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彼女のいない部屋

作者: たかいせ

 時間の問題だった、と思ってはいない。

 朝は弱いほうだ。音量を最大にした携帯電話で十分ごとにアラームを鳴らしても起きられないときは起きられない。気配すら見せないらしい。昏々と眠り続ける僕の様を雪が降り積もるようだと笑われたこともあった。雪の下に埋もれて春を待ち続けているようだと。

「ねえ、これ。電気ショックで起こしてくれるリストバンド型活動量計? だって。お似合いじゃない?」

「よしてよ」

「あ、残念。商品にはまだなってなくて、クラウドファウンディング? で、出資を募って作るのはそれからだって」

「助かった、って油断してると物好きな人たちが投資して実現するんだろうなあ」

「楽しみだね」

「まあなったらなったで面白くはあるけど。……冗談だよね?」

 その年の誕生日のプレゼントはベルトこそいくらか擦れて黒色のシリコンが白んできたものの、今も僕の左手首に巻かれていて、朝六時半になると起こしてくれる、電気ショックではなく、静かなバイブレーションで。

 くっついた目蓋の上下を引き剥がし、布団の洞の中で左手首に目を凝らす。リストバンドの小型のディスプレイに06:30が白く発光し、手首には痺れるような細かな振動が伝わっている。

 怠惰な気持ちを掛け布団の端でこそぎ落として寝床から抜け出し、後ろを決して見ないようにして流しへ向かう。夜のうちに冷えきった水で三度口を漱ぐ。続けて、顔に貼り付く眠気を洗い流して天井を仰いだ顔を新しいタオルで覆い、しばし深く呼吸することに専念する。柔軟剤の匂いに満ちる。前髪の滴をタオルで拭う。

 電気ケトルのスイッチを入れ、冷凍庫から五枚切りの食パンの一枚をトースターで三分。湧きたてのお湯でインスタントコーヒーに牛乳を少し。そうしているうちにトースターがチンと鳴る。コーヒーを一口啜り、中火に掛けたフライパンに卵をひとつ。コーヒーを混ぜたスプーンで黄身を割って緩く広げ、スプーンはそのまま流しに下ろす。広げた卵の上に塩胡椒をし、トーストしたパンを乗せ、少しだけ手で押さえてやる。食パンの耳からはみ出して見えている卵が固まったらコンロの火は止めてパンの端を持ち、千切れないよう持ち上げる。焼けた卵が食パンと一緒にテフロンから剥がれる。

 皿に移して机まで行くのも面倒で、台所で立ったまま手に持って食べる。パンくずがはらはらとシンクに落ちる。手の平に残るパンくずをはたいて落とし、コーヒーを持ってパソコンデスクに着く。左手首のリストバンド型の機器を外してケーブルでパソコンと接続し、自動で計測された睡眠の記録をウェブのアカウントに同期させつつ充電する。一方で、一時間刻みの天気予報をチェックする。しばらく雨は降りそうにない。

 歯を磨き、スキニージーンズとタートルネックの軽装に着替え、パソコンの電源を切り、リストバンドを左手首に付け直す。デスクの上の携帯電話に伸ばした手を引っ込める。ちょっと近所を散歩するくらいには持って行かなくてもいいだろう。背を伸ばし、肩を回す。凝り固まった筋が伸びて関節が鳴る。スニーカーを引っ掛けて部屋を出る。

 視線を上げると行き交う電線の遥か上空、透明度を増す空の高いところを掠れた絹雲が東へ走っている。去年の今頃はまだ長袖も出していなかったが、季節は瞬く間に秋へと転じた。それこそ坂を転がるように。金木犀も直に花弁を開き濃密に甘い匂いをそこかしこの街角に漂わせることだろう。

 突っ切った公園で猫の集会を目撃し、ブロック塀の向こうから未だ姿を見たことのない犬に吠えられ、集団登校の小学生や横並びの自転車の高校生に道の落ち葉を箒で払うおばさん、彼らを憂慮して追い抜けないでいる自動車。そういうものに囲まれながら僕はゆったりと歩いた。狭い路肩を僕と彼らの肩は十五センチの距離で行き違う。気まぐれに、思い付きに従って進路を取る僕は誰とも道づれにならないままに、風通しは次第によくなっていき、ついには見通せる限りでたった一人になっていた。

