~桜のように柔らかいピンク~
翌日から、お嬢様のコンクールのための制作は始まった。
コンクールのテーマは『自分の大切なもの』
何を描くのか聞いてないのでわからないが、柚希様はさっそく地下のアトリエに行った。
昨日のこともあって心配だったので近くに居たかったが、「最初は1人でやってみる。もしダメだったら必ず君を呼ぶから来てくれ」と言われたので、僕は屋敷内の家事をしながらいつでも柚希様から呼び出されても大丈夫なように内線の子機を持ち歩いていた。
もちろん普段なら持ち歩いたりはしないのだが、今回は事情が事情なだけに特別だ。
時計を確認すると柚希様がアトリエに入られてから1時間経っていた。
制作は順調だろうか、と心配になったまさにその時、メイド服のポケットの子機が鳴った。
確認すると、アトリエからの内線だったので、慌ててコールを押す。
「灯華、悪いんだが、水を入れたバケツと雑巾を持ってきてくれないか」
それだけ伝えると、僕が返事をする前に通話が切れてしまった。
明らかに体調の悪そうな声だったので、まさかと思う。
用意を頼まれたものを鑑みてももうそれしか思いつかなかった。
急いで用意をして、僕はやや駆け足でアトリエへと行く。
「柚希様、灯華です」
アトリエの呼び鈴を鳴らし、開錠を待ってから中へ入る。
「すまない。ありがとう。もう戻ってくれて構わない」
僕の前に立ちふさがって、アトリエ内を見えないようにする柚希様の顔は真っ青になっていた。
疑問は確信へと変わり、柚希様の肩をそっと撫でる。
「大丈夫です。掃除は使用人の仕事です」
「あ、おい」
僕は柚希様をそっと座らせてからマスクとゴム手袋を付けて掃除を始める。
嘔吐物を掃除する場合は血液感染などの危険もあるためマスクやゴム手袋をつけなければならない。
嫌な予感が当たってしまっていた。
念のためにと持って来たのは正解だったようだ。
いつもの覇気のない柚希様は座ったまま項垂れてしまっていた。
綺麗に拭き終わった後はアルコールスプレーで消毒をして、最後に使った雑巾をビニール袋に入れる。
「これを片付けたらお飲み物をご用意します。少しお待ちください」
できるだけ優しく声をかけたが、反応はなかった。
使ったものを綺麗に洗い、消毒もした後、しっかりと手洗いうがいもする。
おそらくこれだけ丁寧にすれば大丈夫だろう。
ちょっと工夫をした紅茶を入れ、僕はアトリエに戻る。
もうすぐお昼なので軽食でも用意しようかと思ったが、おそらく召し上がる気力もないだろうと思い、紅茶だけを持っていくことにした。
「お待たせいたしました。落ち着くようにおまじないを込めて淹れました」
僕は柚希様の前に紅茶を置く。
「・・・ありがとう」
柚希様は紅茶を一口飲むと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
今は側に居ようと、僕は柚希様の隣のイスに座る。
しばらく無言の時間が続き、どうやって声をかけようか迷っていると、柚希様が先に口を開いた。
「私は・・・あまり実家から良く思われてないんだ」
「はい、お聞きしています」
成川家の現当主様、つまり柚希様のお父上は未だに古くからのしきたりなどを重んじている人で、男尊女卑の考えが強い人なんだそうだ。
だからこそ跡取りは息子にと思っていたから、子供が生まれ、その子が女の子だとわかるとひどく落ち込んだとのこと。
柚希様の母は柚希様を生んだ後、男児を産めなかったことの心労もあってか亡くなってしまっている。
その後、再婚をした女性が男児を生んだがため、柚希様は成川家では居ないものとして扱われているのだと。
「でも幼い時の私にそんなこともわかるわけもなく、父に好かれたい思いで必死だったんだ・・・」
