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ミリオンワールド!  作者: ユーリ・バリスキー
第四章 おもちゃ屋さん、はじめました!
37/177

#4―01 ただ今メンテナンス中・・(1)

 私立清藍(せいらん)女学園中等部の車寄せに、音もなく一台の高級車が停まり、一人の美しい少女が降り立った。


 すらりとした均整の取れたスタイル、少し鋭い意志の強そうな目元が印象的な恐ろしく整った顔立ち、長く伸ばした明るい金髪が真夏の強烈な日差しを受けて輝いている。そんなどこか現実離れした容姿は、部活動に励んでいた生徒たちの視線を自然に惹き寄せ、奇妙な静寂が周囲に広がっていく。しかしそれもほんの一瞬のことだった。


「キャー!」「清歌様~!!」「今日、部活があって良かった~!」「ホントね!」


 大騒ぎする後輩たちに微笑んで小さく手を振り、清歌は校舎の中へと入る。約束の時間にはまだ少しあるものの、下手に留まって騒ぎに巻き込まれてしまっては、いつ抜け出せるか分からなくなってしまう。


 来客用の昇降口から入り、多少暑さが和らぎホッと一息を吐く。まだ外では騒ぎが続いているようだが校舎内は静かで、遠くから吹奏楽部が練習する音が小さく聞こえてくるくらいだ。


 清藍女学園は長い歴史のある学校だが、校舎は最近建て替えられたものでまだ真新しい。ただ百櫻坂高校の近代的で機能的な校舎と比較すると、木材が多用されている温かみのあるデザインで、その辺りにもこの学校が穏やかな校風を大切にしていることが現れているようだ。


 ほんの半年前には生徒として通っていた場所に、高校の制服を着た自分がOGとして訪れていることが、なんだか少しくすぐったい。


「お久しぶりね、清歌さん。急なお願いをしてしまって、申し訳なかったわね」


 清歌に話しかけてきたのは、上品なスーツを着た恐らく五十代の女性だった。ほっそりとしたスタイルで背筋はしゃんと伸び、銀縁の眼鏡をかけている姿は、厳しくて優しい教育者そのものという印象を受ける。


「ご無沙汰しております、井上先生。……私が断れないのを知っていてそう仰るのは狡いですよ?」


 二人は会話をしながら歩き始める。彼女は清歌が在学時に学年主任をしていた教員で、海外を飛び回ってはいろいろやらかしていた清歌との――というか黛家とのパイプ役を務めていたのである。そういった事情から二人は個人的にも親しく、お互いの口調もかなり気安い。


「ふふ、そうね。あなた以外にも候補はいたのだけれど、今日来てくれる子たちのたっての希望だったのよ」


「その話は初耳ですよ。……ちょうど予定の空いている日だったから良かったのですけれど、もう少し早めに連絡を頂きたかったですね」


「あら、それは無理よ。トラブルが起きたのはつい先日だったのだもの」


 清歌の苦情にくすくすと笑いながら返事をする井上女史。清藍女学園だけでなく百櫻坂高校を合わせても、清歌をこんな風にあしらえる教師は彼女だけだ。清歌が常に放っているお嬢様オーラは、困ったことに大人であっても一般庶民にとってはある種の威圧感となってしまうのである


 井上女史がそうならないのは、あくまでも清歌のことを一生徒として平等に見ているから――ではなく、黛家と緊密なやり取りをしつつ清歌のことを守っているうちに、いつの間にか母親の様な気持ちになってしまったためである。また、清歌の方も守られていることは理解しているので、彼女に対しては頭が上がらないというのも理由になっている。


「それにしても、外はすごい騒ぎだったわね。おかげであなたが来たことがすぐにわかったわよ?」


「あれには私も驚きました。私はこの学園を去った身ですから、もう忘れられている頃かと思っていました」


「それは、まずないでしょうねぇ。今の二・三年生にとって、貴方たちの生徒会はまさにアイドルだったもの。もうここでの教員生活も長いけど、あれほどの人気を集めた年は過去になかったわ」