 路地を真っ直ぐに吹き抜ける風が雑念を片っ端からさらっていき、頭の根っこのところが引き締まる。薄皮一枚剥げ落ちた後のようなクリアな感覚に、空いた左手が冷たかった。所在のない左手をジーンズのポケットに突っ込んで、来た道をそのまま引き返した。

 すっかり覚めた頭は一歩歩くごとに重たく揺れて、足はちぐはぐにアスファルトの路面を掴んだ。空気が薄くなったかと疑うほどに息が苦しく、吹き付けて背中を押す風が体温を無邪気に奪っていった。ただただ広大に頭上を埋め尽くしている空は圧迫感を以って僕に覆い被さって来ていた。霞んだ雲の隙間の空は、灰色に見えた。

 十五センチの隣、左手を埋めてくれた彼女が部屋を出て行ってから何日、何週間経っただろう。

 その日その日を今まで通りに、何ひとつ変わりなく過ごしてみせることに徹していた僕にとって、カレンダーの四角いマスにバツを書き入れることや、一月ごとにめくり取った大きな紙を折り畳んでゴミ袋に押し込む、そういう決まりきった習慣さえもどこかへ忘れ去ってしまわなければやりきれないくらい、ひどく暗澹とした心という形のはっきりしないものを、確かに胸の真ん中、鳩尾の奥に抱えていた。重たく凝縮したそれを努めて忘れようとするのだが、宛もなく街を歩いているとき、ジーンズにベルトを通しているとき、電気ケトルの水が湯に変わるまでの僅かな時間、そして朝目を開ける一瞬でさえ、彼女のいる記憶が不意を突いては鮮明に立ち現れて脳裏を埋め尽くし、また一段と心を重くした。再生された思い出の断片が積もり重なるのを胸の内に感じ、一分に満たないワンシーンの記憶はそれ以上の時間、僕を絡め取って動けなくさせた。

 あのとき。あのとき。あのとき。

 ああしていれば。

 意味のないことだとわかっていても考えてしまう。時間が合わないで、言葉が足らないで気持ちが行き違ったときのことも。真正面からぶつかって喧嘩して、そっぽ向いたときのことも。

 蘇るのは悪い思い出ばかりじゃない。くだらない馬鹿話で肋骨が折れるかと思うくらい笑い合ったこと。日付が変わるまで二本の缶チューハイをちびちび飲みながらそのまま一緒の毛布に包まって眠ったこと。温かな思い出は悲しい記憶に決して引けを取らない。けれど、そのときの幸せな気持ちでさえも、今では僕の胸を強く圧迫する。

 大学で知り合って、卒業後同棲を始めて。それから数年。うじうじしたガキそのものな僕がどうして、どうやって今まで彼女と一緒にいられたのだろう。

 部屋に戻るとスニーカーの踵を踏み潰して脱ぎ、グラス一杯の水道水を一息で喉に流し込んだ。グラスから口を離し、口の端から零れる水滴を手の甲で拭うと、デスクの携帯電話が天板を小刻みに打ち鳴らした。バイブレーションは一回分で止まらず、小休止を挟んでバイブを繰り返した。早足に歩き、電話を取った。職場からだった。

 いやな予感というものはない。あの店で働き始めて着信履歴の大半が職場の番号になっている。慣れたものだ。ダスターが定数揃っていないが昨晩は決められた場所に片付けたか、来掛けに洗剤を買ってきてくれないか、ヘルプ頼めるか。そんなところ。今回もヘルプの依頼だった。

