呻くエレベーター
会社の四号エレベーターには……出るらしい。
実際に四号エレベーターに乗ってみれば分かるが、人気のない区域に設置されたエレベーターである。あまり使われることもなく、古びて汚れたエレベーターであった。
昼間でさえ、何か、普通のエレベーターとは違う、異質な気配を感じてしまう。
OLたちの噂によると、この四号エレベーターは、夜になると無念の呻きを上げるらしい。エレベーターに乗っている人間が、冥界からこだまする呻き聞くと、正気を失い、その魂は永遠にエレベーターの中に捕らわれてしまうのだ。
くだらない。
堅実な村田課長は、常々思っていた。
職場に幼稚な怪談が流れて、社員のモチベーションが下がるのは許せなかった。
呻くエレベーター? おおかた、整備不良でエレベーターが軋むのを聞き間違えたのだろう。
村田は真相究明のため、自ら乗り出すことに決めた。
退社時間後、一人で四号エレベーターへ向かった。
この時刻となると、昼間の騒がしさが嘘のように消え、会社のビルはしんと静まりかえっている。村田の足音がくぐもった響きをたてるばかりだ。
いわば、別世界であった。村田といえども、多少は落ち着かない気分になってくる。
……守衛室で寝ている守衛でも連れてくるべきだったか?
バカバカしい。
臆病さをさらけ出して、笑われては堪らない。
村田は気を奮い起こして、がむしゃらに足を進めた。
四号エレベーターのエレベーターホールに立つ。
村田は、錆の浮き出たエレベーターの扉を睨んだ。
「……何も起きないではないか」
村田は言った。
何が怖いものか。村田はズンズン進んで、エレベーターを呼び出すボタンに手を伸ばす。
その瞬間、ジッと音をたてて、頭上の蛍光灯が明滅した。
「む」
村田は仏頂面で蛍光灯を睨む。蛍光灯は、何事もなかったように光を発していた。
何だ?
何かの警告だというのだろうか?
バカバカしい。蛍光灯が点滅しただけだ。昔の銀座線ではよくあったことだ。
村田は、えいやっ、とボタンを押した。ボタンが灯る。エレベーターの扉の上の表示板が、下降中のエレベーターを表示した。
村田は耳を澄ます。
何かの呻きは聞こえてこないか?
「……何も聞こえぬ」
エレベーターは音もなく下降してきた。死人の呻きなど聞こえない。エレベーターのワイヤーがたてる軋みすらなかった。
そもそも、死人の呻きなんてものより、整備不良のエレベーターがたてる軋みの方が余程恐ろしいではないか。村田は思う。
建物管理会社の説明によれば、これは国産のエレベーターらしいが、果たしてどこまで信用していいのか分からない。
チーン。
鐘が鳴って、エレベーターの扉が開いた。
エレベーターのカゴは空っぽだった。
何も出てこない。おどろおどろしいゾンビなし。髪を顔に垂らした不気味な少女の霊なし。
「つまらん」
村田はエレベーターのカゴに乗り込んだ。それでも、何も起こらない。
村田は最上階のボタンを押して、扉を閉めた。エレベーターのカゴは上昇を始める。
ガタつくこともない。普通のエレベーターである。
待つことしばらく、カゴは真っ暗な最上階に着いた。
当然だが、何の怪奇現象もなかった。
村田は、一階のボタンを押した。
「実につまらん」
村田は吐き捨てた。
くだらない怪談につきあって、一晩を無駄にしてしまった。さっさと帰って、ビール枝豆ナイターのお楽しみといこう。
エレベーターが一階に着くまで、手持ちぶさたで辺りを見回す。
それにしても、汚いエレベーターであった。滅多に使われないし、来客が乗ることも想定していないのだろう。
エレベーターのカゴの壁面はひっかき傷だらけだ。落書きまである。何という風紀の乱れた。うちは、二場上場している優良企業だというのに。
あるいは、機器を搬入している業者がエレベーターを綺麗に使わないのかもしれない。
何にせよ、けしからんことだった。明日の朝会の訓辞で言うことは決まった。
ふと、村田はエレベーターの扉に書かれた落書きに目を吸い寄せられた。
『右を見ろ』
「右?」
村田は呟く。
その瞬間、蛍光灯が明滅した。
まただ。またしても明かりが明滅する。
いったい、何なのだ。
と、村田は息が苦しいことに気づく。何か、プレッシャーを感じる。イヤな感じの汗が背中を伝っているのが分かる。
明かりの明滅する小空間の中、村田は立ちすくんでいた。
この苦しさ……いったい、何だ?
