「かつて月の光は青かった」と彼女は言った
少年の立っている場所は廃墟だった。
かつては荘厳な空気を漂わせる立派な建物だったのだろうが、長い時の過ぎ去った今ではその大部分が崩れ去り、僅かに残った礎も雨風にさらされ、見る影もなくなっていた。往年の栄華を感じる事の出来る物は、僅かに残るくすんだステンドグラスの欠片のみ。瓦礫の間を吹き抜ける風は、荒れ果てた荒涼の大地にしがみつくように残るこの建物を地面から引き剥がそうとするかのように力強く、そして鋭く冷えていた。
しかし、身を切るような風にも少年の表情は揺らぐ事無く、その灰色の瞳はただ茫洋と廃墟の先に広がる荒野を見つめていた。肩口ほどで無造作に切り落とされた銀色の髪を靡かせ、少年は地平線の彼方を見つめ続ける。
天高く輝いていた太陽がその姿を地平線の向こうに半分ほど隠し、見渡す限り岩と砂に覆われた世界が活力に満ちた赤い光に包まれた頃、それまで身じろぎ一つしなかった少年がようやく崩れた石の壁から手を離し、注がれる光に背を向けた。そして、ずっと足元に置かれていた抱えるほどの大きさの鉄錆びた長方形の物体を背中に背負う。すると、どこからともなくどこか無機物じみた声が廃墟の中に響いた。
「ここに留まって今日でもう三日。どうやらこの周辺にも誰も住んではいないみたいね。あなたが私と旅を始めて以来の一番大きな文明の跡地だったから、もしかしたらって期待していたのだけれど……」
その声は少年の背中の物体から聞こえてきていた。かつて少年が立ち寄った場所で、朽ち果てた瓦礫の下から見つけ出された「それ」は、遠い昔、この世界にまだ人間が満ち溢れていた時代に作り出された「機械」というものだった。
「でもまぁ、ここは人が長く住むには向かない環境ではあったから、これだけ大きな遺跡が残っているのに誰もここを根城にしていないというのも仕方のない事かもしれないわね」
二百年前に起きた大規模な地殻変動により、世界は大きくその姿を変えた。山は沈み、海は干上がり、大勢の人間や動物達が死んだ。そんな中、幸か不幸か屋内に安置されていた彼女は建物が崩れた際僅かに開いた瓦礫の隙間に転がり落ち、その時の衝撃で電源が切れた状態のまま少年に発見されるまで静かに眠っていたのだった。
初めは喋る道具というものに対して警戒心をあらわにしていた少年だったが、彼女の巧みな話術と豊富な知識、そして一緒に過酷な環境下を旅してきた連帯感から今ではすっかり彼女に心を開いている。
「ほら、だからそんな風に落ち込まないで。貴方が相槌を打ってくれないとどんなに楽しい事についてお話をしていても、面白くないのよ。貴方だって私の話をもっとたくさん聞きたいでしょう?」
背中に背負った彼女からの問いかけに、少年が無言で頷く。それを備え付けのカメラで確認した彼女は、無機質であるのにどこか楽しげな声色で言葉を続けた。
「じゃあ、気を取り直して先に進みましょう。元気を出してきりきり歩かないと、また今日の夕食もサソリやトカゲになってしまうわよ?」
それは嫌だと言わんばかりに少年の歩く速度が速まる。規則正しい振動をその身に感じながら、彼女は自身の内蔵メモリに記録されたかつての地形図とカメラから取り込んだ現在の周囲の地形の様子とを比較して、次の目的地とそこに至るまでのおそらく安全であろうルートを割り出していく。
「次の場所では会えると良いわね、貴方の探している少女に」
廃墟を後にし、地平線の彼方まで続く荒野をしばらくの間歩いたところで、不意に彼女が言葉を発した。少年はそれに対し何の反応もせず、ただ無言のまま歩を進めていく。少年の顔は彼女の位置からでは死角になっていてカメラでとらえる事は出来ないが、それでも彼女には少年が口元に小さく笑みを浮かべているだろう事が容易く予想出来た。
揺れる月光の下で楽しげに歌を歌っていた少女に再び会うため、この冷たく静かな世界で確かな温もりを感じるため、少年と彼女は荒涼たる大地に小さな足跡を刻んでいく。その足跡が二つに増える、その日まで。