せめてこの青空に祈りの静寂を
この世界には明確に「果て」というものが存在する。誇り高き山脈、ロス・アルラスを越えた先、大いなるマグナ=シア大平原の向こうに「それ」はある。否、ロス・アルラスの麓から「それ」に至るまでの空白地帯をマグナ=シアと呼んでいるのだ。
断界の断崖、グラン=マグナ。
遥かなる断絶。世界の亀裂。審判の傷痕。など数々の異名を持つそこは、まさに「世界の果て」というに相応しい。地平線の彼方まで裂けた大地。肉眼では見えぬほど遠くにある対岸。底を窺い知る事叶わぬほどに深く、橋を架ける事も出来ぬ巨大な裂け谷。それがグラン=マグナである。
けれど、そのような圧倒的大自然を前にしても人々は「対岸」に思いを馳せる事をやめはしない。「対岸」を目指して谷底へと消える命知らずが後を絶たない。しかも、その数はここ十年ほどの間で急激に増加している。
事の発端は十数年前の事。苔生す大岩がまだ指先程度のさざれ石でしかなかったほどの昔、遥かな上代に断崖の向こうへと旅立ったとされるアルリオ神族が一柱、地母神アルレインが突如としてラシュガルドの都の上に現れたのである。
彼女は語った。「神の威光を冒涜したこの国には、遠からず主神アルグラハムの手によって審判が降されるでしょう」と。
しかし、その後にこうも言った。「もしも再びこの大陸に審判の光が降り注ぐ前に彼の断崖を越えるものが現れたら、そのものの罪は放免となり客人として神の国に迎え入れられ、天寿を全うするその日まであらん限りの祝福を受ける事が出来るでしょう」と。
幾星霜の時を生きる神々にとっての遠からずがいつのことかは分からない。数日後かもしれないし、数百年後かもしれない。いつ訪れるか分からないからこそ、王国に住む人々は断崖の向こうを目指した。いつしかそれは名声と結び付き、王国の外からも断崖踏破に挑むものが現れ始めた。
そして今日もまた、国外からやってきた新たな挑戦者がマグナ=シア大平原の土を踏む。
「よう、お嬢ちゃん。あんたも名声を欲してやって来たクチかい?」
たとえどんな理由であろうと少なくない数の人が集まり、それなりの日数を過ごすとなれば、そこには家が建ち、店が軒を連ね、街が出来上がる。住民の入れ替わりが激しいこの街も、そうして出来上がった。そんな活気だけしかないような街の入口に立つ人間に、真昼間から飲んだくれている中年の男が声をかける。
「は? なに、いきなり? 僕の顔見てお嬢ちゃん? どこら辺が? 僕のどこが女に見えるっていうの? おっさん昼間っから酒飲んでるせいで頭くるくるぱーになっちゃってるんじゃないの?」
襟足で無造作に切られたぼさぼさの赤茶けた髪。少し浮いたそばかすが目立つ白い肌。意思の強そうなはっきりとした目鼻立ち。体型の分かりにくい少しだぼついた服を着ているため、少女と言われればそう見えなくもない。けれども女扱いされる事に人一倍敏感なこの少年は、ここまでの旅の疲れもあって抑えが効かずに烈火の如き剣幕で怒り出す。
ここまで苛烈な反撃が飛んでくるとは思っていなかった男はしどろもどろになり、口の中でもごもごと謝罪の言葉を述べるとそそくさと立ち去って行ってしまう。
「なんだよ、まったく! あれが人に謝る態度か!」
「それを言うなら、お前の態度も通りすがりの人間に対するものじゃなかったけどな」
憤慨する少年の頭を、骨ばった手がこつりと殴った。
「そ、それは……その……」
自分よりも頭一個分背の高い青年に諭され、先程までの勢いもどこへやら、少年は穴のあいた風船のように急激に萎れていく。
「まぁ、いいや。俺は馬車を置ける場所探してくるから、お前はその間に空いてる宿屋探して記帳しといてくれ」
言うやいなや、青年は少年の返事も待たずに、少し離れた所に停めてあった四頭牽きの大型馬車へと駆け寄っていく。
気勢を削がれた少年は馬車がゆっくりと遠ざかっていくのを無言で見送り、尻のポケットからよれてくしゃくしゃになった帽子を取り出す。そして癖の強い髪を無理矢理押しこめるようにして目深に被ると、足元の小石を一つ蹴り、開拓地然とした雑踏ひしめく街の中へと歩き出した。
それから数時間後、首尾よく通常のものよりだいぶ大型な馬車を停められる場所を見つけ出してきた青年と合流し、少年は腹ごなしのために街に幾つかある酒場の一つに来ていた。数週間ぶりにまともな料理にありつき、だいぶ凝り固まった心のほぐれた少年は、ふと思い出したように騒々しい店内に視線を彷徨わせる。