「……あら? 伝説と言われている瑞野先輩がいらしたのでは?」


 清歌の言葉に一つ頷いてから彼女は続ける。


「確かに瑞野さんも印象的な子でしたが、人気があったというのとは少し違いますね。彼女は言うなれば完璧な優等生でした。……ふふ、貴方たちとは違ってね? ですから確かに尊敬は集めていましたが、それは畏怖に近いものだったから、あんなふうに騒がれることはなかったわ」


 貴方たちとは違ってと言われて、清歌はちょっとわざとらしく肩を竦めて見せた。どうやら清歌は中学時代、仲間たちと一緒にあれこれやらかしていたようだ。


 実際、清藍学園中等部の先代生徒会は在校生から圧倒的な人気を集め、さながらアイドルという扱いだった。教師側からすると、日常的に生徒たちが大騒ぎするのには眉を顰めざるを得ない。しかし清歌を始めとした生徒会メンバーは、普段の生活態度自体に問題はないどころか基本的に優等生であり、彼女たちに憧れる生徒たちは自然とそれを真似るので、当時校内の風紀は非常に良好だったのである。


 賑やかな日常には問題を感じつつも、一概に責めることもできないというジレンマに、教師たちは日々頭を悩ませていたのであった。


 歩きながら近況報告などをしていると、ほどなくして目的の場所である多目的ホールに到着する。他の演奏者はもう少し後にここに来る予定で、その間に清歌はここに備え付けられているピアノのチェックに来たのだ。


 ほかの演奏メンバーは現在、別の場所で見学者相手に講演――というか茶話会のようなものに参加している。いくつかのグループに分かれて、お茶を片手に雑談するような軽い雰囲気で体験談などを語るのである。


 予定では茶話会が終わった後に合流し、見学者たちが施設の案内などを受けている間に、打ち合わせとリハーサルをすることになっている。他のメンバーはともかく、清歌にとっては殆どぶっつけ本番と言っていい、かなり無理のあるスケジュールで、苦情を言いたくなるのも当然と言うべきであろう。


 ちなみに清歌が茶話会の方に呼ばれていないのは、こちらでの作業があるという理由だけでなく、アイドル的人気を誇った清歌たちは初等部でも有名だったので、下手に引っ張り出しては大混乱になるという危惧があったためというのもあるのだ。


「井上先生、今さらのような気もしますけれど、本当に私でよろしかったのでしょうか?」


 軽く練習曲を弾きつつ尋ねる清歌に、井上女史は彼女の求める答えとは微妙に異なる言葉を返した。


「あの子たちが希望したことですから……ね。それにしても珍しいですね、あなたが謙遜するなんて」


 清歌は小さく首を横に振る。清歌としては後で余計なことを考えなくてもいいように、真意を確認しておきたいところである。


「もう……はぐらかさないで下さい。私が謙遜するような性格ではないと、よくご存知ではありませんか」


「ふふ、そうですね。貴方がその才能を揮う時、自分自身が納得できるかどうかにしか興味がないことも、……そうでなければ、楽しむことを何より優先することも良く知っていますよ」


 今日清歌が共に演奏をする他のOG――つまり招かれていた本来のメンバーは、若手のアーティストとして国内で名が知られてきている、清藍女学園出身の誇るべき卒業生たちである。


 在校していた時から知っている井上女史が思うに、彼女たちには才能があり、まだまだ伸びしろがあるはずだ。しかしながら、ある意味で非常に清藍女学園出身生らしい彼女たちは、基本的に性格が大人しく控えめであり、現在の立ち位置に既に満足してしまっている節がある。それが彼女たちをよく知る者にしてみると、どうにも歯痒く思うのだ。


