夢小説(物理)
彼との話をしよう。
彼と出会ったのは、父の仕事の関係で隣町に引っ越した時の事。それまでは家族で出かける用事でもないとなかなかやってくる機会のなかった街並みが珍しくて、自転車であちこち見て回っていた時の事。
新居のすぐ近くに、一般住宅の一角を利用して営業しているケーキ屋があることを見つけた僕は、甘党だったこともあり、小銭の入った財布を握りしめて緊張と興奮を胸の内に忍ばせながら店のガラス戸を開けたのだった。
チリンチリンとドアベルが鳴る。少し薄暗い店内は狭く、畳二畳分あるかないかといったところ。一歩前に出るのすら難しいほどに窮屈な店内。三段に仕切られたショーケースの中には、ちらほらと商品が並んでいる。どれもキラキラと綺麗な見た目で美味しそうではあるけれど、学生の身であった当時の僕には、この小ささでこのお値段というのは少し手を伸ばしづらいなと感じてしまうのが本音だった。
後ろ髪引かれる思いではあるけれど、代わりにコンビニで何かデザートを買って帰ることにしよう、そう思って踵を返そうとした時、
「……いらっしゃい」
ショーケースの向こうの暖簾をかき上げ、彼が姿を現した。
今さっきまで寝ていたのだろう胡乱な瞳。微かに寝癖のついた後ろ髪を無造作に掻き、小さく欠伸を噛み殺している。そうして生唾を飲み込み、しなやかに上下するすべらかな喉仏。ラフなTシャツから覗く首元には、細く美しい鎖骨が存在を主張している。
「……? なんだよ、こっちのことずっと見て。注文するんじゃないの?」
黒真珠のごとき瞳を瞬かせ、少年は不思議そうにこちらを見つめてきた。……うん、予定変更。やっぱりここでケーキを買っていこう。少しでも多く彼と言葉を交わしたい。
「えっと、ここ初めて来るから、何かオススメのものとかないかなって思って」
「あぁ、そういうこと。どれでもいいんじゃない? 俺はそこまで変なもの作った覚えないし、特に嫌いなものとかなければ、どれ選んでも大して変わんないよ」
「え、君が作ったの? これ全部?」
素直に驚く。どれもとても綺麗な見た目だから、その道十年とかそういう熟練の人が作ったんだとばかり思っていたから。目の前の少年は、どれだけ童顔に見積もっても精々高校生が限界といったところ。自分の中の作り手のイメージとは、だいぶかけ離れていた。
「……そうだよ。悪い?」
地雷、踏んじゃったかな。途端に少年の表情が険しくなった。たぶんだけど、こんなガキの作ったものなんか安心して食べられない、何が入ってるか分かったもんじゃない、みたいなことを何度も言われてきたんだろうな。そういう、漫画に出てくる小悪党みたいな台詞を平気で口に出来てしまう人種が存在していることを実感として知っている程度には、僕も大人だった。
「あ、いや、そうではなくて……つまり、ここは君が経営してるお店ってこと?」
別に話を逸らしてる訳じゃない。さっきの発言を聞いて、確かにこの疑問も感じていた訳だから。
「いや、違う。はじめは父さんと母さんがやってたんだけど、最近は二人とも仲が悪くって……いや、何でもない。忘れろ」
「うん、まぁ、初対面の人間にする話じゃないよね、そういうの。誰かに話したい気持ちは分かるけど」
「あ? 初対面?」
何言ってんだ、こいつ?と、少年が目線で語りかけてくる。え、ウソ、もしかして初対面じゃないの、僕ら? 実はどこかで面識あったとか?
