「やったぁー!梨緒、だぁいすきぃ!」
※ ※ ※ ※ ※
‹梨緒side›
「わぁぁぁ!梨緒、みてみて!いろんな種類があるよ!どれにしよう…。やっぱ定番のチョコバナナかな?それともイチゴホイップ?あっ、でもブドウシャーベットも気になるぅ!」
クレープ屋さんのショーウインドーの前でお目々をキラキラさせながら目移りさせている真凛。
「早く決めなさい。私はチョコホイップにするわ。」
「えー、梨緒決断早いよぉ。えっと、えっと、じゃあ私はロイヤルベリーベリーアイスミックスホイップ増量で!」
カウンターでクレープを受け取り、向かい合って椅子に腰掛ける。
まるで花束のような可愛いクレープも、真凛の可愛さの前ではその魅力も色あせ、甘い餃子にしか見えない。
「えへへ〜。幸せ〜。」
次から次へと真凛の口の中へクレープが放り込まれていくのを黙って見つめる。
「でも梨緒、決めるの早いよぉ〜。いっぱい種類あったんだから、もっと悩もうよぉ〜。」
黙って食べているより早いペースで無くなっていく真凛のクレープ。真凛のほっぺたには真っ白な生クリームが付いてしまっていた。
「ほら、クリーム付いてるわよ。」
「えっ、どこどこ?」
私が教えてあげると、真凛は舌をぺろっと出して唇を舐めるけれど、クリームが付いているのはほっぺたなので届くはずもない。
「もぉ、ここよ。」
指で真凛の柔らかい頬を拭い、クリームを指に移す。
「あ、ホントだ!」
「もう、気を付けなさいよね。」
私は、私の指に乗った生クリームをぺろりと舐め取る間にも、真凛のクレープは減っていく。
「えへへ、美味しいね。」
見ると、たった今私がクリームを取ってあげたにも関わらず、真凛はまた新しく今度は反対側のほっぺたにクリームを付けていた。
「なぁ、あの子たち可愛くね?」
これから塾へ向かう他校の男子生徒たちが真凛をイヤらしい目で見ている。
「…だから嫌なのよ。」
私のそのつぶやきは真凛の耳には届かない。
真凛は可愛いし、思春期の男子たちがその女の子らしい豊かな胸に目を奪われてしまう気持ちも分かってあげられなくはないけれど、男子生徒たちの視線はやたらあからさまだった。
「ん?梨緒、どうしたの?食べないの?食べないんだったら…えいっ!」
私の胸と同じく貧相なチョコホイップクレープに比べて、まるで別物と思えるほど豪華なクレープを頬ばっていた真凛が可愛いお口で私のクレープを横取りした。
「うーん!シンプルイズベストだね!さすが梨緒〜。」
真凛の齧った跡を見てしまうと、変なことを考えてしまい、顔が熱を持つ。
「はぅっ!これってもしかして、間接キスになるのかな!?」
「い、言わないでちょうだい。よくそんな恥ずかしいこと言えるわね…。」
せっかく私が言わないでおいてあげたことを真凛は口に出してしまったので二人とも耳まで真っ赤になってしまった。
「わ、私もう一個クレープ買ってくる!」
「ちょっと、真凛!」
あれほど一個だけねと言ったのに、照れ隠しのためか真凛は駆け足でクレープをカウンターまで注文しに行ってしまった。
その間私は真凛の齧ったクレープに口をつけようとしては躊躇ったりを繰り返していたというのに、注文を終えた真凛はまるでキャベツ玉みたいなクレープを手にし、弛緩しまくった顔で戻ってきた。
「みてみて〜梨緒〜。中にケーキが入ってるのぉ〜。でへへ〜幸せぇ。」
その笑顔にクリームで甘くなったため息が出る。
大好きな真凛のこんなかわいい顔を独り占めしているなんて、私って本当に、し・あ・わ・せ。
※ ※ ※ ※ ※
‹真凛side›
──二年前、春。
一目惚れでした。
中学生になって、初めての部活動。
小さい頃からピアノを習い、音楽に慣れ親しんできた私は、吹奏楽部の見学に来ていました。
私は大きな楽器に惹かれました。
背が低いことがコンプレックスで、小学生の頃はよくクラスの男子に「チビ」と、からかわれていたから、大きなものに憧れたのかもしれません。
大きな楽器といえば、チューバという金管楽器やコントラバスという弦楽器、他にもバリトンサックスやユーフォニアムなど色々ありましたが、どれも私にはサイズが合わなかったり、支え切れなかったりして諦めざるを得ませんでした。
けれど、打楽器は別でした。
大きな打楽器には、バスドラムという大太鼓やシロフォンという鍵盤打楽器、他にもチャイムやドラなど、大きいけれど、床に置いて演奏するのでサイズや重さがあまり関係の無い大きな楽器たちが勢揃いしていました。
だから、入部届けと同時に出す楽器希望調査票には「打楽器」と書いて提出しました。
「小日向さん、ちょっといいかしら?」
吹奏楽部の顧問である女の先生が私を呼び出しました。
確か、名前は井崎晴子先生です。
私は、どうして私だけ呼びだされたのか分からなくて、なんだかとても不安でした。
「小日向さん、フルートの体験はしてみたかしら?」
フルート、確か小さくて細い銀色の横笛のことで、一度体験はしてみたけれど、私の中での印象は薄い楽器でした。
「うちの部は人数が少ないからね……。主旋律を吹く楽器がもっと欲しいのよ。正直、打楽器は割愛したり手の空いているパートの人が緊急で打楽器に代わったりできるのよね」
なんとなく、顧問の先生が言わんとしていることが予想できてきました。
「それに、小日向さんにはフルートの才能があると思うの。だから、その……、ね。打楽器は他の子に任せてフルートをやってみない?」
どうして顧問の先生が私に小さなフルートを勧めるのか。
もちろん、本当に主旋律に人手が欲しいというのもあるかもしれません。
フルートの先輩は二年生と三年生を合わせて三人。
主旋律を担当することが多いフルートがたった三人しかいないとなると、そこに新入部員を割当てたいのも分かります。
けれど、どうして私なのでしょうか?
新入部員は私を入れてもざっと十二人。
本当にフルートに新入部員を割り当てたいだけなら、この十二人全員に声をかけるべきのはずです。
なのに、呼びだされたのは私だけでした。
理不尽だ。そう思いました。
「分かりました。私、フルート頑張ります。」
私は笑顔でそう答えました。
分かってはいたのです。
打楽器はサイズや重さなんて関係無いなんて嘘です。
無理やり関係無いことにしていたのです。
本当は、大きくて重たい楽器を運んだり、並べたり、大変なのです。
それに、鍵盤打楽器やスネアドラムなどは多少の高さを調節できますが、目一杯低く調節しても私には高かったり、いろんな人が一曲のうちにその楽器を使ったりするので、いちいち私の高さに合わせていられないのです。
だからフルート。
チビな私にピッタリの小さな楽器。
「そう、よかった。ありがとうね、小日向さん。」
先生の笑顔にも押し負けて、小日向真凛の中学部活動生活は、フルート担当になりました。
「じゃあ、正式な希望調査票をもう一度提出してもらえるかしら?はい、紙は渡しておくわね。提出期限は昨日までだったけれど、小日向さんは明日までに出して貰えれば構わないわ。裏面にフルートって書いておいてね。」
顧問の先生の手際の良さがなんだか凄く鼻につきました。
けれど、私は黙って笑顔で部活動入部届と書かれた小さな紙を受け取り、職員室をあとにしました。
※ ※ ※ ※ ※
部活動入部届には、名前と部活動名を記入するだけなので、その場でもできましたが、私は一度教室に戻りました。
「誰もいない…。」
みんな部活動見学に行ったり、あるいは帰宅したらしく、教室には誰もいませんでした。
クマのキーホルダーが付いたボールペンで、なるべく丁寧に、大人っぽい字に見えるように部活動入部届の表面と、裏面にフルートと記入しました。
それでも、私の丸まった癖字はどうしても子供っぽく見えてしまうのでした。
職員室の前、私がノックをしようとしたその時、磨りガラスの向こう側から少女の声が聞こえました。
その声は、冷たくて鋭いのに、とても綺麗で透き通るようでした。
「納得いきません。どうして私がフルートを希望してはいけないのですか?」
「落ち着いて、大月さん。希望してはいけないだなんて言っていないわ。それに、希望が通らないのはなにも貴方だけじゃないのよ?」
もう一人の声は、吹奏楽部の顧問の先生でした。
「打楽器は楽器の種類が多くて、いま人手が足りていないの。それに、大月さんには打楽器の才能があると思うの。」
ドア越しに会話の内容を盗み聞きしている私は、その会話の内容の全ては分かっていなかったかもしれません。
けれど、なんだか私の時と同じような事と矛盾している事を同時に言っている先生と会話している相手が、私の入部届の裏面に書いてある楽器を希望している子だということが分かり、嫌な汗をかきました。
「だから……ね?先生を助けると思って打楽器をお願いできないかしら?」
暫くの沈黙。
私は、私の呼吸の音が壁向こうの先生とその子に聞こえてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。
「…分かりました。そこまで仰られるのなら、打楽器で入部届を提出させていただきます。」
あとの流れは、おそらく私の時と同じでした。
先生がありがとうと言い、新しい希望調査票を手渡し、その子が職員室を出ていく。
そんな事は分かっていたのに、鈍くさい私は逃げるタイミングを失って、職員室前の廊下でその子とバッタリ鉢合わせてしまいました。
一目惚れでした。
顧問の先生に大月さんと呼ばれていたその子は、私の理想そのものでした。
私は思わず息を呑みました。
細長い脚が制服のスカートからスラリと伸び、ウエストの位置は私の胸の辺りに。
白のセーラー服の袖からは一切無駄のない引き締まった二の腕。
その先に枝分かれしている五本の指は長く、思わず手にとってみたくなります。
白い肌とクッキリとした鋭い猫目は美人の象徴。
整った鼻筋は、中国ドラマのお姫様役として出演してもおかしくないほど通っています。
腰まである綺麗な黒髪ストレートヘアが職員室の扉を開閉した時の風になびき、石鹸のいい香りが私の鼻をくすぐりました。
欠点のかけらすら感じられない、完璧な私の理想の美少女。
私はその子の美貌に釘付けになりました。
けれど、私はその時すでに重大なミスをしでかしていたのです。
裏面にフルートと書いた入部届の紙。
それを私は、あろうことか両手でしっかりその文字を見せつけるようにして、顔の前で持っていたのです。
気がついた時にはもう手遅れでした。
大月さんの視線は冷たく、入部届の紙を貫いて私の胸に突き刺さりました。
そして大月さんは、私の入部届から目線を外すと、その冷酷とまで言えるほど冷たい目線を、一瞬だけ私に向けて去って行きました。
へなへなと脚の力が抜けていくようでした。
※ ※ ※ ※ ※
「あーん、やらかしたぁー!」
制服のまま、自分の部屋のベッドに見を投げ出し、クマの抱き枕に抱きついても気分は落ち込んだままでした。
大月さん…。あんな綺麗な子とせっかく同じ部活動になれたというのに、きっと大月さんは私のことを恨んでいるに違いありません。
嫌われちゃった、かな。
そう思うと心がシュンとしてしまいました。
「でも、本当に素敵な子だったな…。」
私の大月さんに対する第一印象は、何があろうとその一点張りに他ありません。
容姿はもちろんのこと、先生に自分の意見をはっきり言えるところだって、かっこ良くて、まさに私の理想そのもの。
もっと、大月さんの事を知りたいな…。
瞼を閉じて想像するのは、大月さんと私が笑い合いながらお話しているところ。
妄想の中の大月さんは、「真凛。」なんて名前で呼んでくれたりしちゃって…。
「なんてね!なんてね!きゃー!」
クマさんの中の綿が変な形になる程ぎゅっとクマさんの抱き枕に抱きついてゴロゴロしていると、勢い余って私はベッドから転げ落ちてしまいました。
「いっててて…。」
けれど、大月さんの私に対する第一印象は最悪です。
それに万が一、大月さんと仲良くなれたとしても、私は大月さんのような綺麗でかっこいい人の隣にいて良いのでしょうか?