 そんな時、清歌との共演を彼女たち自身が望んだので、これを機会に彼女たちの心に火が点けばと、井上女史はそう考えているのだ。


 演奏は続けたまま、清歌は一つ溜息を吐いた。


「予想はしていましたけれど、私はダシに使われるわけですね」


「そこは……そうですね、貴方の才能が前途ある若者を覚醒させる切っ掛けになるのです、とでも言っておきましょうか」


「あの……それは表現を変えたというだけでは?」


「使われると考えるより、能動的に誰かに影響を与えるのだと考える方が建設的です。なにしろ貴方がすることは変わらないのですから」


 確かにすること自体は何も変わらない。ただ、清歌が周囲に与えてきた影響は、何も良い方向ばかりではない。彼女の才能を目の当たりにして心がポッキリ折れてしまった者は、誇張無しで世界中に山ほどいるのだ。


 そんなことをいちいち気に留める清歌ではないが、それが全くの他人ならばともかく、同じ学園の卒業生で恩師の教え子という、微妙に無関係とも言い切れない相手ともなると、余り後味の悪い結果にはしたくないというのが正直なところだ。


「貴方が懸念していることも理解しています。……もし望んでいることとは違う結果になっても、フォローは私の方でしますから、貴方は何も気にせず自由にやってくれていいのですよ。……それよりもどうですか、ピアノの調子は?」


「承知しました。あ、ピアノの方は良好です。できれば私が在学中に、こうして頂きたかったですね~」


 先生が話題を変えたのに清歌も乗っかることにする。どんな結果になってもフォローしてくれるということならば、それ以上確認すべきことはない。


 この多目的ホールのピアノは、清歌が在学中に友人にせがまれて演奏する時によく使っていたものだ。今日の説明会に合わせてきちんと調律を行ったようで、かつて演奏した時と比較してすこぶる調子がいい。楽器そのものも国内メーカー製の中でも、割とグレードの高いものなのでちょっと気分が良くなってきてしまった。


「先生。少し本気で弾いてみてもよろしいでしょうか?」


 この多目的ホールは楽器演奏もできるように設計されているため、防音もある程度されている。そろそろ茶話会も終わるころだが、施設案内はここから離れた場所からなので多少大きな音を出しても問題はないだろう。


「ええ、構いませんよ。私も久しぶりに、貴方のピアノを聴きたいわ」


 許可を得た清歌はいったん瞳を閉じて深呼吸をする。頭の中を真っさらにして、意識を自分とピアノだけの世界にしてしまう。


 清歌が再び瞳を開けた瞬間、部屋の空気が変わる。ピンと張り詰めているのではなく、静かに凪いだ、どこか神聖さすら感じる空気は、いつのまにか神社や寺院にでも迷い込んてしまったかのように錯覚してしまうほどだ。


 井上女史は清歌のスイッチが入ったときに感じられる、この空気感が――否、空気を塗り替えてしまう程に圧倒的な存在感を放つ清歌自身が、とても好きだった。


 静かに、緩やかに、厳かな響きで曲が始まる。ピアノから溢れ出る音たちが、切なく胸に迫る。


 基本的に自由奔放に弾くことが好きな清歌は、しばしば勘違いされるのだが、クラシックを(真面目に)弾く時は楽譜に忠実であり、作曲者の意図を変に捻じ曲げたような演奏はしない。それは偉大な先人であるアーティストに対する、敬意の表れなのだろう。


 しかし同時に、一流と呼ばれる人たちがそうであるように清歌もまた、楽譜に忠実でありながら、彼女の音であると分かるだけの個性がある。


「これは……リストの詩的で宗教的な調べ……」


「孤独の中の神の祝福……」


「彼女が黛さん……。すごい……まだ高一なのに、こんな……」


 いつの間にかホールに来ていた他の演奏者たちが、呆然とした表情で清歌を見つめている。小さく呟くような言葉は意図したものではなく、思わず口から零れ落ちてしまったといった感じだ。


 黒いグランドピアノに向かう金の髪を持つ美少女が、真摯に音を紡ぐ様子は、まさしく曲のタイトルそのもののように三人の目に映っていた。


「ええ、彼女が黛清歌さんです。紹介は後にしましょう。本気の彼女の演奏を生で聴ける、貴重な機会ですからね」


 井上女史の言葉も耳に入らないようで、三人はただピアノの音にのみ集中していた。


 まだ一応二十代というこの三人は、一人だけ一学年下というほぼ同期の卒業生で、トラブルで今日は欠席となったピアニストも一つ上の代という顔見知りの間柄だ。この三人が揃っていた世代は、彼女たちの影響を受けた生徒たちで、音楽系統の部活動が非常に盛んだった。


