朝焼けの鐘が響く街で
僕の一日は日の出前から始まります。
近郊に国内でも有数の規模のダンジョンへの入口が存在し、絶えず多くの冒険者で賑わうこの街にも心地の良い静けさに満たされた時間がある事を、僕は知っているのです。
チチチチチ、とどこからか小鳥の鳴き声が聞こえてきて夜明けが近い事に気が付いた僕は、ベッドの上に仰向けで寝た状態のまますっと目を開きます。
「起きます」
そう口の中で呟き、一旦開いたばかりの目を閉じて軽く息を吐いた後、ゆっくりと体を起こして、すぐ横の窓から眼下に広がる街並みと遥か遠くで微かに色をにじませ始めた夜空を眺めます。いつも通りの時間に起きられたようなので、日の出まではまだもう少し時間があると判断しました。
「おはようございます」
今度ははっきりと口に出し、窓枠に留まった小鳥に小さく微笑んでから、身支度を整えるためにベッドから降りました。まずは洗顔です。それから歯を磨いて寝癖を直して着替えて朝ご飯の用意をして。日の出までまだ時間があるとはいえ、のんびりとしている余裕はありません。手早く準備を済ませなければ仕事に間に合わなくなってしまいます。
チェストの上に置かれた燭台に明かりを灯し、周りの部屋の人を起こしてしまわないように気をつけながらぎぃぎぃと軋む廊下を慎重に進んでいきます。壁に掛けられた様々な絵が蝋燭の仄かな光の中に浮かび上がる様は、この仕事を始めたばかりの頃はそれはもう怖くて怖くて仕方がないものでしたけれど、今ではもうすっかり慣れ切ってしまいました。
足音を忍ばせながら廊下の突き当たりにある洗面所に入ると、昨日女将さんと一緒に汲んできた水が瓶の中でなみなみと揺れていました。それを脇に置かれた桶の中に掬い取り、流しでばしゃばしゃと顔を洗います。ふんわりと柔らかな香りのするタオルで水気を拭い、ほうっと一息つくと、冷水に刺激されてようやく頭が働き始めたような気持ちになります。
次いでしっとりと濡れた手で髪の毛を撫でつけ、壁に掛けられた鏡で寝癖の様子を確認します。市場で時折見かけるような銀製の上等なものではなく、薄い金属の板を丹念に磨いただけのものなので細かいところまではよく見えませんが、僕は隣の部屋の人のように仕事に行く前に綺麗にお化粧をしたり、整髪剤で髪の毛の形を整えたりという事はしないので、特に気にしてはいません。
壁に備え付けられた戸棚から自分の歯ブラシを取り出し、新たに汲み直した水につけてごしごしと歯磨きを始めます。その間に隣の食堂を覗いて、連絡板に書かれた今日の朝ご飯を確認しました。
この宿屋さんは普段は注文形式なのですが、女将さんも旦那さんも寝起きが悪いので、朝だけは事前に女将さんが用意していた材料を使って自分でご飯の準備をするのです。と言っても、やはり朝ご飯は朝ご飯なのでそこまで手の込んだものがメニューに載る事は無く、料理があまり得意ではない僕でも問題なく用意出来る程度のものしか出てこないのが救いと言えます。
メニューの確認を終えた僕は歯磨きも終わりにして、着替えをする為に一旦部屋に戻りました。本当はこうして一度部屋に戻るという手間を省くために、最初か最後に着替えを済ませてしまえれば良いのにと常日頃から思っています。けれども起きたばかりの僕は力の加減がうまく出来なくて顔を洗う時にいつも襟元をびしょびしょにしてしまうし、朝ご飯はサンドイッチのようにして歩きながら食べるようにしないと時間が無くなってしまうので、どうしても途中に着替えを挟まないといけなくなってしまうのです。
なんて面倒なのでしょう、とため息をついたら、手の中で燭台の光がゆらりと揺れました。
輪切りにした茹で卵と薄切りのチーズを挟んだパンを頬張りながら、夜明け前の静かな街並みを歩いて行きます。立ち並ぶ家々の中で窓から明かりがもれてくるものは一つもなく、通りの街灯もとうに火種が尽きてしまっているので、辺りを照らすものは僕の持つ松明を除けば、今はまだ明々と夜空に輝いている月や無数の星々しかありません。一昨日が満月だったので、まだ十分月の明かりだけでも外を出歩けるくらいには光量があるのですが、やはり夜明け前にもなるとその光も薄らいでしまうので、念のため松明も持って行く事にしました。
馬車が難なくすれ違えるほどに広い大通りに自分以外の人の姿はなく、当然響く物音も延々と続く石畳を踏みしめる自分の靴音だけです。ふと立ち止まれば途端に朝特有の涼しげな静寂が満ち満ちていって、自分の呼吸の音さえもどこまでも響いていってしまうかのような錯覚に陥ります。