大きなクマさんの抱き枕を抱え立ち上がり、立ち鏡の前に立ってみます。
私サイズに合わせた鏡には、大きなクマさんの頭はちょん切れて映っていませんでした。
「私じゃあ、大月さんに釣り合わないよ…。」
大きなため息が漏れました。
「あーあ。もっと私の背が高くて、私がもっと美人で、髪もこんなクセ毛じゃなくて、自分の意見が言えるかっこいい子だったらなぁ…。」
その時でした。
「その願い、叶えてあげよっか?」
聞き覚えの無い声が、どこからともなく聞こえたかと思うと、鏡に映る私の後ろに、赤髪の女の人が立って…いや、宙に浮いていました。
「な、なに!?」
私は驚いて、クマさんに抱きつき、部屋の隅っこで縮こまりました。
「なにって失礼だなぁ。カミサマに向かってさ。」
その赤髪の女の人は、白い歯を笑ってニカッと笑いました。
「か、かみさま?」
「そ。みんなに幸せを運ぶ、幸せ管理局のえらーいカミサマ。エリートなんだよあたしは。って言っても、幸せ管理局に配属なったのはつい最近なんだけどさ」
な、何を言っているのでしょう。
「あ、今なに言ってんだこいつ。って、思ったでしょ?ったく、しょうがない子だなぁ。けどまぁ、君は人間だから仕方ないか。ちょっと説明してあげるから、ここ座んな。」
カミサマと名乗ったその人は、私のベッドに腰掛け、ポンポンとその隣を叩きました。
けれど、いくら私がおバカだからって、不用意に知らない人に近づいたりなんかしません。
クマさんを盾に、部屋の隅っこでじっとします。
「はぁー。あたしがカミサマだって言ってんのに疑ってんの?だったら、ちょっと見てな。」
そう言って、カミサマとやらは指をパチンッと鳴らすと、なんと腕の中にいた私のクマさんが消え、代わりにカミサマが私の腕の中に現れました。
「お、重い…。」
「失礼だなぁ。まっ、でもこれで分かったでしょ?あたしがカミサマだって」
どうやら、認めなくてはいけないみたいです。
でないと、私が潰れてしまいます。
「わ、分かりましたから!お話を聞きます、ですから早くベッドに移動してください!」
※ ※ ※ ※ ※
「あたしは、人間たちがどうしたら幸せな人生を送れるかを研究し、人間の幸せを管理する幸せ管理局に配属されたカミサマ。今その幸せ管理局の新プロジェクトの実行部としてあたしはこの世界に来ているんだけどさ、その新プロジェクトの被験者第一号として君が選ばれたってわけ。」
「は、はぁ…。」
「あぁー、その顔は分かってないね。つまり、あたしたちが君たちを幸せにしてあげるために日々研究していて、君はその研究のため企画された新しいプロジェクトの被験者第一号ってこと。」
「えっと、そのつまり…。」
「もぉ、本当に頭悪いなぁ。もっと簡単に言えば、あたしが君の願いを叶えて君を幸せにしてあげるってこと!」
「ほゎお!」
思わず変な声が出てしまいました。
カミサマです!この方は本当にカミサマのようです!
「じゃ、じゃあ私、大っきなプリンが食べてみたいです!あっ、あと綺麗なお洋服も欲しいです!あっ、あとあと空も飛んでみたいです!」
人間の欲望とは、底なし沼のようです。
何でも願いを叶えてくれるカミサマが現れた途端にやりたいことが次から次へと飛び出してきます。
「まぁ待て待て。人の話は最後まで聞くもんだよ。」
興奮した私を、カミサマはデコピンで制しました。
ちょっと痛かったです。
「あたしは、えらーいカミサマなんだけど、カミサマにも色々あんだよ。あたしはあんたの願いを物々交換でしか叶えてあげられない。」
カミサマは右手の人差し指と左手の人差し指をクロスさせて、額を押さえる私の目の前に突き付けました。
「そして、幸せ管理局にもいろいろ規制とかなんやらあってさ、人間界の秩序を崩さないためにも物々交換の能力があるあたしが新プロジェクトの実行部として派遣されたわけなんだけど…その辺は君は分かんなくていいよ。」
難しいことは理解できないので、私はカミサマの言う通り、そのへんの事情には目をつぶる事にしました。
「それでその、物々交換で私はどう幸せになれるのでしょうか?」
そこが肝心なのです。
物々交換ということは、私の何かと誰かの何かを交換するということです。
つまり、私は何かを失うということ。
そんな、何かを手放して私は幸せを得られるのでしょうか?
そして私は、何を手放さなければならないのでしょうか…?
そんなことを考えていると、カミサマはそのまま指を私の鼻先にちょんと乗せてきました。
「そこが新プロジェクトの核心。
ズバリ、君のコンプレックスを誰かの良い所と交換してあげるのさ!」
い、今なんて言いました!?
私が目を見開いていると、カミサマは笑いました。
「へへへっ、驚いた?情報によると、君はなかなかのコンプレックスを抱えている。
背が低い、クセ毛、ハッキリしない目鼻立ち、子供っぽいところ、弱い心。などなど。
被験者第一号にはピッタリの素材ってわけ。」
私のコンプレックスというコンプレックスをズバズバと言ってくれたカミサマはなんだか得意げです。
私は図星すぎて返す言葉もありません。
得意げなカミサマは更に得意げに続けます。
「そんな君のコンプレックスを他の人に渡しちゃって、君は君の望む君を誰かから手に入れるのさ!」
唖然です。
そんなことができるだなんて。
そんなことが許されるだなんて。
「で、でも待ってください。
今、私のコンプレックスを他の誰かに渡すって言いましたよね?
そんな、その子の良いところを取り上げて私のコンプレックスを押し付けられたら、その子が可哀想ですよ!」
カミサマが人々の幸せを願うカミサマならば、人々を平等に幸せにしなくてはいけないはずです。
私のコンプレックスを押し付けられたら、きっとその子は不幸になってしまいます。
「あぁ、それについては大丈夫。君のコンプレックスをもらい受けた人のところにあたしは行く。そして今度は、その人のコンプレックスを、君から受取ったものも含めて全てまた別の誰かに受け取ってもらう。そしてまたあたしはそのもらい受けた人のところへ行って…。と、まぁこんな感じで芋づる式にあたしは人々のコンプレックスを治していって、みーんなを幸せに導いていくってわけ。」
思わず口が開いてしまいました。
そんな私の顔は、とても間抜けなものだったに違いありませんが、それだけ私は呆気にとられていたのです。
カミサマは私の顎を指の先でクイッと押し上げると、カポンと音がして私の口が閉じられました。
「と、言うわけで君は何も気にすることなく自分のコンプレックスを捨ててしまえばいいんだよ。」
力強いカミサマのお言葉。
あぁ、なんて素晴らしいのでしょう!
私は長年悩まされ続けていた私のコンプレックスから解放され、更には別の誰かも同時にコンプレックスから解放される。
「さぁ、君のコンプレックス、君の弱みをあたしに曝け出してごらん。」
カミサマは私に救いの手を差し伸べます。
「私の、コンプレックス。それは、この低い背、うねったクセ毛、締りの無い顔、子供っぽいところ、ハッキリものが言えない弱い心。」
「じゃあ、君はどうなりたい?君の理想を言ってごらん。」
「私は、」
私の理想。
脳裏によぎったのは、大月さんの姿でした。
「背が高くなって、黒髪のロングストレートになって、きりっとた美人顔になって、大人っぽくなって、強い心が欲しい!」
私は捨てるのです。私は私の嫌いなところを全部捨て、理想の私を手に入れるのです。大月さんの隣にいるに相応しい私になるのです!
