第2話 Alice in wonder land
教室に戻った悠太は、姫紀に言われたことを考えていた。
「深淵か…」
恐らく姫紀は何度も#それ__・__#を体験している。ああ見えても彼女は幾度の視線を乗り越えてきた優秀な捜査官なのだ。
しかしその、過程で同僚の精神が破綻したという話も聞いたことがある。そういう過去があるだけに、悠太にだけはそうなってほしくないのだろう。
「おっ、帰ってたのかよ、どうしたよくらい顔して」
学食から帰ってきた橘が不意に話しかけてくる。相も変わらず元気だ。
「さては、姫ちゃんにこっぴどくしごかれたな」
「まぁそんなところだよ」
これはあながち間違いではない。仕事を初めてまだ一年、学生との両立は難しいようで、やはり授業中は起きているのが辛いものがある。
その事で姫紀に叱られたため、昼休みが丸々飛ぶという結果になってしまった。
「まぁ勉強なんて正直どうでもいいよ」
そう言いながら机に突っ伏し、次の授業を待つ。
「噂をすれば次は姫ちゃんの数学だぞ、流石にとばっちりは勘弁な」
橘も見た目のとおり目をつけられている生徒の1人なのだ。そう言いながら机を悠太から遠ざける。
「怒られる時は巻き込んでやるから安心しろ」
友達とは苦楽を共にできる素晴らしいものである。
「そういう橘こそ、次の時間テストなんだが…大丈夫なんだな?」
橘の顔が比喩ではなく、本当に青ざめているのが分かった。
放課後、数学のテストに落ちた悠太と橘は共に姫紀の補習に呼ばれていた。
クラスで残されているのは、ふたりを含めて5人だけ。
「本当にどうしょうもないやつらだなぁ、お前達は」
後半部分は特に悠太と橘の方を向いて、強調して言っている気がする。
「4月のこの時期にこれだけ補習者がいるとは先が思いやられるなぁ」
尚も小言が止まらない姫紀。
「とりあえず今日は受かるまで帰れないからなぁ~」
どうやら今日はエンドレスのテスト地獄らしい。
「はぁ~、昼休み潰されたこっちの身にもなってほしいわ」
「夏目~♪なんか文句でもある?」
地獄耳とはまさにこの事である。
「おい、悠太お前なんか恨みでも買ったのかよ?」
橘が震えている。
「……」
悠太もこれ以上は何も言わないことにした。
「さて、とりあえず昼にやったテストを返すぞ~」
各々5人に昼のテストが返されていく。悠太は100点満点中58点。60点が合格点なのであともう一息だ。
隣を覗き込んで見ると、少年はテストに目を奪われていた。
12点。
それが隣の可愛そうな少年の数学の評価だった。
「お前……」
橘の肌から色が無くなりつつある。
「おれ…この戦いが終わったら結婚するんだ……」
「死亡フラグ立てるのやめい!」
悠太は、既に死んだ様な気色の友人が更に冥府へと落ちるのをただただ見守ることしか出来なかった。
「最初にもう1回解説してやっから、1回で受かるようにしてくれよ」
姫紀の数学の解説が始まる。
内容は中学の復習らしく、連立方程式という内容をやっている。
「で、ここがこうなるから、こっちがこうなって…」
悠太はなんとか食らいついたが、隣の落ち武者は脳がオーバーヒートしていた。
覗き込んでみると、何かがおかしいことに気づいた。
「お前…アルファベット書けないのか?」
「おれはなぁ!!日本人なんだよおおおお!」
姫紀の放ったチョークが橘の脳天を直撃した時、彼の意識はなくなっていた。
しかし、彼の答案はXは普通にバツに見えるし、Yに至っては書いてすらいない。
このご時世、数学で英語の問題を解いているのはこの世で橘ただ1人だろう。
「大変そうだね」
前の席に座っている少女、#東名有栖__とうめいありす__#が話しかけてきた。
彼女は入学1ヶ月足らずで成城高校付き合いたいランキングトップ10入を果たした正真正銘の美少女だ。
この少女ももちろん補習に呼ばれた残念な生徒だ。
「東名か、見ての通りラスは橘で決まりだ安心してくれ」
「そっかぁ~橘くんは数学苦手なんだね、安心、安心♪」
悠太はこっそり彼女の答案を覗いた。