 彼女たちは音楽の世界で活動していることもあり、黛清歌の名は一応知ってはいた。しかし清歌が活躍していた場が全て海外であり、また黛家のブロックで正確な情報が少なく、国内では音楽に携わる者たちの間でも都市伝説的に語られているのである。


 従って数々の逸話は話半分程度にしか受け止めておらず、彼女が清藍女学園中等部に在籍していたと小耳に挟んだため、割と軽い気持ちでピンチヒッターをお願いしたのだ。


 正直言って彼女たちは、十代前半という若さ――というか幼さで、しかも美少女であることから、数々の噂話は誇大に語られているのだろうと高を括っていたのだ。しかし、実際にその演奏を目の当たりにして、そんな侮りは微塵に砕け散ってしまった。


 ある意味、練習を始める前にこの演奏を聴けたのは僥倖だったのだろう。何の覚悟もなしに、練習を始めてからこの演奏を聴いてしまったらと思うと、背中に冷たい汗が流れてしまう。


 最後の音の余韻が消え、清歌の演奏が幕を閉じる。三人がホールに来てから十分弱の時間が経過していたが、集中していたためにあっという間に感じられた。幸せな時間であったが、惜しむらくは最初から聞けなかったことと、これから合わせる時間が必要――主に自分たち三人にとって――なのでもう一曲お願いすることもできないことである。


 四人の拍手に、清歌は演奏中に他の演奏者である三人が揃っていることに気づき、立ち上がってお辞儀をする。


「初めまして、黛清歌と申します。今日はどうぞよろしくお願いいたします」


 そう自己紹介をして微笑む清歌に、三人は妙な胸の高鳴りを覚えてしまう。――これはきっと、素晴らしい才能の持ち主と一緒に演奏できるという幸運に、心が高揚しているのだ。断じてヨコシマな想いを抱いてしまったというわけではない!




 ――結果として、この日の演奏会は大成功となる。それは清歌だけでなく、彼女の演奏に引っ張られる形で、他の三人もこれまでで最高と自負できる演奏ができたためだ。


 彼女たちはこの時を機に、アーティストとして一歩前に踏み出すことになる。躓いた時にはこの時の演奏を思い出し、勇気をもらうのだそうだ。――その度にドキドキと胸が高鳴るというのは、本当に貰っているモノが勇気なのだろうかという疑問もあるのだが、それはまた別の話である。







 聡一郎の住まいは百櫻坂高校から徒歩で三十分ほどの距離にある、主に学生を対象としているワンルームマンションだ。


 部屋の広さなどはごく平均的な1Kだが、良くあるユニットバスではなく、ちゃんとトイレと風呂が別になっているのが特徴である。のんびりゆっくり湯船に浸かるのが好きな聡一郎はそこを気に入り、少々学校から遠いにもかかわらずこの物件を迷わず選択していた。


 いつも通り朝早く起きた聡一郎は、早朝鍛錬メニューをこなした後シャワーで汗を流す。湯船に浸かるのは好きなのだが、基本的に長湯なので夜だけにしているのである。


 さっぱりしたところでパンにトマト丸一個プラス豆乳という軽い朝食を採り、本日の予定である掃除に取り掛かることにする。


 ここ最近はほぼ毎日<ミリオンワールド>にログインする為、起きている時間で考えるとほぼ半日は家を空けているので、洗濯はともかく掃除の方は少々滞りがちなのだ。


 几帳面――というよりも生真面目な性格な聡一郎としては、やるべきことをさぼっている様なこの状況が少々落ち着かない。なので、今日はまとめてやっつけて、気分をすっきりさせるのだ。


 まずは台所周りから始めて、風呂場へ移り、さらにトイレと徹底的に掃除をする。途中で洗濯物を干したりもしている内に、お昼が近くなっていた。


(朝は軽く済ませたから、腹が減ったな。さて、今日の昼は何にするか……む?)