ともすれば神聖で不可侵なもののように思えるこの静けさですが、毎日経験し続けてきた今となってはその静けさの中にも、実は沢山の音が満ちている事に気が付きました。家々の間を吹き抜ける風の音、その風に枝葉を揺らす街路樹たちの微かなざわめき、遠くから聞こえてくる鳥たちの鳴き声。そして、時折手元から聞こえる、松明の上で火の爆ぜる小さな破裂音。しんとした静寂は、同時に、自然の息吹に満ちた喧騒でもありました。
立ち止まり、息をひそめてそれらの音に耳を傾けていたら、空を覆う黒い色がだいぶ薄くなってきてしまっている事に気が付きました。
これはいけません。急がないと夜が明けてしまいます。僕は大急ぎで朝ご飯の残りを喉の奥に流し込み、石畳に押し付けて火を消した松明を小脇に抱えて、目的の場所に向けて駆け出しました。その場所は小高い丘の上にあるので少し先から緩やかな上りが続いて行くのですが、間に合わないと大変なので仕方がありません。
はぁはぁと荒い息を吐きながら煉瓦造りの街並みを走り抜けていきます。緩やかに、かつ大きくS字を描く通りを抜けたところで、道の先に目的地である時計塔が立ち並ぶ家々の上からその頭を覗かせているのが見えました。あとはこの坂道を登れば良いだけなので、これならなんとか間に合いそうだと内心ほっと一息つきます。
そして、最後にして最大の傾斜を誇るこの坂道を無事に登りきるために、一旦坂の前の曲がり角で足を止め、軽く呼吸を整えます。口の中に溜まった唾を飲み込み、渇いた喉をほんの少し湿らせたところで再び足を動かし始めました。
この坂は傾斜がきつい分両側に並ぶ建物の高さも高く、昼間でも長い影の落ちている薄暗い道なのですが、この時間帯に来るとだいぶ暗さに慣れた目でも先が見えないほどの暗闇が、細い路地の中にたちこめていました。松明の火を消さなければ良かったと一瞬後悔しましたが、僕は何かを手に持ったまま長い距離を走れるほど器用ではないので、あれはやむを得ない事だったのだと無理矢理自分を納得させます。どうせこの坂を上ってしまえば松明の役割も終わりになるので、しばしの辛抱です。
などと考えているうちに何とか坂を上り切り、ばくばくと早鐘を打つ胸を押さえて目の前にそびえる時計塔を見上げます。この街全体を見下ろす位置にある時計塔の一番上、最新式のぜんまい仕掛けで動く文字盤よりも上の場所が、僕の仕事場です。
横を見れば西の空がほんのり赤く染まっていて、もう少しで朝日が顔を覗かせるというところでした。これなら塔を登り切ったあたりで日も昇りだしそうなので、身を切るような風の吹き荒ぶ塔の頂上で寒さに震えながら夜明けを待つ必要はなさそうです。そういった意味では、丁度良い頃合いに着けたとも言えるでしょう。
早速僕は腰に吊るしてあった鍵を使って一般の入口の脇にある小さな通用口を開け、塔の上へと続く梯子を登って行きます。塔自体はそれほど高くないので、五階建ての建物と同じくらいの高さまで登ったところですぐに鐘楼へと続く扉にまで辿り着きました。
梯子を登って来て疲れた腕には少し重く感じる金属製のその扉を押し開け、石造りの床の上に這い上がると、ひんやりとした感触が僕の頬や半袖から露出した腕を出迎えてくれました。
金属のものとはまた少し違った、独特なその感触を火照った体を押し当てて楽しんでいると、既に地平線の向こうから太陽が半分以上顔を出してしまっている事に気が付きました。
せっかくここまで頑張ってきたのに、こんなところで失敗する訳にはいきません。僕は慌てて体を起こし、ポケットから取り出した耳栓を嵌めて、目の前に垂れ下がっているロープを力の限りに引っ張りました。
すると、手を伸ばせば届きそうな位置に吊り下げられた巨大な鐘が、荘厳な音を響かせながら前後に大きく揺れました。
耳栓をしていても耳が痛くなるほどに大きなその鐘の音は、僕がロープを引く度に、眼下に広がる、朝焼けに染まる街並みへと溶けるように吸い込まれていきます。視界一面に広がる石造りの街の中に、いまだ夜の眠りの中にある街の中に、夜明けを告げる鐘の音は力強く、けれども揺り籠を揺らすように優しく広がって行きます。
きっかり十回ロープを力の限りに引っ張ったところで、僕の早朝の仕事は終わります。街の端から端まで轟いた鐘の音の余韻を肌で感じつつ、僕は一度大きく息を吐きました。それから瞳を閉じ、耳栓を外して、しばらくの間街が少しずつ眠りから覚めていく様子に耳を澄ませます。
自然の息吹の中に人間の営みが混ざり合っていくこの時間が僕は大好きで、だから同時に、この仕事も大好きなのです。毎朝の辛い早起きも、このわずかな時間の為ならば苦にもなりません。
今日も無事に、この街に新たな一日がやって来ました。