「よしきたっ、そうでなくっちゃ面白くない。」
カミサマは私の両手をとると、そのまま私ごと宙に浮き、クルッと一回転しました。
ちょっとびっくりしたけれど、体も心も軽くなったようでした。
フワリと床に着地。
私の心はまだ浮き足立っていました。
「ちょっと待ちな、今この最新式人間特徴探査PCで君の理想にピッタリの人を弾き出してあげるから…。」
そしてカミサマは、小さなタブレッドを布地の少ない衣服のどこに隠していたのか、取り出して何やらパチパチと入力しました。
「よし。この人間ね、なるほどなるほど。」
タブレッドが私の理想の特徴をすべてかね揃えた誰かを弾き出したのでしょう。
私はそれが誰なのか、気になってそろーっとタブレッドを覗き込もうとしました。
が、カミサマがそれを許しませんでした。
タブレッドの画面をパタリと自分の胸にくっつけて私から画面が見えなくなってしまいました。
「あっ、あと言い忘れてたんだけど、君を理想の君にしてあげるには、一つ条件がある。」
なかなかいい雰囲気で盛り上がっていたのに、カミサマのド忘れのせいで出鼻を挫かれた気分です。
けれど、とんとん拍子で話が進まないのは如何にも私らしいと言えば私らしいです。
「その、条件って…?」
恐る恐る尋ねます。
「あー、これは管理局の上層部が決めたことだから、あたしに文句は言わないでよね。そんで、その条件っていうのが、君の特徴を譲り受けた相手が君から受取った特徴のうち、何が気にいるかを、あたしたちがコンプレックスの受け渡しネットワークを構築している間に君自身が考えて、当てなくちゃいけないんだ」
なんだか難しいことを言われたような気がします。
ここはきっと重要なところなので、私は首を傾げて尋ね返さなくてはなりません。
「えっと、つまり?」
「もぅ、本当に君は鈍いね。つまり、相手が君から貰ったコンプレックスの何を残すか、君自身が考えて当てなくちゃいけないのっ。」
カミサマは鈍すぎる私に呆れたように言いました。
これは、鈍いところも追加で交換してもらわなくてはいけなかったかもしれません。
「わ、私のコンプレックスに気にいる点なんてあるのでしょうか?」
「それも考えるのが君の仕事だよ。」
ごもっともな事をカミサマは言います。
「けどね、人間ってのは人それぞれだから、もしかしたら君自身、君の嫌いなところが大好きな人もいるかもしれないね。まぁネットワークが完成するまでに二年はかかるから…」
「に、二年ですか!?」
二年後といったら、私たちはもう中学三年生です。
オイシイ話には裏があると聞きましたけれど、まさかそんなに時間がかかるものだとは…。
「そう、二年。そういうわけで時間はたっぷりある。だからよーく考えてみることだね。」
その時、下の階からお母さんが呼ぶ声がしました。
どうやらご飯ができたようです。
「じゃ、あたしはこのタブレッドが弾き出した君の相手の所へも行かなくちゃいけないから、また二年後にこの相手を連れて向かえに来るよ。」
「あっ、待って…!」
私が呼び止めたにも関わらず、カミサマは指をパチンッと鳴らして消えてしまいました。
下の階から再びお母さんが呼ぶ声がしたので、私は返事をしながら下の階に降りて行きました。
※ ※ ※ ※ ※
‹梨緒side›
幼稚園の頃から背の順は一番後ろ。
大きいからって、同年代の子といれば周りの人はみんな私をお姉さんと言う。
お姉さんだから、泣かないわよね?
お姉さんだから、我慢できるわよね?
お姉さんだから、これくらいできるわよね?
そんな自己暗示にかけられて、私は何でもできるお姉さんにならなければならないと思っていた。
そのために、たくさん努力してきたし、何でもできるようになっていった。
けれど、そんな努力は報われなかった。
私は周りの声なんか気にせず、なりたい自分になれば良かったのに、気がついた時には本当になりたい私は一切残っていなかった。
※ ※ ※ ※ ※
中学にあがって、部活動を見学して回った。
小学校の時は、バスケットクラブに入っていた私は、バスケット部に顔見知りが多かった。
バスケット部の先輩たちは、私の勧誘に必死だったわ。
バスケットだけでは無い。
ありとあらゆるスポーツ部の先輩たちが私を部に引き入れようと必死だった。
けれど、私はその全てを断った。
それでもしつこく私の腕を引っ張る先輩たちの手を私は振り払った。
呆然としている先輩たちの顔。
そして今度は、キッと私を睨む。
だから私は睨み返す。
すると先輩たちは怯んで何も言えなくなる。
滑稽だわ。
そういう方法で部活動見学を楽しんでいると、粗方の運動部は周り尽くし、次は文化部に手を出すことにした。
吹奏楽部。
私はそこで出会ってしまったの。
小さくて、柔らかそうで、ふわふわの髪を揺らし、溢れんばかりの笑顔を振り撒く、愛らしい瞳をした一人の天使に…。
私はずっとその子を目で追いつづけた。
名前もすぐ分かった。
小日向真凛。
なんと愛らしい名前なんでしょう。
「真凛。」と私が呼ぶと「梨緒。」と返ってくる。
あぁ、想像しただけで天にも昇る気分だわ!
「…まりん、まりん、まりん」
「大月さん、マリンバに興味あるの?」
急に現実に引き戻された。
打楽器の先輩が私の顔を覗き込んできた。
「い、いえ。私は別に…。」
その時、吹奏楽部の部長が楽器体験を交代する時間を告げた。
あ、危なかったわ。
私としたことが、考えている事が口に出ていただなんて…。
「じゃあ次はフルートの体験ね。フルートは音を鳴らすのも難しい楽器だから、酸欠にならないように気をつけてね。」
そう言って、打楽器の先輩は私をフルートの先輩に引き渡した。
音を鳴らすのも難しいと言われていたフルートだったけれど、私は一発で高音を鳴らしてやったわ。
こんなの、コツじゃない。
私はあっという間に指の形を覚えて「キラキラ星」を演奏してやったわ。
周りの先輩たちは、すごいすごーい。と、騒いでいる。
こんなの、コツさえ掴めば誰だってできる。
「キラキラ星」を吹きながら、私は小日向さんの姿を探す。
小日向さんは、さっき私が体験していた打楽器の体験をしていた。
フルートの位置からちょうどいい角度で小日向さんが見える。
小日向さんは、マラカスをシャカシャカ振ったり、シンバルを空振って与太ったり、ドラムセットに埋もれたりしていた。
なんて愛おしいのでしょう。
そして、ずっと見ていたから分かるわ。
あのキラキラした目。
小日向さんは、打楽器を希望する。
なら、私はこの三年間の部活動生活をこのベストな角度で打楽器を見ることができるフルート希望するわ!
それに、この小さくて可愛らしい楽器はまるで小日向さんのよう。
大柄な私には似合わないかもしれないれけど、だから何?
巨人が森の妖精の楽器を吹いてはいけない理由でもあって?
私はこの無駄に高い身長が大嫌いだった。
キツく見られる目鼻立ちも、可愛らしくもない真っ直ぐな黒髪も。
だから、私の見た目に託つけて言いがかりをつけてくる奴も大嫌いだった。
「お姉さんだから。」
その言葉の代わりのように使われた、「大きいのに。」という言葉。
大きいのに。
その言葉が大嫌いで、あまりに理不尽で…
…天邪鬼な私の心を掻き立てた。
「私、この部活に入ってフルートを希望しますわ。」
チョウチョウを演奏し終わった私は、膝の上にその小さな楽器を置くと、先輩たちにそう告げた。
先輩たちは大いに喜んでいたわ。
「大月さん、打楽器は体験したかしら?」
吹奏楽部の顧問が職員室に私を呼び出した。
ださいカーテンみたいな分厚いロングスカートを履いた音楽教師だ。
「実はね、大月さんにはフルートじゃなくて、打楽器をやってほしいのよ。」
は?
「大月さんにはその…フルートよりも打楽器の方があっていると思うの。」
一体、なんの根拠があってそんな事を言っているんでしょうかこのメスブタは。
「納得いきません。どうして私がフルートを希望してはいけないのですか?」
「落ち着いて、大月さん。希望してはいけないだなんて言っていないわ。それに、希望が通らないのはなにも貴方だけじゃないのよ?」
私がムカついているのは、私だけ呼びだされたと思ったからではない。
“あなたには小さくて可愛いフルートなんて似合わない。大きくて可愛げの無い打楽器がお似合いよ”。
そう言われた気がしたのだ。
「打楽器は楽器の種類が多くて、いま人手が足りていないの。それに、大月さんには打楽器の才能があると思うの。だから……ね?先生を助けると思って打楽器をお願いできないかしら?」
あぁ、また私は我慢しなければいけないのね。
私の味方は誰もいない。
巨人は群れで行動はしないもの。
それに、巨人が巨大な物を扱うのはごもっともだわ。
だってほら、小さい物を持っていたら、私の巨大さが引き立てられてしまうじゃない。
「分かりました。そこまで仰られるのなら、打楽器で入部届を提出します。」
「本当に!ありがとね、大月さん。助かるわ。じゃあ、明日までにこの入部届をまた出してね。裏面に打楽器と記入して。」
そして顧問は、昨日私が提出したのと同じ形の小さな紙を新しく取り出して私に渡してきた。
「失礼します。」
そう言って、職員室をあとにしようとした。
職員室のドアを開くと、私の天使ちゃんがそこに立っていた。
こんな近くでばったり出会ってしまい、少し童謡する。
あぁ、近くで見てもやっぱり可愛い。可愛すぎる。私の理想だわ。
ふと、小日向さんが持っている白い小さな紙に気がつく。
それって、入部届の紙よね?
どうして提出期限を過ぎた紙を小日向さんはまだ持っているのかしら…?
そして、さらによく見ると、その紙は裏面を向けられていて、そこには“フルート”と書かれていた。
なるほど、そういう事ね。
小日向さんも、私と同じなのね。
あの顧問に脅されて、あんなに演りたがっていた打楽器を諦めさせられて…可哀相に、こんなに怯えてしまって。
思わず小日向さんが持っている忌々しい入部届を睨みつけてしまう。
はっ!いけない、こんな顔を小日向さんの方へ向けては、小日向さんが怯えてしまうわ。
そして私は、逃げるようにしてその場から立ち去ったのだった。
※ ※ ※ ※ ※
食卓はいつも一人だった。
こんな光景はもう日常と化していた。
離婚して、女手一つで私を育てたと言い張っている母親は今、夜遊びに出かけて、晩ごはんは家では食べない。
学校でも家でも、食事は一人だからこんなのは慣れっこだわ。
味気ない食事を終え、食器を洗い、歯を磨く間にお風呂のお湯を溜めておく。
いつものルーティーンワーク。
シャワーを浴び、狭い浴槽に体を浸す。
「狭い…。」
いつも思うけれど、この浴槽、もっとどうにか広く作れなかったのかしら?