 昼食は何にしようかと考えていたところ、玄関チャイムが鳴った。特に宅配便が届く予定もなく、一体誰だろうかとインターホンのカメラ画像を確認すると、果たしてそこには見知った顔があった。


「はいソーイチ、これは差し入れ。お昼ご飯まだでしょ? 一緒に食べましょ」


「……うむ、助かる。皿とお茶を用意するから、ちょっと待ってくれ」


 ドアを開けると、絵梨が目の前にビニール袋を掲げてから、さも当たり前のように部屋の中に入って来た。


 いくつか思うところはあるものの、昼食を調達に行く手間が省けたのはいいこと――のはずだ。分かりやすく食べ物に釣られた聡一郎は、あっさり状況をスルーして、取り皿と、二リットルペットボトルのお茶とコップなどを用意する。


「あ、チャーハンと麻婆豆腐もあるからスプーンも頂戴な」


「おう。分かった」


 さして広くもない部屋でも、学生の一人暮らしというだけで、そこは友人たちが良く遊びに来る場所になるものだ。聡一郎の部屋もちょくちょく悠司などが遊びに来るので、百円ショップで適当に買ってきた食器類がいつの間にやら複数揃っている。


 聡一郎が食器などをちゃぶ台に並べ、絵梨は差し入れの惣菜類を並べる。駅前の商店街にある中華料理店がテイクアウトで売っているもので、本日のラインナップはチャーハンに麻婆豆腐(辛くない物)、春巻、サラダ(中華風ドレッシング)と定番メニューだ。


 向かい合って座った二人は、「いただきます」と言ってから食べ始める。適当に点けたテレビの情報番組をBGMに、味の感想などを話しつつ食事をとる二人の様子は、和気藹々とした仲の良い友だちという感じではなく、かといってちょっとぎこちない感じにニヤニヤしたくなる高校生カップルというわけでもない。ごくごく自然であり、まるで家族の様な雰囲気だ。


 のんびりと雑談しつつ三十分あまり時間をかけた昼食を終える。聡一郎が食器を洗ってから、いざ掃除の続きに取り掛かろうとした頃には、絵梨は既に完全な読書の態勢に入っていた。


「絵梨、掃除に取り掛かりたいのだが……大丈夫なのか?」


「気にしないでいいわ。集中したら、何も気にならなくなるから……」


 微妙に言うセリフの内容が逆なのではという気もするが、ともかく掃除をしても問題ないらしい。またしても思うところについてはスルーして、聡一郎は午後の仕事に取り掛かった。


 ハンディモップで埃を払ってから、部屋の隅々まで掃除機をかけていく。途中で絵梨が邪魔にならないようにベッドの上やらキッチンの方へやら移動させつつ、聡一郎は黙々と作業を続けた。


 掃除が終わった後で聡一郎がコンビニでおやつ類を買って来て、絵梨とちゃぶ台を挟んでそれらをつまみつつ、ちょうどいい機会だからと読書感想文用に買っておいた本を読むことにした。


「あら、ソーイチは読書感想文それにしたの?」


「タイトルに引かれたのでこれにした。……何か問題があるのか」


「問題ってことはないけど……、それミステリーっぽいタイトルだけど、結構難解な文学よ? 大丈夫?」


「そうなのか。……う~む」


「他の本にするなら、家に何冊かあるから貸すわよ~」


「うむ、助かる。……が、せっかく買ったのだから読んでみよう。放り出すのは性に合わない」


「そ? もし断念したら、いつでも言って頂戴な」


「ああ。その時はお願いしよう」







 BGMがわりに点けっぱなしになっていたテレビの内容が、三つめの再放送刑事ドラマが終わってニュース番組になったところで、絵梨は顔を上げて外に目をやった。


 八月とはいえ日も傾いてきている。そろそろ女子高生が、一人暮らしの同級生男子の部屋に二人きりでいるのは問題のある時間かもしれない。――絵梨は我ながら白々しいことを考えているな、と内心でニヤリと笑った。言うまでもなく、二人きりでいる時点で時間などあまり関係ないのだ。