「もしもし。お疲れ様です」

「お疲れ様です。墨田さん、今日ちょっと早めに来てもらえる?」

「はい、大丈夫です」

「本当? 助かるよ。バイトの子から今日来られなくなったって連絡があってさ」

「夕方の、六時からですか」

「うん。ごめんね。遅くなってもいいから」

「そういえば今日って確か、学生の団体予約ありましたよね」

「十九時半から入ってるね」

「わかりました。それじゃあ夕方に」

「お願いします。失礼します」

「失礼します」

 最後の定型句は被せ気味に、どちらが先か通話は切られる。篠原さんの声に切羽詰まった様子はなく、声色も店に出ているときの綺麗めな接客用のままだった。今晩の団体さんは面倒でない方なのだろう。

 うちを飲み会に使う大学は二つ三つ。うち一校は女子大だが、客や宴会の雰囲気からは判別できない。飲み方や騒ぎ方で見られるカラーは大学ごと、サークルごとというよりも学部学科での違いになる。何となくだが、毛色の違いは見て取れるものだ。経済学部はとにかく騒ぐ、飲む、吐くまで飲む。文学部は帰るときのお礼の言葉を欠かさない。テーブルを片付けに行くと綺麗にまとめてあるし、おそらく台拭きでテーブルも一通り拭いてくれている。

 どちらにせよお客さんには変わりないから接客態度も通常通り。けれど、その晩に彼らの予約が入っているとなれば多少の心構え、覚悟は必須だ。これを以って仕事に望むか否かで気力の削られように差が出てくる。何の気なしでは閉店後、一度腰を下ろすと動くことさえ億劫になるほどだ。

 ヘルプの電話のおかげでしばらくは仕事で頭を一杯にしておくことができそうだ。そうやって、別のことで隙間を埋めることで僕はまたどうにか平静を装える。

 静かになった携帯電話をデスクに戻す。そこに置き去りにしていたマグカップの底で飲み残したコーヒーが冷たくなっていた。一気に呷る。のっぺりとしたコーヒーの安い苦味が舌の表面にも喉の内壁にもへばり付いて、忘れるなと責められているようだった。


 寂れの気配を漂わせ始めた商店街の入り口脇に僕の働いている居酒屋がある。遅れてもいいと言われたが五時半には制服に着替え始めていた。リストバンドは制服の袖に隠れるが、外した。ポケットに携帯電話を忍ばせて客前や厨房に出る人の気は僕には知れない。頼まれていた六時まで事務室で時間が過ぎるのを待つのも心苦しく、着替えが終わると店に出た。篠原さんはゆっくりしていていいのにと笑った。給料にもならないのだから。実際、この半端な時間の客足は通常の人員でも手が余る。それでも事務室ですることなく長針が刻まれていく様を眺めているだけよりも、人目があって気の抜けない表に出ていたほうが今の僕にとっては幾分気が楽だった。

 予約にあった学生の団体は余裕をもって店の前に集合してた。ふと表を見ると、入り口引き戸のガラスの向こうで薄暗闇にケータイの液晶画面が光るのや、腕時計を目線に持ってきている一団の姿があった。外はもう気温も下がってきているだろう。お座敷の準備をする手が気持ち急ぐ。人数分の皿や箸、おしぼり。テーブルができあがっていく。スタッフに声を掛けて了解を得て、予約の時間にはまだ早いが案内に出た。気温の差で全身が押し縮められるような一瞬の錯覚を起こした。

 店先の彼女たちは一見して大学生らしくなかった。今どきの女子大生といえば同じ髪色に髪型、服の系統まで似通って、誰が誰でも構わないと思われるくらいに個が均しくなってしまっているものと。そういう女子大生のグループを多く見てきたが、彼女たちは今となっては希少な部類なのかもしれない、一人ひとりが自分を持って、しっとりと馴染んだスタイルでそこに立っていた。

 一番近くでケータイの画面に目を落としている女子に声を掛ける。団体の代表者か、それともこの夜の会だけの幹事か。どちらにせよ、入口付近に役回りの人は陣取っているものだ。