脚が窮屈で全然リラックスできないのだけれど。
私が更に身を縮め、顔の半分を湯に浸すと、向こう側の浴槽内の壁に仏頂面で目つきの悪い顔が見えた。
こんな顔で小日向さんを上から見下ろしていたと思うと、小日向さんは私のことを怖がってしまったに違いない。
だとしたら、私はもう小日向さんに近づくことすら許されないかもしれない。
そう思うと、目から汗が流れた。
「私がもっと、小さくて可愛い女の子だったら…。」
「その願い、叶えてあげよっか?」
驚いた。
急に風呂場に現れたのは、赤髪の女だった。
「だ、誰?」
「誰とは失礼…いや、“なに”よりはマシか。」
一体どこから湧いて出たのかしら。
この狭い風呂場に私に気付かれることなく侵入するなんて不可能なはず。
「あたしはカミサマ。ついさっき、君の特徴を欲しがっている女の子のコンプレックスを君に受け渡す契約を交わしに来た。」
※ ※ ※ ※ ※
「なるほどね、カミサマとその女の子の事情はなんとなく分かったわ。」
のぼせるといけないので、風呂から上がり、私と赤髪のカミサマは和室に移動していた。
「そのコンプレックスだらけの女の子のコンプレックスを私が引き継いで、その後で私はその子の分も含め私のコンプレックスをまた別の誰かに押し付けちゃえば幸せ管理局員であるアンタは職務全うできて芋づる式に大儲けって寸法ね。」
私はわざと嫌味らしい言い回しでカミサマに言ってやる。
「人聞き悪いなぁー。まっ、でもその通り!もの分かりが良すぎてちょっと引いちゃうよ。」
カミサマも負けじと厭味ったらしい笑みを浮かべる。
「それで、そのどこの馬の骨とも知らない女の子のコンプレックスが“背が小さい、巻き毛、柔和な顔立ち、子供らしいところ、人に合わせてしまうところ”なのね。」
私は、カミサマが告げた私が一時的に貰い受けるであろう彼女のコンプレックスを並べ立てて確認した。
「そっ。だから君はそれらも含めて君の要らない部分を言えばいい。そうしたら、あとはあたしが君にピッタリのパートナーをこのタブレッドで弾き出して交換してきてあげるからさ。遠慮無く言ってよ。その女の子のコンプレックス、ぜーんぶ捨てちゃっても構わないからさ。」
馬鹿ねカミサマ。
アンタはこの私を利用して大儲けしようとしているって事でしょう?
そうはいかないわ。
それに…
「ふふっ、」
思わず笑いが漏れた。
怪訝な顔をするカミサマ。
「馬鹿ねカミサマ。アンタの思い通りになんてならないわ。」
馬鹿という言葉に反応し、更にムッとするカミサマ。
「馬鹿って、どういうことさ?」
「馬鹿は馬鹿よ。馬鹿の意味も知らないなんて、本物の馬鹿ね!」
あぁ、その反抗的な目、堪んない!
「私を利用して自分たちが幸せになろうとしている愚かな宣教師に教えてあげるわ。私の理想はね、“背が小さくなって、くるんとした巻き毛になって、柔和で優しそうな顔立ちになって、子供のように明るく無邪気で、無理なく人に合わせられる優しい人”になる事なのよ!」
ここまで言えば分かるだろう。
芋づる式?本当に馬鹿ね。滑稽だわ。
「アンタは芋のツルを掴んだつもりだったかもしれないけれど、掴んでいたのは犬の尻尾だったのよ!犬の尾を食うて回るとはまさにこの事ね。さぁ、本当に人間の幸せのためと言うのなら、私とその女の子のコンプレックスを丸々取っ換えっこしなさい!」
さっきカミサマはこうも言っていた。
理想の私を私が手に入れるためには、私のコンプレックスを押し付けられるその子が私の何を残すのか二年間のうちに考えて当てなさいと。
考えるまでもないわ。
だって、その女の子は私のコンプレックス全てを欲しがっているんですもの。
だから、その子は自分のコンプレックスを捨て、私のコンプレックス全てを余すこと無く背負い込んでくれるはずよ。
「ほら、カミサマ。二年後と言わず、この哀れな人間をコンプレックスの呪縛から今すぐ解放してくださいまし。」
からかうような猫なで声。
もちろん、わざとらしく、嫌味の毒をたっぷり注いで。
「ふふっ…。」
…笑った?
何よ、カミサマ。
アンタの完敗のはずよ。
なのに、どこに笑う余裕なんてあるのかしら?
「まぁ、愚かな人間には崇高なカミサマの考えなんて分かんないだろうね。君は悪魔にでもなったつもりかもしれないけれど、悪魔はもっと悪賢いよ。」
「…なによ。」
目つきの悪さを十分発揮して、私はカミサマに喧嘩を売る。
「あたしは物々交換のカミサマなんだ。君たちが何を残し、何を捨てるのか…まっ、一応考えてみてよ。また二年後、君のパートナーを連れて会いにくるからさ。」
そしてカミサマはフワリと宙に浮かぶと、手をひらひらと振った。
「ちょっ、待ちなさい!」
「じゃーねー。」
そう言ってカミサマは消えてしまった。
それはまだ寒さが残る四月の夜だった。
※ ※ ※ ※ ※
‹真凛side›
入学して三ヶ月、夏休みに入った頃。
私はそれなりに楽しい毎日を過ごしていました。
勉強はなんとかついていけていましたし、お友達だってたくさんできました。
毎日のようにある部活動も、大変だけど、私はフルートが大好きになっていました。
けれど、一つ心残りがありました。
それは、たった十二人しかいない吹奏楽部の一年生の中で、未だに大月さんとまともな会話すらできていなかった事です。
あんな事があったっていうのもありますが、やっぱり私なんかが大月さんに話しかけるなんて、おこがましいと気が引けて声がかけられなかったのです。
それになんだか、大月さんの方も私を避けているように感じられました。
そんなある日のことです。
夏休み中の部活動を終え、私は帰り道である河原沿いを一人、白線の上を歩いて帰っていました。
十二人しかいない吹奏楽部員たちの家はみんな方向がバラバラで、私の家と同じ方角の子はいなかったのです。
すると、一匹の白い猫が私の前を歩いていることに気が付きました。
「ねーこさん。どこいくの?」
私は猫に声をかけました。
すると、猫はクルッとこちらを振り返り、さっそうと私の前を歩いていきます。
「まって、ねこさん。」
私は猫の後を追いました。
特に意味はなかったのですが、猫の後を追うなんて、なんだか素敵な物語の始まりのようでワクワクしました。
「ねこさん、まって。待ってってば。」
しかし、畑だらけの細い田舎道に入ったところで、私は猫を見失ってしまいました。
「あーん、猫さんどこ?」
きょろきょろしながら歩きましたが、猫は見つかりません。
夏の夕方、日差しはまだ暑く、頭のてっぺんが焦げてザビエルになってしまいそうです。
諦めかけたその時、もう使われなくなって、分厚い石の蓋をされた井戸の上に猫を見つけました。
そして、その猫をじゃらしている一人の少女も見つけました。
「大月さん?」
恐る恐る、井戸に腰掛ける大月さんに声をかけると、大月さんは驚いたようにこちらを見上げました。
さすがに座っている大月さんと立っている私では、目線は私のほうが少し上になります。
「小日向、さん?」
大月さんが猫をじゃらす手を止めると、猫はどこかへ行ってしまいました。
「あっ。」と、私と大月さんが同時に声を上げました。
それが何だか可笑しくて、二人同時にクスっと笑ってしまいました。
それがまた可笑しくて、私たちは更に笑いました。
大月さんって、こんなふうに笑うんだ。
そう思うと、なんだか一気に大月さんに親近感が湧きました。
「ねぇ、大月さんの家ってこっち方面なの?」
「え、ええ。ここを真っ直ぐ行って、次の十字路を右に曲がるの。」
「そうなの!?私はそこの十字路を左に行ったところなの!すごい、違う小学校だったのに、こんなにも家は近かったんだね!そうだ、良かったらこれからは一緒に帰らない?」
私は嬉しくて、勢い余ってベラベラと話してしまいました。
はっとした時にはなんと言っていいのかわからず、ただあわあわしてしまいました。
もしかしたら、大月さんは私のこと嫌いかもしれないのに、私ってばこれからは一緒に帰ろうだなんて…。
「いい、わよ。」
大月さんのその言葉に、私のバタバタ騒いでいた心は動きを止めました。
ゆっくりと大月さんを見ると、大月さんは片手を自分の口を覆い、横を見ていましたが、チラッと一瞬だけ私の方を見ると、目が合い、そしてまたすぐに逸らしてしまいました。
「い、今いいって…言った?」
確認のため、私は聞き返しました。
すると、心なしか大月さんの耳がかぁーっと赤くなったような気がしました。
「い、言ったわよ。にっ…二回も言わさないで…。」
語尾の方はほとんど聞こえませんでしたが、大事なところはしっかりと聞き取れました。
「ほんとう!やったぁー!ありがとう、大月さん!これからよろしくね!」
私は嬉しさのあまり、大月さんの両手をとってぴょんぴょん飛び跳ねていました。
「ちょっ、小日向さんっ…。」
「えへへ、やった。やった。やったったぁー!」
こうして、私たちは毎日一緒に登下校する仲になり、部活動でも、いつも一緒の仲良しさんになりました。
※ ※ ※ ※ ※
あれから二年。
私たちは相変わらず仲良し…ううん、あの時よりもっともっと仲良しさんになりました!
なぜなら、
「あっ、梨緒おまたせ!遅くなってごめーん!」
「ううん、真凛は今日、みんなが使った教室の点検当番だったもの。あとはこの音楽室だけね。部日誌を書いたら鍵は私が閉めておくわ。だから先に玄関で待ってて。」
そう、なんと私たちはお互いを名前で呼び合う仲になっていたのです。
しかも、呼び捨てです!