「さて、いい時間だし、そろそろ帰るわね」


「そうか。では送ろう」


 聡一郎が立ち上がり、給湯設備のタイマーを操作し始める。


「まだ外は明るいし、一人でも大丈夫よ?」


「うむ。かもしれんが、やはり送る。……ついでに帰りがけに、ちょっと体を動かそうと思うからちょうどいい」


「そう? じゃあお願いするわ」


 二人は部屋を出て、まだまだ暑さの残っている道を並んで歩き出した。


 少し雲の出てきた空に浮かぶ夏の太陽に絵梨は目を細める。二人の間に会話はないが、特に居心地が悪いということはない。自分はそう思っているが、聡一郎はどうなのだろうかとちらりと横目で見る。


(ま、基本的に無口だし、ソーイチの方から送るって言ってくれたしね)


 たとえついで(・・・)であっても、「送る」と言ってくれた時は素直に嬉しかった。思い出して、自分の心がちょっと浮かれてしまうのを感じる。


 絵梨は聡一郎に異性としての好意を抱いている。そしてそれを隠そうとは思っていないので、弥生や悠司は気が付いているはずだ。親しくなってからまだ日が浅い清歌も、あれで恋愛感情に疎いわけでもなさそうで、視線や気配に敏感なのだから既に気づいているだろう。


 では肝心の聡一郎本人はどうなのかというと、彼も恐らく――確信という程ではないにしても――気づいているように思える。そして聡一郎自身も、絵梨に対するスタンスは弥生や清歌に向けるものとはどこか違い、異性として気にしている節がある。


 だが割とあからさまに好意を示しつつも、絵梨は決定的な言葉を口にしたいとは、今はまだ思わない。


 こんな風に今の気持ちを再認識する度にそれはなぜだろうと考えると、いつも答えは同じで、結局告白してお付き合いを始めるということに、さほど魅力を感じていないということなのだろう。


 お付き合いを始めて、二人きりでデートをする。触れ合うことが増え、抱き合って、キスをして、さらにその先のことも――。そういうコトは確かに素敵なことのように思うし、こんな考えは良くないとは思いつつ単純な好奇心もある。


 無論、そうやって一歩踏み込んでしまって、グループの関係性が壊れてしまうのではないかという不安があるというのも理由の一つだ。しかし今の二人の関係でなければ経験できない感情が、まだたくさんあるような気がするのだ。それを知る前に慌てて踏み出すこともないと、絵梨は思うのである。


「ま、単に理屈っぽいってだけなんでしょ~ねぇ」


「ん? 何か言ったか?」


「ううん、なんでもないわ。ただの独り言」


 笑顔で返事をする絵梨。普段クールな彼女の笑顔はなかなかに魅力的だ。


「ねぇ、ソーイチ。手を繋ぎましょ?」


「手!? か……構わんが、突然どうしたんだ」


「いいからいいから」


 ちょっと慌てる聡一郎がおかしくて、絵梨は強引に手を繋いでしまう。このくそ暑いのに何を考えているのかと自分でも思うが、なんとなくそういう気分だったのだ。このくらいの触れ合いが、今の二人にはちょうどいい感じだ。


 きっとまだしばらく、二人の関係は今のままだろう。聡一郎が誰か他の子に告白でもされたらきっと慌てると思うが、それも含めて知らない自分を知っていければいいと思う。


(それより、もうちょっと露出を増やして、辛抱堪らなくなったソーイチに押し倒してもらおうかしら……なんてね~)


 などと不埒なことを考えつつ、意外と臆病な自分ではそれは無理でしょうね、と自身にツッコミを入れる絵梨であった。




清歌の演奏曲は他に、非常に演奏が難しいと言われる「マゼッパ」や、メロディーが有名な「ラ・カンパネラ」なども候補だったのですが……

清歌の容姿に合っていそうというところと、話の展開上ある程度尺のある曲である必要があったため「孤独の~」になりました。

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