9点……
「と、東名さん?」
「なぁに?」
「…………………。」
「…………………。」
お互いに沈黙が流れる。
「みっ、みたなぁー!!」
「ごめん!見るつもりはなかったんだ!」
有栖が赤面している。よほど自信があったのだろう、先ほどの余裕は彼女の顔にはない。
「東名さんもお仲間だな!」
橘が勝ち誇ったように言い放つ。
「ちっ、違うの!いや、違わないけど!特に数学は苦手なの!!数を学ぶって教科なのに、英語出てくるとかほんとに無理なの!!!」
どうやら別の次元で戦っている猛者はこの教室に2人のようだ。
そんなやり取りをしていると不意に殺気を感じた。
「お・ま・え・ら!!!」
これだけ騒いでいたら姫紀の逆鱗に触れるのも当たり前だろう。
「いい度胸してるなぁ!?」
「「「すいませんした」」」
三人の声が同時に同じ謝罪を述べた。
「安城先生怖いね」
有栖が今度は姫紀に聞こえない声で悠太に囁いた。まさかのウィンクつきである。
これは男子からの人気が絶大な理由なのだろうか。悠太は顔が赤くなるのを感じ、急いで隠した。
それから悠太たち3人はなんとか姫紀のテストに合格し、3人揃って帰路についた。
実際、悠太以外の2人は小学生の計算ドリルをやって終わりという始末だった。
「なんでおれだけ…」
不満を口に出す悠太を他所に有栖が無邪気につぶやく。
「あー!終わった終わった!疲れたねぇ~♪」
「東名さんも家こっちなんですね」
橘がここぞとばかりに話を振る。
「そうなんだぁ~こっち方面に帰る人がいてよかったぁ」
「最近物騒だからね変なやつが来てもおれがやっつけてやりますよ!」
橘はかわいい女の子と話す時は敬語になるらしい。
「でもこの辺はまだ大丈夫何じゃないかな」
「そうだねぇ、事件が起こってるのもスラム街の近くみたいだし」
スラム街というのは、成城市の隅に位置する貧困街のことで、日本経済が落ち込む現代で政府が10年前に貧困層と富裕層を2分化する制作を打ち出した。
治安が悪くなっているのは主にスラム街を中心とした地域で、犯罪件数はは10年前の8倍に跳ね上がった。
その影響もあり、以前より#連続殺人犯__シリアルキラー__#が現れるようになった。
その危険度に応じて、ランクが定められており、高くなればなるほど捕まえた人物に報奨金が出される仕組みになっている。
「まぁスラム街の方に近づか無ければ大丈夫だろうな」
「でも今回の犯人はランク#BB__ダブルビー__#だから気をつけるに越したことはないよねぇ」
#BB__ダブルビー__#というと、危険度としてはかなり高い。
「まぁおれらには関係ないですよ!」
橘は能天気に有栖に媚を売る。
本当にこの男は女にしか興味が無いのであろうか…
そんな話をしていると、悠太の携帯がなった。どうやらメールが来たようだ。
内容を見てみると、姫紀だった。
"調子はどうだ?あまり無理はするなよ"
あれはあれで結構心配性の面がある。
スマホをスクロールすると、続きがあった。
"あっ、今日ご飯食べに行くからよろしく~♪"
どうやら、心配していたのはご飯をたかりに行く為だったのか、悠太は顔をしかめた。
「どうしたの、悠太君?」
橘の猛烈なアタックに疲れたのか、有栖が悠太に話を振った。
いつの間にか下の名前で呼ばれている。
最近の女子はすぐに下の名前で呼ぶのか。
「あ~もしかして彼女さんかな~??」
「何いってんすか、こいつに彼女がいるわけないじゃないですかw」
「おいまて、事実だがお前に答えられると無性に腹が立つ」
自分で言うのはまだいいが、他人に言われると腹がたつものだ。
「へ~そっかぁ、いないのかぁ……ふーん」
有栖が意味深な言葉を発する。
「じゃあ、わたしが立候補しちゃおっかなぁ」
「冗談だろうけど、真に受けるからやめて欲しい………」
「えへへへへ」
「東名さん、それならおれと…」
「橘君は無理かなぁ…」
「……………」
どんまい、橘。
「あっ、わたしこっちだからまた明日ね!」
そう言って有栖は交差点を右に曲がり、駆け足で去っていった。