テーブルに伏したまま話を続ける柚希様の手の上にそっと手を重ねる。
「ほんと、馬鹿な話だ・・・。そもそも女だから嫌われているんだ。何をしたって好かれるわけがなかったんだ」
男尊女卑だなんて・・・とは思う。僕はほとんどをフランスで過ごしているため、理解すらできないが、お父様にも思うところはあるのだろう。
「昔から絵を描くのが好きで色々な物を描いて遊んでたんだ。誰かの絵を描くのが一番好きで、その時のお付きや、当時はまだ新人だった藤田の絵も描いた。みんな喜んでくれたのが本当に嬉しくて、これなら父にも喜んでもらえると思ったんだ」
それは本当に純粋な心だったんだろう。
「父に喜んでもらいたい、その一心で似顔絵を描いたんだ。上手く描けたし、今でもあの絵が私の描いた絵の中で一番だと思ってる。藤田も、どのメイドもこの絵を見せれば父は喜んでくれると言ってくれたんだ」
とても素敵な話だ。でもこれは悲しい話。結末はバッドエンドに定められているお話だったんだ。
「父はいつも夜遅くに帰ってくるから、絵と一緒に手紙を描いて食堂に置いておいたんだ。手紙の最後にお返事くださいと書いて。その翌日、私はいつもより早起きして食堂へ行ったんだ。父が手紙を残してくれてるかもしれないと思って・・・」
そこから柚希様の声が震え始めた
「翌日、食堂に残されてたのは・・・ビリビリに破かれた父の似顔絵だったんだ」
「っ!!」
思わず柚希様の手を握る力が強くなってしまった。なんてひどい話なのだろう。
こんなに純粋な思いをどうして無下にできるのだろうと。
「その時から、どうしても似顔絵だけは無理なんだ。風景画や動物は普通に描けるのに、人物画だけはどうしても・・・。それから人も信じられないんだ。どうせ裏切られると思ってしまう」
以前、僕のリクエストを聞いてくれた時、人物画だけは描けないと言っていたのはこれだったのか。
「でしたら、今回は諦めましょう!」
できるだけ明るい声を出す。そうでもしないとこのまま泣いてしましそうだったから。
今回のテーマで柚希様が描きたいもの、それは人なのだろう。
それが誰なのかはわからないが、ほぼ真っ白なキャンバスに人を描くためのアタリだけは取ってあるから人物画なのは間違いない。
「もちろん人物画を辞めるという方法もありますが、取り繕ったものを描いても良いものが描けるとも思いません。ですから柚希様がいつか、人を信じることができ、過去を乗り越えられる日まで、このテーマは封印しましょう」
「灯華・・・」
「過去を乗り越える日までこの灯華、この身を捧げて柚希様をお支えします。最初は信じなくてもいいです。用いてください。柚希様が私の事を信じられるようになるまで使ってください」
今の僕の精一杯の気持ちを伝えた。
それが伝わったのか、柚希様は小さく笑う。
「君が来てからまだ2ヶ月も経たないが、私のために尽くしてくれてるのは理解してる。そんな君すら信じられないと言うのなら私はもうあの父親より最低だ」
この主人が誰よりも愛おしくなり、抱きとめる。
「ありがとう灯華」
唇に柔らかいものが触れた。
今触れている身体よりも柔らかいもの。
何が起こっているか理解できず、混乱している間に柚希様はそっと唇を離していった。
柚希様はもう落ち着いている。だというのに僕は未だ混乱の真っ只中で、思考が走らない。
「えっと、柚希様・・・わっ!!」
アトリエ内に呼び鈴の音が響き、思わず男の声が出てしまった
「お嬢様?灯華さん?そろそろ昼食の時間ですが」
どうやら小暮さんが昼食の時間になっても来ない僕たちを呼びに来たようだ。
「悪いな、今すぐ行く」
そう言うと柚希様は小暮さんと先に2人でアトリエから出て行った。
残された僕はというと、先ほどのキスに未だ整理がつかず、どうすればいいかわからずにいた