夢が叶って毎日幸せです。
「うーん、じゃあ私ももう少し練習していくよ。」
「もう楽器は片付けてしまったんじゃなかったのかしら?」
「また出すのっ。ピッコロだから、またすぐ片付けられるし。」
「そんなこと言って。いつも私に置いていかれそうになっているのはいったいどこの子なのかしら?」
「えへへ、でもそんな私を梨緒はいつもちゃーんと待っててくれるって知ってるもんね。」
「ほらほら、そんなこと言っている間に部日誌、書き終えちゃったわよ。」
梨緒がパタリと黒いノートを閉じ、ようやく顔を上げて私の方を振り返りました。
「ええ!仕事早いよぉ。」
一方の私は、ピッコロのケースを開けただけで、楽器を組み立ててすらいませんでした。
フルートの派生楽器であるピッコロは、めったに使う機会がないのですが、私たちが選曲したこの自由曲には必要不可欠な楽器でした。
「しょうが無いわね、どうせエアでしょ?付き合うわ。」
そう言ってピアノ椅子から立ち上がると、梨緒はヴィブラフォンのカバーを取り外し始めました。
「ありがとう、梨緒。」
「いいのよ。私もあそこは調整しておきたかったし。」
朝日吹奏楽コンクール、通称夏コン。
私たち吹奏楽部員は現在、毎年七月に開かれるその地区大会に向け、夏休み返上で猛特訓を重ねているのです。
私たちみたいに田舎で人数が少ない吹奏楽団は、地区大会小規模編成の部に出場します。
本番は七月二十四日。
つまり、あと一週間後なのです。
コンクールは各団体につき、課題曲と自由曲の二曲の演奏で地区大会を突破して県大会へ駒を進められるかどうかが決まります。
課題曲は指定の四曲の中から一曲を選択し、自由曲は文字通り自由に好きな曲を選べます。
「ケルト民謡による組曲」
第一楽章:マーチ
第二楽章:エア
第三楽章:リール
私たちの自由曲です。
ケルト民謡は、西ヨーロッパのケルト民族たちの音楽から発展したと言われている音楽で、この「ケルト民謡による組曲」は、三部構成となっています。
第一楽章のマーチは軽快な太鼓のリズムで足取り軽く躍り出しそうな音楽。
第二楽章は冷たい夜の湖にかかる霧の中にいるような、心洗われる音楽。
第三楽章は武闘会の燃えるような激しくて勇ましい音楽です。
「いい?」
「うん。」
「じゃあ、真凛のソロから。」
フルートよりも更にひと回り小さな楽器、ピッコロを構え、腹式呼吸で息をすう。
第二楽章エア。
Fから始まる、ピッコロのソロ。
西ヨーロッパの澄んだ湖をイメージ。
夜の静けさに霧のグラデーションをかけ、幻想的な世界を作り出す。
ピッコロのソロにあわせて、鉄琴打楽器、ヴィブラフォンが絵画のようなこの世界に銀色の絵の具を足していく。
銀色の霧が、湖と溶けあっていく。
私と梨緒が作り出す聖域…。
※ ※ ※ ※ ※
‹梨緒side›
「大会本番まで、あと五日。出場するからには地区大会突破しましょう。では、各自パート練習はじめ。」
朝のミーティングを終え、それぞれの楽器が音楽室から散らばっていく。
「梨緒、午後の合奏の前に一度あそこ合わしてほしいな。」
今日も天使な真凛が、ミーティングが終わるなり私のもとへ子犬のように駆け寄ってきてそう言った。
「ええ、構わないわ。じゃあ、十一時頃、迎えに行くわね。」
「うん…。ありがとう。」
少し元気がない真凛。
理由は分かっている。
「…まだ、納得いかない?」
第二楽章エア。
真凛のソロパートと私のヴィブラフォンが奏でる美しいハーモニーで幕を開ける。
真凛はずっと、その部分に違和感を感じている。
「うん…。なんでだろう?わたしたちの曲イメージも一緒だし、息だってぴったり合っているのに…。」
楽譜をまじまじと見つめる真凛。
その楽譜には、びっちりと書き込みがしてあった。
そして、「ケルト民謡による組曲」と書かれた題の上に金色のペンで、“めざせ一金!”と書かれていたのがチラッと見えた。
曲のイメージを膨らませ、それを音で表現していく。
真凛はその表現が上手かった。
それは恐らく、真凛の豊かな表情や、純粋な心が音楽表現の幅を広げているのだろう。
だからエアのように表現力が特にものを言う場面でのソロを任せられるのは真凛以外いない。
私はそう思っている。
だから、真凛に落ち度はない。
それでも違和感があるのだとしたら、それはきっと私の落ち度。
私はもっと努力しなくては、真凛の音に相応しくない。
廊下で真凛を待っていたフルートの後輩が、
「真凛せんぱーい、梨緒先輩とノロケてると置いていきますよぉー」
と真凛を呼んだ。
それに応える真凛。
「じゃ、またあとでね!」
そう言って、目一杯低く調節した譜面台を片手に持って、真凛はパート練習へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※
午前十時五十五分。
そろそろ真凛を迎えに行かなくてはね。
私たちの学校が持っている三つの鍵盤打楽器の中で一番大きなヴィブラフォンは、持ち上げるのも大変なので段の一番下に置いてある。
あとはヴィブラフォンの脚に車輪が付いているので、ストッパーを外せば簡単に廊下へ運び出せた。
音楽室では、打楽器の後輩たちが各々個人練習をしている。
と、音楽室のすぐ近くにある階段の踊り場に、他の楽器の後輩たちが二、三人が話す声が聞こえた。
「楽譜にメッセージ書いてあげるぅ!」
「わーい!書いて書いて!」
いいアイディアだと思った。
私も真凛の楽譜に何か書いてあげたら、真凛の力になるかしら?
かわいい後輩の可愛いアイディアに、思わず頬が緩んだ。
「なんて書いてくれるの?」
「うーん、“めざせ一金!”とか?」
そこまで聞いて、立ち去ろうとしたが、
「えー、無理だってそんなの。」
その言葉が私を引き止めた。
「一金とか言って獲れなかったらダサイじゃん?だから、“楽しもう!”とか、“私たちの音楽をしよう!”とか、そういうのがいいなー。」
それに合わせるかのように、その子たちはキャッキャ言いながら口々に楽譜にどんなメッセージを書くか話している。
「挑戦することが大事なんだよね。」
「結果は二の次!」
「周りと比べちゃダメ。」
「自己ベスト!」
「いい思い出を作れればそれで満足。」
口々にそんなことを言っている。
私には、その子たちの気持ちがわからなかった。
妥協点だけを先に探し、自分の理想を安々と捨ててしまうその気持ちが。
それだけなら、まだ無視できた。
けれど、脳裏に過ぎったのは真凛の楽譜に書かれていた金色の文字。
「ねぇ。」
私はその子たちの会話に割って入った。
その子たちがいる踊り場から見れば、段上にいる私をうんと見上げる形になる。
ただでさえ、いつも見上げている対象がさらに上から見下していたら、威圧感は倍増かしら?
「練習、してね。」
嘲笑ともみえる笑みを浮かべそれだけ言うと、私は真凛の待つ教室へと足早に歩いていった。
※ ※ ※ ※ ※
「じゃあ、真凛のソロから。」
真凛がピッコロを構える。
すっと息をすう音が聞こえ、美しい澄んだ音色が響き渡る。
どこまでも広がっている澄んだ湖。
どこまでも遠い、満天の星空。
そこに銀色の霧をかけ、幻想的な世界を作り出していく。
「今までの中では一番良かったんじゃないかしら?」
「うーん、でもまだ何か…。」
真凛、ストイックなのね。
「じゃあ、もう一度。同じところから。」
「うん!」
正直言って、私も違和感は拭えていなかった。
音程とか、タイミングとか、そういうのじゃなく。
コンクールまであと五日。
早くこのモヤモヤの原因を取り払わなくては。
私に原因があることは分かっている。
本当は個人練習で原因をとことん探るべき。
けれど、真凛と二人で過ごすこの時間は私にとって、とても幸せな時間。
もっと時間がゆっくり流れればいい。
午後の合奏も終わり、部員たちは楽器を片付けて帰っていった。
「真凛、帰ろう。」
今日は私から声をかけた。
「あれっ梨緒、部日誌もう書いたの?」
「ええ。夏休みの間、打楽器はカバーをかけるだけだで片付けなくていいからみんなが片付けをしている間に書けてしまったわ。」
「さっすが梨緒!じゃあ、帰ろう。」
真凛が意気揚々とリュックを背負い上げ、私がスクールバッグを真凛が歩く反対側の肩に掛け直した時だった。
「大月さん、ちょっといいかしら?」
部活動の顧問が、私を呼び止めた。
この人が私に話がある時というのは大抵が吹奏楽部内での事務について。
だったら部活動の時間内に済ませてもらえないかしら。
「真凛、先に玄関で待ってて。あとですぐ行くわ。」
「うん。わかった。」
※ ※ ※ ※ ※
‹真凛side›
玄関口で数人の部員たちを見送ると、私は一人になってしまいました。
玄関口の段差に腰掛け、まだ明るい夏の空を仰ぎます。
空には入道雲。
それはとても大きくて、青い空と白い雲のコントラストがくっきり分かれていて、じっと眺めていると頭がおかしくなってしまいそうです。
第二楽章エア。
吸い込まれそうな湖の青は、この空のそれと少し似ています。
梨緒の音楽が大好きです。
梨緒は、放っておいたら明後日な方向へ行ってしまいそうな私のメロディーを優しく導いてくれます。
そんなことができるのは、真っ直ぐで、持って生まれたものだけでなく、人一倍努力を重ねる梨緒だからです。
だから、私のソロには梨緒が必要なのです。
だから、私のせいで何度も何度も練習に付き合わせてしまって梨緒には申し訳ないです。
私が早く何か掴まないと、梨緒に隣にいてもらえなくなってしまいます。
コンクールまであと五日。
「私がもっとできる子だったらな…。」
食べられてしまいそうなほど大きな入道雲。
さっきまで白かったそれは、西の空から黒い雲を連れて来ているのが見えました。
「梨緒、早く来て…。」
※ ※ ※ ※ ※
十分後、玄関口に現れたのは梨緒ではありませんでした。
「あれ、優奈ちゃんたち今帰り?」
スリッパから外履きに履き換え、笑顔で話す三人組は吹奏楽部の後輩でした。
「真凛先輩、お疲れ様です。」
「うん、お疲れ様。」
私の学校の吹奏楽部は挨拶を徹底しています。
そして良く出来た後輩ちゃんたちは、きちんと先輩にご挨拶ができます。
「もうすぐ雨が振りそうだから、急いで帰ったほうがいいよ。ほら。」
そう言って私は、暗くなった西の空を指さします。