「あ、いや、ごめん。俺が一方的に知ってるだけだった」
どういうことだ?と、今度は僕が首をかしげる番。
「俺さ、中学の時、三年だけ五中だったんだよ、隣町の」
その言葉を聞いた瞬間、いやな汗がじわりとにじみ出したのを感じる。
「あ、そうなんだ。あはは……」
乾いた笑い。喉が干上がって舌が上手く回らなくなってくる。ドクドクと脈打つ心臓が、今にも口から飛び出してしまいそうだ。
「うん。でさ、結局馴染めなくてそっちでも不登校かましちゃったんだけど、そっちでは先客がいて。だから俺の方が一方的に知ってたって話なんだよ」
肌がぞわぞわする。あの教室であの空気を吸っていた人間と同じ空間にいると考えただけで目まいがしてくる。さっさと話を切り上げてここを出よう。そうしないと、また外に出られなくなる。
「そっちは一年ちょっとだろ? こっちはほぼ丸二年だからさ、俺の方が半年先輩なんだぜ? そう固くなるなよ。人間強度的に言ったら俺の方が格下じゃん」
壁に寄りかかり、実は同い年だったらしい少年がはにかむように笑う。
その笑みを見た瞬間、何故だかふっと全身から力が抜けた。ショルダーバッグのヒモをきつく握りしめ、狭い店内でへなへなと崩れ落ちる。図らずも額をすりつける形になったショーケースのガラスのひんやりとした感覚で、ゆっくりと気持ちが落ち着いていくのを感じる。
「んだよ、もー。びっくりしたなぁ。そこで倒れられると、俺、かなり大回りしないと介抱しに行けないんだからな?」
「あ、うん、ごめんなさい……」
「立てるか?」
ショーケースに両手をかけて立ち上がろうと踏ん張ってみるも、足に全然力が入らない。完全に腰が抜けてしまっているみたいだった。うぅ、恥ずかしい……穴があったら入りたい……。
「まぁ、丁度いいや」
その言葉に、は?と顔を上げるのと、彼の舌が僕の額をべろりと舐め上げるのは、ほぼ同時だった。……え? いや、え? 今、え、今、おでこ舐め……?
「俺さ、こういう奴だったからさ、皆から気持ち悪がられて爪弾きにされちゃってさ。でも風の噂で聞いたけど、お前もそんな感じだったらしいじゃん? だからさ、俺たち、仲良くできないかなと思って」
「ごめん、無理」
「即答かよ」
「うん。だって、今舐められたので不覚にもちょっと勃ってしまった。ので、そのままずぶずぶ深みにハマっていってしまいそうなのが怖いから、少し君とは距離を置いて接していきたい」
笑われそうな理由だけどわりと切実なのだ、これが。とりあえず腰が抜けた結果が前傾姿勢で良かった。これが尻もちだったら、初対面の相手に相当恥ずかしい姿を晒すところだった。
「ふくっ、くひひ……なんだそれ……初対面の相手に言うことかよ……」
腹いてー、と前かがみに身をよじらせる少年。目じりを拭っている仕草からして、どうやら笑いすぎで涙が出てきたみたい。……流石にそこまでの反応されると、こちらとしてもちょっとムッと来るところがあるぞ。
「……変な笑い方」
「あ、人が気にしていることを」
「仕返しだよ」
「なるほど納得」
しばしの沈黙。向こうは向こうで笑いの衝動を消化し終わり、こちらはこちらでまっすぐ立てる状態にまで復帰し、ようやく顔を合わせたばかりの時と同じ状態に戻る。
「まぁ、とりあえず、だ」
少年がショーケース越しに手を差し出してくる。
「これから「友達」としてよろしくな」
「……こちらこそ」
差し出された手を握る。それはとても柔らかくて、この繊細な指先からなら、確かにこんなに綺麗なケーキ達が生み出されるのも納得だと思った。
「ついでに何か買っていってくれよ。さっきはああ言ったけど、実は今日はガトーショコラがオススメなんだ。なんか上手く焼けた気がするから」
「じゃあ、それを二つ」
「二つ?」
「僕と君の分」
一瞬キョトンとしたあと、少年はパッと顔をほころばせた。
「オッケー! じゃあ店出てぐるっと回ってきてくれよ! その間に飲み物用意するから! コーヒー? 紅茶?」
「コーヒー。砂糖とミルクもつけてくれると嬉しいな」
「はいよー、了解」
千円札を渡し、釣りを受け取ると、僕は一旦店の外に出て、支持された通りに建物を回り込む。平日の真っ昼間からほんの数分前に知り合ったばかりの相手とお茶をするなんて、なんて非日常的なイベントなんだろうと心が浮き足立つ。
願わくば、これからも末永く「お友達」でいられますように。そんなことを考えながら、僕は彼の家のドアを開けた。