「さっきのおじさんでも探してるのか?」
青年に問われ、少年の肩が跳ねる。図星か。そうごちると青年はよく冷えた麦酒をあおり、一言。
「そんな若造にはまだこいつは飲ませらんねえなあ」
「べ、別に飲めなくったって平気だし。むしろ手元が狂わずに済むから酒とか要らない」
「ははは、そんな見え見えの負け惜しみは言わない方がいいぞ。頭撫でたくなる」
「意味分かんない」
もそもそとジャガイモのフリッターを頬張り、ぷいとそっぽを向く少年。その頬には僅かに朱がさしており、髪の毛を掻きしだくように頭を撫でられても内心では満更ではない事がうかがえる。素直ではない少年の反応が何ともいじらしく、青年は大きく麦酒をあおった。
「……ところでさ、いつやるの?」
ともすれば周囲の喧騒に飲み込まれて聞き逃してしまいそうな声量。さりげなさを装って切り出された本題に、青年は手にしていたジョッキをテーブルの上にそっと置く。
「お館様のところから馬車盗んできてる手前、出来るだけ早くやりたいってのが本音なんだが、山越えの間は細かい調整とか出来てなかったし今日明日中にってのは無理だろ?」
半分以上中身の減ったジョッキの結露をすくい、濡れた指の腹でふちをなぞる。視線はジョッキに反射する自分の顔へ。少年へは向けない。
「行けると、いいよな」
「そうだね。たとえ行けなかったとしても、僕は兄さんと一緒なら――」
「それ以上は言うな。……頼むから言わないでくれ。俺に、最後まで兄貴面させてくれよ」
それきり沈黙する二人とは対照に、明日の名声を夢見る命知らずで溢れ返った酒場は盛況を極めていった。
グラン=マグナに挑む方法は大きく分けて二つある。
一つ目はいつ到達するとも分からぬ谷底を目指して地道に崖を下っていく事。
ほぼ垂直に切り立った崖は足場となる凹凸にも乏しく、一瞬の気の緩みが即命の危機につながる。それでも道具さえ揃えれば誰にでも可能な手段であり、なおかつきちんとハーケンを打ちこんでおけば着実に成果を得られるものであるため、こちらを選ぶものが挑戦者の大多数を占める。
そして二つ目は、空をゆく事。
魔法、人力、動力機関。何に頼るかは問わず、見えざる重力の手に抗って直線的に大断崖を越えようとする事。初めの頃はこの手段を用いればすぐにでも対岸へ到達する事が可能なのではないかと言われていたが、何故か未だに一つ目の方法と同じく成功者は一人も現れていない。それは冥府を治める無慈悲なる霊神アルゾォイが谷底から手を伸ばして挑戦者を引きずり落とすからだとも、翼あるものを憎む武神アルバシュログが自慢の槍で彼らの「翼」を撃破するからだとも言われている。しかし、真偽のほどは誰にも分からない。
少年と青年が選んだ挑戦方法は後者。王国の東にあるラクマヌーン大砂漠を越えてやってきた彼ら二人には、とある事情から長期の挑戦をするだけの猶予が無い。それに加えて彼らの出身地では魔法と機械とを融合させる研究が盛んだったことが、少年達に後者の方法を選ばせたのだった。
街に到着してから五日後の朝、まだ日も満足に昇らぬ朝靄の中を二人は出来るだけ静かに馬車を走らせ、グラン=マグナのふちへとやってきた。
「流石にまだこの時間じゃ他に誰もいないか」
周囲を見回した青年はそれが喜ばしい事であるというように安堵のため息をつき、馬達の足を止める。その衝撃で目が覚めたのか、荷台で毛布にくるまり丸まっていた少年が青年の背中に言葉を投げる。
「兄貴、おはよう……ふぁ」
寝ぼけ眼を擦る少年を見やり、青年は唇を引き結ぶ。毛布の隙間から覗く、普段は極力肌の露出を控えているため人目にはつかずにいる骨の浮き出た身体。彼らの故郷ではとうに一人前の男として扱われているはずの年齢なのにいまだ少女に間違われる事もある未成熟な身体。
工場で働く下女の息子として生まれた少年は機械いじり以外の楽しみを知らず、けれどもまっとうな人間なら一生知らずに済むであろう下衆な愉悦は骨の髄にまで刻み込まれてしまっている。
「あぁ、おはよう。昨日は夜遅くまで調整やらせちまって悪かったな」
知らず握り締めていた拳をほどき、青年は無理矢理かさついた唇で弧の形を作った。
「別に、平気。兄貴も体調は問題なし? 二日酔いで操縦桿握る手がすべったとかやめてよね」
緩慢な動作で少年は着古した服を身につける。軽口を叩けるだけの元気があるなら大丈夫だと、青年は視線を少年から大いなる大断崖へと移す。