「本当ですね、先輩も降り出す前に帰ってくださいね。濡れて風邪でも引いたら大変ですから。」
「ありがとう。三人も、気をつけて帰ってね。」
笑顔の後輩たちと私は、別れの挨拶を交わし、後輩たちは校門を通って帰宅していきました。
二十分後、やっぱり雨がぽつりぽつりと降り出してきてしまいました。
そして、そのタイミングで下駄箱に梨緒の影を見ました。
「梨緒、やっと来たぁ。どうしよう、雨降ってきちゃったよ。傘持ってる?私折り畳みしか持って…。梨緒?」
暗くなった下駄箱のある屋内から玄関の外へ出てきた梨緒は、私と目を合わせてくれませんでした。
下を向いて、唇をきゅっと結んだまま何か堪えるように肩を震わせていました。
「梨緒、どうしたの?何かあったの?」
私は梨緒の震える肩をしっかりと押さえました。
それでも、梨緒の震えは止まりません。
それどころか、梨緒の瞳には水が溜まって、ポタリと零れ落ちていきました。
私は梨緒の肩から細い二の腕を伝って梨緒の長い指を掴みました。
梨緒の震える指の温度は、梨緒の心の温度をそのまま表しているかのようでした。
「真凛、」
かすれた声で梨緒がようやく口を開きました。
「うん、なに?」
こういう時、私がもっと大きかったら、梨緒を抱きしめて安心させてあげられるのに。
包容力のない私は梨緒の手を握って梨緒の顔を見上げることしかできません。
そして梨緒は雨の音にかき消されてしまいそうなほど細い声で言いました。
「ごめんね。」
※ ※ ※ ※ ※
梨緒は、頑なに何があったのか話してくれませんでした。
けれど、あれから様子がおかしいのは明らかでした。
「大会まであと四日です。では、パート練習に行ってください。」
いつもの号令にも、活気がありません。
私は梨緒になんて声をかけていいのか分かりませんでした。
パート練習、フルートが使う部屋に副部長がやって来ました。
教室の外から小さく手をこまねいて私を呼び出します。
「パート練中ごめんね。ちょっと、部長の事なんだけど…」
※ ※ ※ ※ ※
「梨緒、一緒に帰ろう。」
練習終わり、いつも通り私は部日誌を書いている梨緒に声をかけました。
「ごめん真凛。今日は全然書けてないの。まだ時間がかかりそうだから先に帰っててくれるかしら。」
梨緒は振り返ること無くそう応えました。
私は何も言いませんでした。
音楽室から誰もいなくなるまで、ただ黙って梨緒の横顔を斜め後ろから見つめていました。
そして、音楽室に残ったのは私と梨緒だけになりました。
ゆっくりとシャープペンシルの芯が削れる音だけが聞こえます。
そして、もう書くことが無くなったのか、シャープペンシルの動く音もしなくなりました。
しかし梨緒は動く気配がありません。
「梨緒、」
沈黙の中、先に口を開いたのは私の方でした。
「副部長から聞いたよ。」
副部長の話は昨日の部活終わりの事でした。
難関校の受験を考える副部長は、夏休み中も勉強に力を注ぎ、昨日の部活終わりに数学の先生に課題の質問をしていたそうです。
数学の先生は進路担当の先生でもあり、質問は進路相談室で行ったそうです。
質問を終えて進路相談室を退出した副部長が、職員室の前を通ろうとした時です。
夏休みの職員室に先生が留守であることは珍しくありません。
しかし、その日は三人の人影が職員室にあったそうです。
副部長は気に留めることもなく過ぎ去ろうとした時、職員室と廊下を隔てる磨りガラス窓の隙間に見えたのは、梨緒と優奈ちゃんと顧問の先生の姿だったそうです。
副部長は、なんだか様子がおかしいと察し、いけないと思いつつも三人に気づかれないよう、話の内容を立聞きしたそうです。
「それで、本当に優奈さんにキツくしちゃったの?」
顧問の先生の声です。
それに混じって、鼻をすする音も聞こえたそうです。
「せんせ…、梨緒先輩は当然のことをしただけなんです。悪いのは、練習をサボっていた、私なんです…。」
どうやら、泣いているのは優奈ちゃんの方みたいでした。
「注意したのは事実です。」
梨緒の声は落ち着いていたそうです。
「けれど、そこまでキツく叱った覚えはありません。」
きっぱりと言い切った梨緒。
顧問の先生は、うーんと唸りながら考え込んでしまったそうです。
それはとても気まずい沈黙だったことでしょう。
そして次の瞬間、副部長は自分の目を疑う光景を目の当たりにしたのです。
「ごめん、なさい。」
謝りながら優奈ちゃんは、職員室の床に土下座したそうです。
「優奈ちゃん、顔を上げて!わかった、分かったから!」
顧問の先生は相当慌てた様子だったそうです。
そりゃそうです。
自分の生徒が泣きながら土下座をしたのです。
副部長はそこまで見てしまうと、もう息を潜めるのも耐えられなくなってしまい、逃げるようにしてその場から離れたそうです。
「その後副部長は、教室に行って質問した問題を解き直してからもう一度、職員室の前を通らずに進路相談室に立ち寄ってから帰宅したんだって。」
これが昨日の部活終わり、梨緒が泣いていた理由です。
「昨日、私が梨緒を待っている時、普段と何も変わらない優奈ちゃんに会ったことを副部長に言ったら、副部長すごく驚いてた。」
あの時優奈ちゃんは笑っていました。
涙の跡すらありませんでした。
「どうして言ってくれなかったのかな…。」
私が問題にしたいのはそこなのです。
どうして、梨緒は私に何も言ってくれなかったのでしょう?
何でも話せる仲だと思っていたのに。
私は梨緒の力になれないのでしょうか?
梨緒は私を頼りたくはなかったのでしょうか?
心が折れてしまった梨緒は、私を隣に置いておく余裕が無くなってしまったのでしょうか?
梨緒は何も言ってくれません。
つまり、それが梨緒の本音なのでしょうか?
梨緒が何を考えているのか、私には分からなくなってしまいました。
「ごめんね。やっぱり先帰るね。」
そう言って、私は梨緒から逃げたのでした。
※ ※ ※ ※ ※
大会まであと二日。
昨日と今日は丸一日、梨緒と話せませんでした。
今までの人生の中で、昨日と今日が一番無駄な日だった気がします。
「梨緒、私はどうすればいいの…?」
ベッドの上のクマさんを抱きしめても、答えは返ってきません。
「私がもっと理想の私だったら、梨緒の力になって、梨緒の隣にいれるのに…。」
クマさんを抱えたまま、ため息を吐き、反対側に寝返りをうちます。
と、どこか見覚えのある赤髪の女の人が私と添い寝していました。
私は驚いて飛び起きました。
「カミサマ!?」
その赤髪の女の人は、二年前の春、突如現れて消えた幸せ管理局のカミサマです。
「へへっ、お待たせ。いやー、ネットワークを築くのに意外と時間がかかかっちゃってさ。ちょっと遅くなっちゃったけど、ちゃーんと約束通り迎えに来たよ。」
カミサマは白い歯をニカッと出して笑いました。
「約束…。」
「まさか忘れたわけじゃないよね?あたしは君のコンプレックスを君が理想とする別の誰かのそれと物々交換してあげるって約束!」
「あぁ!あれは夢だと思ってました!」
本当に、あれから一切音沙汰無しですし、カミサマがいた痕跡すら無いのですから、私はあの後お母さんの手料理を食べながら、あれは夢だったのだと思うようになっていたのです。
「まったく、君は二年経っても成長しないねぇ。」
それは身長の話でしょうか?
カミサマとの約束を思い出した私は、もう一つ重要なことを思い出していました。
「で、条件は満たせそうかい?」
「私のコンプレックスを押し付けられた子が次にコンプレックスを他の子に渡す時、私から貰ったもののうち何を残すか、でしたよね。」
「よく覚えていました。はなまる。」
カミサマは小さく拍手すると、私の手をとりました。
「んじゃ、今から行きますか。」
えっ、と私が聞き返すが先か後か、カミサマと私の体がふわりと浮き上がり、既に周りの景色は私の部屋ではなくなっていました。
※ ※ ※ ※ ※
‹梨緒side›
何回目のため息かしら。
昨日と今日だけで百回以上は吐いている気がする。
真凛はいい子すぎる。
私みたいに、真っ黒な人間の闇に触れてはいけない。
触れてしまったら最後、真凛は私のために自分を犠牲にしてしまう。
こんなの昔から慣れっこ。
お姉さんだから我慢しなさい。
お姉さんだから言い訳しないの。
お姉さんだから間違えないの。
だけど、私は真凛に甘えてしまっていた。
私は間違ってしまった。
そしてその時、真凛の顔が浮かんでいたのも事実。
たとえ口には出さなくても、私は真凛を言い訳にしてしまっている。
真凛の前で涙を見せてしまった。
そんな資格、無いのにね。
「滑稽だわ…。」
畳の上に横になって、チカチカ光る蛍光灯をぼんやりと眺める。
「その言葉、久しぶりだねぇ。」
蛍光灯を遮って、赤髪の女の人が顔を出した。
「アンタ…!」
この不愉快な笑い方は、間違いない。
二年前の春、私の目の前に現れた商売人のカミサマ。
私は体も起こさず、不機嫌な声でカミサマに言う。
「何しに来たのよ。」
「いやー、そろそろお迎えに来てあげなくちゃと思ってね。」
「もう遅いわよ。」
そう、もう遅いのよ。
私は真凛から逃げてしまった。
今さら理想の自分を手に入れたところで、私にその隣にいる資格は無い。
「まぁまぁ、そう言わずにさ。あたしは幸せ管理局のカミサマだよ?君たちを幸せにしてガッポリ稼がなきゃならないんだ。」
相変わらずガメついことを言っている。
「まぁ、それには君に条件を満たしてもらわなくちゃいけないんだけどさ。」
「馬鹿馬鹿しい…。そんなのはとっくに答えが出ているわ。」
私は、私のコンプレックスを欲っしているその子のコンプレックスが欲しいのだ。
残すも何も、お互いに利益だけが一致している。
つまり、その子にコンプレックスを貰われ、私がその子のコンプレックスを貰った時点で私は理想の自分を手に入れたことになる。
「じゃあ、相手も待っていることだし、行きますか。」
そうカミサマが言ったかと思ったら、カミサマは私の両手を掴んだ。
「行くってどこに…!」
驚いて目を見開く私の目に映ったカミサマの笑顔は、悔しいけれど嫌いじゃなかった。
※ ※ ※ ※ ※
目を開けると、霧に包まれた湖が広がっていた。
それ以外は何もない、ただの湖。
「寒…。」
吐いた息が白い霧と同化した。
カミサマはどこへ行ったのかしら?