「すみません。十九時半からご予約のお客様でお間違えないでしょうか」

 彼女は機敏に反応してケータイから顔を上げた。

「はい、そうです。えっと、団体名で予約したの?」

 彼女は後ろに控えていた緩い巻き毛の女子に訊ねた。彼女は代表者でも、実際に予約の電話をしたのは巻き毛の子らしい。

「うん。市井大学の茶道部で、九人で」

「日が落ちて寒くなってきましたし、お座敷の準備が出来ておりますので、少し早いですがどうぞお上がりください」

「いいんですか? ありがとうございます」

 彼女はお辞儀をして、それから巻き毛の子に確認したときよりもしっかりと体で振り返って「入りますよー」と呼びかけた。

 息を呑んだ。

 梳いた後ろ髪から覗く襟足。ちょっとだけ広く見える肩幅と対比してか弱い印象を受ける細腰。しかし強い芯を持ちしゃんと伸びた背筋。背中の姿がひどく「彼女」を思い起こさせた。

 ああ、僕は「彼女」の背中も好きだったんだ。

 今になって初めて知った自分の気持ちに狼狽し、動揺が表面に出ないよう胸の内に圧し込めて表情を作った。胸中で絶えず重さを増していく塊を意識から切り離し、忘れるようにした。

 目蓋も、眉の形も、小鼻の膨らみも、「彼女」とは全く違う別人だった。それなのに。

 お座敷へ通すまで、僕は彼女の背中を視界に入れないように努めた。彼女が上座に座ってくれたのは幸いだった。注文を聞き、料理や飲み物を運ぶたびにそこにある背中から逃げなくて済むのだ。

 表情だけは笑顔のまま、無心に働いた。二時間のコースはいつもの何倍の長さにも何十倍の密度にも感じられ、自分の時間だけがゆっくりと動き、周囲から置いてけぼりにされていくようだった。

 切り離した気持ちと一緒に他のいろんなものも混ざってしまっていたのか、頭はぼんやりしていた。料理を運ぶ手にその重さは無く、焦点はどこでもない深さに固定され、人の声は遠く、あちこちで反響しているみたいに聞こえた。心と体の繋がりが綻んで、まるでちぐはぐに、二つ重なってあるべきものがズレてしまっているようだった。身体だけはやるべき仕事を黙々とこなし、笑顔で、マニュアルに従って接客を続けた。

 学生たちが退店した後も僕はズレたままだった。空いたテーブルを片付け、注文が入った酒を出し、酔い潰れた客のためにタクシーを呼び、清掃をし、ようやく肌感覚が一致したとき、僕はもう制服を着ていなかった。職場からのいつもと変わらぬ帰路を歩いていて、左手首には仕事の前に外したリストバンドが戻っていた。胸の内の重たいものはなくなっていた。同時に、混ざってしまっていたものもなくなっていて、空の胸腔は夜の冷え込んだ空気だけで虚しく塞がっていた。

 夜、虫が光に寄るように、コンビニの明かりに僕は引き寄せられた。コンビニの眩しいくらいの照明はなんだか温かかった。缶ビールと、それから胡瓜や大根や茄子の漬け物のセットを買った。レジでは三五〇ミリリットルのアルミ缶とプラスチックのパックを、小さいビニール袋に上手く入れようと試行錯誤してくれている店員の手元を眺めていた。

 部屋に帰り、買ってきた物を座卓に放置してシャワーを浴びる。脱ぐとき、服に頭を潜らせながらまた煙草の臭いが染み付いたなと辟易した。職場で客が吹かす煙草には慣れても、部屋で嗅ぐ服に移った臭いは仕事ととして割り切れないのか別物だった。

 髪にタオルを巻いて出る。一度はつけた電気を消し、床に座り、缶ビールを開けた。缶も、コンビニのビニール袋も結露で濡れていた。一口飲む。初めて飲んだときはこれの何が旨いのかわからなかったが、今の僕の舌はビールを美味しいと感じられるようになっていた。ただ、普段飲まないようにしている酒を飲むとき、そこには味わおうという気持ちの余裕は残っていない。

 漬け物のプラのパック、これもまた缶ビールの滴をもらっていた。口を大きく広げて潰したビニールの内側でパックを開ける。開けてから、箸がないなと思う。漬け物にも爪楊枝は付いていなかった。立ち上がるのが億劫で、ビールを持っているのとは逆の手で、指で直接摘んで食べた。漬け物がなくなると膝を抱え、残りのぬるくなったビールをなるたけちびちびと飲んだ。