この五日間少年が調整を施している間何度となく見に来ていた光景ではあるが、何度見ても身のすく思いがする光景である。何の変哲もない大平原が突如として終わり、一歩先には陽の光も届かぬほどに深く昏い大地の裂け目が横たわっている。
生命育む平原と無明の谷。相反する二つが平然と隣り合っている様は、まるで母が病に倒れ、そのまま眠るように帰らぬ人となったあの日のようだと青年は思う。思うが、少年の手前決してそれを口にはしない。
見ればいつの間にか少年も身支度を終えたようで、今は一人せっせと馬車の幌を外す作業に移っていた。
取り払われた幌の下から現れたのは、青年が領主の経営する工場から奪ってきた最新式の飛行機。魔力を糧としてエンジンを動かし、それまでの飛行限界を遥かに上回る長距離を飛ぶ事が出来ると言われている代物だ。現在は馬車の中に隠しておくために両翼が取り外されているが、それさえつけてしまえばいつでも飛び立てる。
下働きの隙を見て読みかじった魔学書から得た知識で、この日のために青年は、毎日自分が持っているありったけの魔力をこれの動力部に注いできた。その結果、この機体が謳い文句通りの性能を誇るなら、グラン=マグナを制覇してもまだ余るだけの燃料が貯蔵されているはずだ。
日が十分に昇り他の挑戦者達がやってきてしまう前に、どのような結果になるとしても極力人の目に触れぬように、二人は手早く機体に両翼を取り付け、荷台から降ろし、操縦席に乗り込む。翼が無い時は横に寝かせた卵のような不格好さをしていたが、設計図通りの姿となった今ではどこからどう見ても紛う事なき「飛行機」である。
炉に火が入り、機体全体を振動させながらエンジンの回転数が上がっていく。と同時に機体前部に取り付けられたプロペラも高速で回り始め、ついに準備が完了した。
「じゃ、行くか」
「うん」
短く、簡潔に交わされる言葉。二人の間にそれ以上の言葉は必要ない。
複座になっている操縦席で、ゴーグルをつけた青年がペダルを踏み込み、しばしの間を置いてゆっくりと操縦桿を引く。加速のついた飛行機は地を離れ、寄る辺ない断界の断崖へと飛び立った。
すぐに大いなるマグナ=シア大平原は視界の彼方に消え去り、目に入るものは天の青と谷底の黒のみになる。その様はまさしく昼と夜とが同時に存在しているかのよう。果たして自分達は昼の光の中を飛んでいるのか、それとも夜の闇の中を飛んでいるのか。それすらも判断が付かなくなるほどの驚異的な光景。これを神の御業と言わずして何と言うのか。
昼と夜との境を確かめようと視線が脇にそれてしまいそうになるのを懸命にこらえ、青年はひたすらに前を見据える。
そうしてどれほどの時間が過ぎただろうか、ふと前方に黒と青以外の色が現れた。最初は見間違いかと思ったが、それはすぐにはっきりと見て取れるほどの太さの帯となる。
対岸だ。青年はそう直感した。歓声が喉を込み上げて来る。けれどもそれを必死に押し殺し、はやる気持ちを鎮める。ここで焦ってへまをしてしまっては元も子もないのである。
「よく頑張りましたね、人の子よ」
だがしかし、そんな青年の気持ちを吹き消すように、甘く優しい声が耳朶を叩いた。
「けれど、そんな頑張りに意味などないのです。我らが穢らわしき人間などを迎え入れるはずが無いでしょう」
閃光。衝撃。刹那視界が暗転する。
何が起こったのか青年には理解出来なかった。しかし、それまでずっと両手に感じていた操縦桿の重みが突如として消えた事だけは分かった。
そして、それを知覚した瞬間、青年は振り返り、背後にいるはずの少年へと手を伸ばす。果たしてその手が少年の元へと届いたのか。それは誰も知らない。次の瞬間には飛行機は前方から飛んできた槍の第二撃を受け、跡形もなく爆散してしまったのだから。
姿の見えぬ声はそれを確認すると、満足げに喉を鳴らす。
「突然身に覚えのない罪を一方的に告げられたにもかかわらず、それを免ずる手段があると知れば自らの行いを省みる事もせず我先にと挑み始める。人間とはなんと愚かで愛らしいものなのでしょうね。ですが、いかなる理由があろうとも、我らの決定から逃れようとする事は我らを冒涜すると同じ事。そのような不埒な輩は即座に審判を降されても仕方が無いと言えるでしょう? そうは思いませんか?」
心を溶かす甘い声。しかし、その実残酷なまでの冷たさを秘めた声。その声が放つ問いに応えられるものはこの大空のどこにもいはしなかった。
そして再び、遥かなる蒼穹は静寂を取り戻す。今日もまた、この断崖を踏破するものは現れない。