辺りの暗さと冷たさが、不安を上乗せした。
霧のせいで視界は悪く、四方を見回しても何も見えない。
あるのはただただ静かな湖だけ。
と、誰かの足音が聞こえた。
慌てて音がした方を振り返る。
目を凝らすと、薄暗い霧の中から一人の人影が浮かんできた。
「だ、誰…?」
私は警戒を怠らず尋ねた。
こんな湖があるんですもの、ここは日本では無いのかもしれない。
となると、今こちらへ歩いてきている人には日本語が通じないかもしれない。
けれど、尋ねずにはいられなかった。
そして、私の予想を裏切った言葉が返ってきた。
「その声、梨緒?」
暗闇の中に一縷の光る糸を見つけ、手繰り寄せるかのように歩み寄る小さな影は、次第に私のよく知る少女へと変わっていった。
「真凛…?」
どうして、真凛がこんなところに?
しかし、私はどんな顔をして真凛に会ったらいいのかわからず、近づく真凛に背を向けてしまった。
「梨緒…。」
悲しそうな真凛の声。
そうさせてしまっているのは私だけれど、そんな泣きそうな声、しないでよ。
真凛の足音が止まった。
本当は私から真凛の方へ走って、滑って転んででも行きたい。
けれど、私にその資格はない。
しばらく立ったまま、お互いの距離を縮められずにいると、不思議なことが起こった。
さっきまで湖以外何も無かったはずなのに、私の目の前に銀色に光る、大きさの違う鉄の板が幾つも連なったもの現れた。
それが何かすぐ分かった。
「…ヴィブラフォン?」
と、背後で真凛の驚く声が聞こえた。
「えっ、なんでいきなりピッコロが私の手の中に?あれっ、あれっ?」
驚いて慌てふためいている真凛の様子が見えなくとも伝わった。
振り返ると、私と真凛を遮る霧が薄くなっていき、次第に真凛の姿が色形を成していった。
「あっ…。」
二人同時に声を上げた。
この感じ、懐かしい。
私と真凛が初めて分かりあえた時もこんな感じだった。
そして、あの時みたいに二人はクスッと吹き出して、そして笑い合っていた。
一通り笑いあった後、私は深呼吸した。
真凛もそうだった。
多分、二人とも同じことを考えている。
「じゃあ、真凛のソロから。」
「うん。」
冷たい空気を鋭くすう音。
冷えたら鳴り難い楽器の特性も、今の私たちには意味を成さない。
どこまでも遠く広がっていく音の波は、鏡のような湖に波紋を生んだ。
真凛のフルートが作り出す、透明で瑞々しい世界に私のヴィブラフォンを足していく。
優しく丁寧に真凛の音色を包み込んで、幻想的な世界を構築していく。
あぁ、ここはまるでエアの世界そのものね。
私たちのイメージ通り。
夜霧に包まれた静かな湖。
けれど…
私たちの世界は広がり、お互いを隠してしまう霧を押し退けていく。
視界がどんどんクリアになり、大きな湖は鏡のように、煌めく夜空を映しているのがよく見える。
まるで星が湖に吸い込まれていくよう。
いつの間にか、すっかり霧は晴れ、私は真凛と目が合った。
真凛はとても幸せそうだった。
やっぱり、真凛は私の憧れた女の子…。
今私はその女の子の隣で、こうして一緒に演奏をしている。
とても、とても幸せね…。
※ ※ ※ ※ ※
最高の演奏だった。
こんなに気分のいいことは、後にも先にもこれっきり。
私たちの世界は完成した。
いつまでもこの余韻に浸っていたいほどに。
「ブラボー!ブラボー!」
そう余韻にばかり浸ってはいられないようね。
あいつだわ。
ブラボー屋になりすました赤髪の誘拐放置犯が湖の反対側から現れた。
「カミサマ!」
そんな奴を笑顔で迎える真凛。
「やぁやぁ、君たちお揃いで。」
白々しい台詞を吐きながら宙にあぐらをかく。
「説明してもらおうかしら。これはいったい、どういう事なのかしら?」
「おや?まだ分かんないの?滑稽だね。」
当てつけのように私の十八番を浴びせる。
「まっ、しょうが無いから説明してあげるよ。簡単な話さ。」
この状況を楽しむかのようにもったいぶって話すカミサマ。
「つまり、小日向真凛の理想が大月梨緒で、大月梨緒の理想が小日向真凛ってだけの話さ。」
何ですって…。
いま私は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていることでしょうね。
けれど、それほどまでに衝撃的なことだったのよ。
だって…ほら、今なんて言ったのかしら…。
「梨緒の理想が…私?」
真凛も大きな丸い瞳を見開いて、開いた口が塞がっていなかった。
それは私も同じ。
「そっ、だからあたしは今から君たちのコンプレックスを交換してあげなくちゃいけない。条件は大月梨緒のせいで満たすもなにも無くなっちゃったからね。」
その言葉の意味は、恐らく真凛には理解できなかったのか、真凛はキョトンとしているけれど、ごめんね。説明してあげられそうにないわ。
「んじゃ、というわけで始めますか!君たちの幸せな未来のために!」
そう言ってカミサマが何か得体の知れない力を発揮した。
下から舞い上がる風が私たちの体を持ち上げる。
始まったのだ。
カミサマの儀式と言ったところかしら。
けれど、そんな事はどうでもいい。
ついに私は長年の呪縛から解放される。
コンプレックスの皮を脱ぎ捨て、真凛の隣に相応しい私になれるその時が!
いつも思い描いていた、二人の幸せな未来が!
けれど、
「待ちなさい!」
それでも私は、私は…。
※ ※ ※ ※ ※
‹真凛side›
ついに願いが叶う。
いつも夢見ていた、周りの目を気にすることなく並んで歩く二人の姿。
私は梨緒のようになって、梨緒の力になれる、梨緒の側にいてもいい存在になれる!
だけど…。
「待ちなさい!」
先に言ったのは梨緒でした。
「待ちなさい、待って…待ってカミサマ!」
梨緒がこんなに大きな声を出すなんて珍しいことでした。
悲痛とも言える叫びが得体の知れない力によって引き起こされた暴風に吹き飛ばされてしまいます。
それでも、梨緒は叫ぶのをやめません。
「待ってくださいカミサマ!」
私も梨緒と一緒に叫びます。
喉が潰れたって、今ここで止めなかったら絶対に後悔します。
だから私たちは必死に叫びます。
「待って!カミサマ、待って!」
私は私が嫌いでした。
幼い頃からチビで、クルクルのクセ毛もからかわれて、何も言い返せない私が嫌いでした。
美人でもなく、子供っぽいものが大好きな私が私は嫌いでした。
嫌いなところがこんなにあると、私は私の全てがいつの間にか嫌いでした。
だから、私の理想である梨緒は、私の大好きな梨緒だけは、嫌いな私にならないで…。
「ねぇ、どうして止めるのさ?君たちはようやく理想の自分を手に入れるんだよ?」
カミサマの声です。
暴風のため、目も開けられないでいる私には、その姿こそ見えませんでしたが、耳に残る落ち着いた声ははっきりと聞き取れました。
「ねぇ、どうして?」
どうしてかだなんて、そんなの…。
「私は!」
梨緒の叫び声です。
私の耳にもその声ははっきりと聞こえます。
「私は、腕の中に収まって、大きな瞳で私を見上げる真凛の顔が好き!撫でると揺れる、真凛のふわふわな髪が好き!嬉しい時は溢れんばかりの笑顔を浮かべ、私が悲しい時に一緒になって悲しんでくれた真凛の心が好き!何事にも一生懸命で、いつも全力な真凛が好き!真凛の話し方が好き!真凛の考え方が好き!真凛の声が好き!真凛の手が好き!真凛の全部が好き!私は、今のままの真凛が大好きなの!私の欲望のために、真凛がこんな…こんな大っ嫌い私みたいになっちゃうなんて耐えられない!私から真凛を奪わないで!」
一言一言息継ぎをし、言霊をロケットに括り付けて一緒に飛ばすように梨緒は叫びました。
酸欠でヒュウヒュウ言う梨緒の息の音が聞こえてくるようでした。
「“大嫌い”だなんて、言わないで!」
私はカミサマにではなく、梨緒に向かって叫びました。
「私の大好きな梨緒を、梨緒が嫌いにならないでよ!」
私はほとんど怒っていました。
頭に血が上っているのは、浮き上がった体の上下が分からないからではありません。
「私は梨緒の」優しく包み込んでくれる梨緒の長い腕が好き!サラサラで、石鹸の香りがする梨緒の黒髪が好き!表には出さないけど、本当はすっごく努力家で、いつも私を助けてくれる梨緒の優しさが好き!真っ直ぐな心で、正義感の強い梨緒が好き!梨緒の言葉が好き!梨緒の性格が好き!梨緒の声が好き!梨緒の肌が好き!梨緒の全部が好き!私も、今のままの梨緒が大好き!梨緒を失いたくない!」
だからカミサマ、お願いします。
どうか、どうか…。
※ ※ ※ ※ ※
目が覚めると、そこはいつもの私の部屋でした。
いつの間にか、気を失ってしまっていたようです。
時計の針は、もうとっくに午前〇時を過ぎていました。
眠れるこの田舎町は静寂に包まれていても、私の頭はすっかり冴えていました。
私は無性に梨緒に会いに行きたくなりました。
こんな夜中に中学生が出歩くなんて、危険だし、いけない事だと分かっています。
けれど、私はこっそりと家の玄関をくぐりました。
新月でした。
田舎の新月の日は、星がよく見えます。
私は夏の大三角形くらいしか知らないけれど、それでも星は好きです。
小さくても必死で光って地球に光を届ける星が大好きです。
坂道を下り、畑を通り過ぎたところにある細道。
ここを曲がって行った先に梨緒の家があります。
けれど、私はその道を曲がりませんでした。
そのまま道をまっすぐ進みます。
曲がり角を曲がっても梨緒はいない。
直感的にそう思ったのです。
そして私はそのまま道をまっすぐ進んでいきました。
そして、引き寄せられるかのようにたどり着いたそこに梨緒はいました。