 台所で冷蔵庫のモーターが低く唸り、風呂場では天井か蛇口から落ちた水滴が床に落ちて跳ねた。外の道路をバイクが一台走っていく。遠くで緊急車両のサイレンが鳴っている。

 缶を揺らす。飲み口の縁に引っ掛かって出て来ないごく僅かなビールが底で音を立てる。

 つまらないな。

 ひとりごち、ベッドの横腹に凭れ掛かって目を閉じた。


 左手首でリストバンドが振動する。目蓋が重い。夜冷えで錆びついたような関節を曲げ動かして手を顔まで持ち上げて、指で目蓋を上下に引っ張って無理矢理開く。座卓にひしゃげたビニール袋とプラスチックのパックと空き缶があった。

 ビニール袋は中に溜まった水が零れないように、それらをまとめて持って台所に向かった。袋はシンクの上で一度ひっくり返してゴミ箱に。漬け物のパックは水で流し、空き缶は三度濯いで逆さまに持って振り、シンクの隅に置いた。

 うがいをし、顔を洗い、新しいタオルで覆う。タオルはごわごわとして硬く、柔軟剤の匂いはなかった。

 電気ケトルのスイッチを入れ、冷凍の食パンをトースターで解凍ついでに軽く焼く。昨日の朝の使ったままになっていたフライパンを洗い、火に掛けて水を飛ばす。沸騰したての熱湯で少し牛乳を加えたコーヒーを作る。トースターがチンと鳴る。コーヒーを一口啜る。思いの外まだ熱く、下唇の内側が火傷で爛れ、皮が浮いたようになった。フライパンに油を引き、卵をひとつ落とす。スプーンで割るまでもなく、落下の衝撃で黄身は割れた。食パンを上に乗せて手で軽く押さえる。熱した油の粒がその手に跳ねた。食パンの耳からはみ出して見える卵が焼けたらフライパンから引き上げる。焼けた卵の薄膜がフライパンに焦げ付いていた。ちゃんと手入れをしなかったからだ。齧る。味は素っ気なく塩胡椒を忘れていたと気付く。トーストの卵の面に塩胡椒を改めて振る。卵とパンの間ではなく、卵の上の塩胡椒は直接唇に触れ、痛かった。パンくずが落ちる。卵の焦げ付いたフライパンを水で浸す。水面に卵のくずと油が浮かんだ。

 歯を磨き、服を着替える。昨日脱いだ服と夜着を洗濯機に突っ込んで回す。パソコンにリストバンドを繋いで記録を同期させ、ウェブの天気予報を見る。昨日の予報で一日晴れだった今日の天気は、午後から強い雨のマークで濃い青色に染まっていた。洗濯が終わるまでは適当にブログを見て回り、止まった洗濯物を乾燥機に移す。乾燥機が使えないものはハンガーを通し、ラックに掛けた。

 肌寒く感じてパーカーに袖を通した。リストバンドが引っ掛かる。リストバンドに指で触れ、視線を手首から部屋に移す。

 この朝、僕は彼女がいない部屋を当たり前に受け入れられている自分に気付いた。この部屋のどこにも彼女の匂いはもう何一つ残っていなかった。そして次の瞬間、そういう自分がひどく憎たらしくなった。

 きっとこの先、僕はまた誰かを好きになるのだろう。そのときには彼女のことも、かつて彼女を好きだったという想いもすっかり忘れてしまって、あるいは思い出そうとしてもまるで別の誰かが昔日に抱いていた気持ちのようにしか思えないのだろう。まだ来ていないその日の自分の姿がありありと浮かび、それを否定しない自分がいた。

 僕は左の手首からリストバンドを外してパソコンデスクの上に置き、携帯電話を持って部屋を出た。

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― 新着の感想 ―
[一言] 何か引っかかるものを残した作品でした。表題の通り「彼女のいない部屋」が舞台のため、「彼女のいた部屋」も「彼女」も、さほど明確に書かれていない中で、ふっとこちらを掴んだのは次のフレーズでした。…
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