梨緒は石の蓋がしてある井戸に腰掛けて、月明かりを反射して光る白猫を撫でていました。
「梨緒…。」
私が声をかけても、梨緒は猫を撫でる手を止めませんでした。
手を止めてしまったら、きっと猫はどこかへ行ってしまう。
そうしたらきっと、目のやり場にお互い困ってしまうかもしれません。
だから私も猫を見つめることにしました。
「ねぇ、真凛。」
梨緒の口調はとても優しいものでした。
「私って実は、妄想癖があるのよ。」
突然の梨緒の告白に私は一瞬だけたじろぎましたが、すぐにその理由がわかりました。
「さっきもね、とても不思議な妄想をしていたの。エアの世界に入り込んで、私と真凛で演奏したの。」
それは私も同じでした。
梨緒の言っていることは妄想なんかじゃなく、現実なんだと思いました。
けれど私は黙って梨緒の話に耳を傾けました。
「それでね、私たちはとんでもない思い違いをしていたことに気がつくの。エアは澄んだ湖に夜霧が立ちこめる幻想的な世界だと思っていたけれど、そうじゃなくて…ううん、そうだったわ。実際、湖に夜霧は立ちこめていた。けれど、そこからが間違っていたのよ。」
私はその時の光景をはっきりと覚えています。
霧がかかった静かな湖。
お互いの姿も自分の姿も見失ってしまうほどの濃い霧の中。
「真凛のピッコロがソロを吹き始めるの。伸びやかで、とても美しい音色だったわ。そして、その音色に私のヴィブラフォンを足していくの。」
梨緒の奏でるヴィブラフォンの音色は、とても優しくて、涙が零れそうなほど感情を揺さぶるものでした。
「そうしたらね、私たちの音がまるで霧を押し退けていくように広がって、物音一つしなかった湖に波紋ができるのよ。そして水面に浮かぶ星が揺れて大移動するの。」
そこで梨緒は小さく笑いました。
「私たちのイメージでは、湖は霧に包まれてしまっていて、そんな小さな星明かりなんて見えていなかったわね。そしてお互いの姿も、自分の姿も…。」
私たちの音で視界がみるみる晴れていき、私は梨緒の姿をはっきりと見ることができていました。
そして、鏡のような湖にも、梨緒のガラス球みたいな瞳にも、私はいました。
「演奏が終わるとね、とても清々しい気分だったのよ。あんな気持ちは初めて…。」
私も同じ気持ちでした。
心に残ったあの感動は、今でもありありと思い出すことができます。
「演奏が終わるとね、更に不思議なことが起こるの。物凄い暴風が私たちを襲ってね、目も開けられないのよ。」
カミサマの力によって私たちは浮き上がり、甘い言葉に惑わされ、私たちはまた何も見ない世界に入り込んでしまうのです。
「だけど、私はそれが悔しくて叫ぶのよ。どんなに叫んだって私の声は風にかき消されてしまって、自分の耳にも届かない。けれど私は叫び続けたの。そうしたら、私の声が真凛に届いてね、真凛も一緒になって叫びだしたのよ。」
カミサマ待って…。
叫び続けた私の喉はまだ少しヒリヒリしていて、現実味を帯びています。
「それでも風は収まらない。気が付くと私はなんて言ってたと思う?」
梨緒はクスクスと笑いました。
私もあの時の言葉を思い出して、思わず笑いが込み上げてきました。
そして私は少しふざけて言うのです。
「愛の告白?」
すると、梨緒はさらに笑いました。
私もつられて、二人して笑ってしまいます。
いつの間にか猫を撫でる手が止まっても、猫はその場に居座り続けていました。
けれど、私たちにもう猫は必要ありませんでした。
猫はそれを恨めしく思ったのか、ニャーと低い声で鳴きました。
「そう、愛の告白よ。」
梨緒が楽しそうに言いました。
「真凛は私の持っていないものをたくさん持っている。私は真凛になりたいと思っていた。そうすれば、真凛の隣を堂々と歩ける。だから私は真凛になりたい。けれど、それも間違いだったのよ。」
梨緒も私の持っていないものをたくさん持っている。そして私も梨緒と同じ気持ちでした。
「私は真凛が大好きなの。だから、私が真凛になっても意味が無かったの。」
「私も、」
梨緒が私と同じ気持ちなら、私も梨緒に告白するべきなのです。
「私もずっと梨緒になりたかった。ずっと梨緒に憧れて、梨緒の隣にいるために、梨緒にならなくっちゃって思ってた。けど、それもやっぱり違ってた。私も梨緒が大好きで、梨緒が梨緒だから大好きなの。だからやっぱり、私が梨緒みたいになっても梨緒にはなれないし、なっても意味が無いの。」
私の言葉を梨緒は噛みしめるようにして聞いてくれました。
これが本当の私たちの気持ちでした。
それがようやく分かり、分かり合い、分かち合ったのです。
「今までの私たちは、お互いにないものねだりだったのね。けど、これからは違うわ。」
私は頷き、井戸の上に座る梨緒に両手を広げます。
井戸に腰掛ける梨緒も腕を広げ、そしてそのまま…。
「真凛。」
「梨緒。」
私たちはしっかりとその腕に互いの体を抱きました。
互いの体が融けあって、一つになっていくように、私はしっかりと梨緒の感触、香り、息の音を感じていました。
「これからは…ううん、意識していなかっただけで、ずっとそうしてきたわね。これからもお互いにお互いの足りないところを補っていけばいい。二人でなら、どんな事だって乗り越えられる。そうでしょう?」
私は梨緒の中で何度も、何度も頷きます。
「梨緒は今の梨緒のままで私の隣にいてほしい。それだけで十分なの。二人一緒にいられれば、私は梨緒のために何だってできる。私はずっと隣で梨緒を見ていたい。誰よりも梨緒の隣にいたい。」
「私もよ、真凛…。」
私たちは強く、強く抱きしめ合いました。
その間に、猫が何度鳴いたか分かりませんでした。
※ ※ ※ ※ ※
‹梨緒side›
「明日はいよいよ夏コン地区大会本番です。みんな、ここまで付いてきてくれて、本当にありがとう。」
本番前、最後の練習を終え、突然ふられた部長からの挨拶。
言いたいことは、決まっていた。
「私は打楽器でコンクールに出られることを誇りに思います。なぜなら、みなさんも思っているかもしれませんが、打楽器は少し吹奏楽部内では浮いた存在だと思っているからです。」
盛り上げ役の部員が、「そんなことないよー」とフォローを入れてくれて、他の部員から笑いを獲った。
いい雰囲気ね、いい部活だわ。
改めて思う。
「けれど、それでいいのです。だって、みんなも自分の楽器は少し特別だと思っているでしょう?それは、良い意味でかもしれないし、或いは悪い意味でかもしれません。けれど私はこう思います。それぞれの楽器には、それぞれの長所と短所があると。皆それぞれ持っているものと持っていないものがあります。」
はじめに真凛と目を合わせ、それから私は部員全員の顔を見ていく。
「だから私たちは25人なんです。
不安になった時は隣を見てください。きっと隣には、自分の楽器とは違った特別を持った楽器がいます。私たちは一人で戦うのではないのです。明日はそれを忘れずに、みんなで一金目指しましょう!」
歯切れの良い返事が音楽室に響き渡り、直後私に向けて拍手が送られた。
私はそれが嬉しくて、みんなに深くお辞儀で返した。
※ ※ ※ ※ ※
帰りはもちろん、真凛と帰った。
いつもと変わらず、他愛も無い話をし、いつもの分かれ道に着いてしまったところで、真凛が急に言った。
「梨緒、今日が一番かっこ良かったよ。」
「ありがとう。けど、明日は、もっとかっこいいわ。」
冗談っぽく、本気の言葉。
「じゃあ私も、もっとかっこ良くならなきゃね!」
そう言った真凛に私はデコピンを食らわす。
痛た…。と言いながら額を押さえる真凛。
「真凛は真凛らしい演奏をしなさい。かっこ良いのは私の役目。」
真凛は「ふぁーい」と、可愛い返事をしながら見上げてくる。
そんな天使に私はヤラれる。
これ以上その丸い瞳を見つめていたら私はきっと真凛を滅茶苦茶に抱きしめてしまうわ。
「…けど、まぁ少しくらいならかっこ良いのも譲ってあげなくは無い、わよ?」
チラッと再び視線を真凛に戻す。
と、真凛の笑顔がパッと花開く瞬間だった。
「うん!私は、私のかっこ良い演奏を梨緒に聞かせてあげるね!」
そんな無邪気な笑顔を向けられてそんなこと言われたら、我慢できるはずないじゃない。
「真凛、大好きよ!」
「うわぁ、梨緒!?」
キャラじゃなくたって、たまにはいいわよね?だってこれも私ですもの。
※ ※ ※ ※ ※
‹真凛・梨緒side›
──プログラムNo.20。…………自由曲「ケルト民謡による組曲」。第一楽章「マーチ」、第二楽章「エア」、第三楽章「リール」。指揮:井崎晴子。
※ ※ ※ ※ ※
‹カミサマside›
「あーあ。せっかくあたしが理想の君たちをプレゼントしてあげるっていうのに、なんでみすみすその機会を捨てちゃったのかなぁ?」
目下に見えるのはコンプレックス塗れの小日向真凛と大月梨緒が泣きながら笑っている光景。
「ふーん、人間ってよくわかんないなぁ。けどまっ、いっか。あたしは君たちが幸せならそれで儲かるんだからさ。」
そしてあたしは幸せ管理局の報告書を書く。
彼女たちは、お互いにないものねだりだった。
誰だって、自分に無いものを欲しがってしまうこともある。
ありのままの自分を好きになれない時期もある。
けれど、そんなあなたを好きな人が必ずいる。
だから、彼女たちは、自分の事を好きな人のために、精一杯自分になろうと決めたのだった。
最後までお読み下さり誠にありがとうございます!
どの部分がノンフィクションかは言えませんが、3分の1くらいはノンフィクションです。
おこがましいとは思いますが、感想等いただけますと仁娯のパワーになります!
どうか、お時間あれば一言でもよろしくお願いします(*_ _)ペコリ