村田は、自分が閉所恐怖症であることを認識した。
長年、理性でもって押さえこんできて気づかなかったが、急速で下降する小さな箱に閉じこめられることに原始的な恐怖を抱いている。
村田の口の中はカラカラに乾いていた。
「くそ……何で、エレベーターの怪談なんて調査しようと思ったのだ……」
村田は後悔した。
エレベーターから降りたい。今すぐ。
『右を見ろ』
落書きは自分に向けて書かれたものに違いない。
村田は右を見たくなかった。
だが、エレベーターの制御パネルは扉の右側にしかないので、エレベーターを止めて降りるには右の方を見るしかないのだ。
やむを得ない。
村田はいやいや、目だけ動かして、右の方をちらりと見た。
右の壁にも落書きがあった。
『上を見ろ』
「上?」
村田は唸る。
「何で、上など見なきゃならん?」
感じるプレッシャーはいよいよ耐え難かった。胸が締め付けられるようで、息ができない。
上など、見るものか!
村田はそろり、と制御パネルへと手を伸ばした。今すぐ、ここから出たかった。
エレベーターのカゴが通過中の階のボタンを押して、エレベーターを止めるのだ。
だが、村田は気づく。
エレベーターが何階を通過中なのかを表示するパネルは、エレベーターの扉の上にある。
エレベーターを止めるには、上を見るしかないのだ。
上を見たくない! だが、今すぐエレベーターから降りたい!
村田の目は眩み、脂汗が顎先から滴った。
よし、上を向こう。村田は決めた。
上に何がいても、驚きは一瞬だろう。自分は、上を向くぞ。何を恐れることがあろうか?
「それっ!」
村田は勢いよく上を向く。
それがよくなかった。
村田の全身の筋肉は、緊張とストレスで著しく固縮していた。加えて、日頃の運動不足で関節の可動域は減少していた。
勢いよく上を向く動作で、腰部の筋肉群はあっさりと破綻した。
「ぐあああ!」
村田は激痛に叫んだ。床に倒れ、もがき苦しむ。
急性腰部筋群複合損傷。経験したことのない痛みであった、体の中に焼け火箸を突っ込まれ、かき回されているような痛みだ。
あまりの痛みに、呼吸がままならない。損傷は呼吸筋にまで及んでいる。
「うがああ!」
四肢が激しく痙攣して、動けなかった。
それでも、どうにかポケットから携帯を取り出す。
119番!
だが、電話は通じない。
「うごああ!」
何故だ!?
携帯が通じないなんて、ありえない!
村田が仰向けに倒れたおかげで、天井に書かれた落書きが目に飛び込んでくる。
『これは、ペースメーカーが装着されている方にも安心してお使いいただける、電磁波遮蔽型エレベーターです』
村田は愕然とした。ここでは、携帯は使えないのだ。
チーン。
鐘の音がした。エレベーターが一階に到着したのだ。
「ぬぐああああ!」
村田は何とかエレベーターから脱しようともがく。だが、体はでたらめに痙攣するばかりで、全く意のままにならなかった。
すでに、痙攣が横隔膜や気道にまで広がって、呼吸ができなくなっていた。
「ぎぐあああああ!」
村田は青紫色に変色した鬼のような形相でもがく。
だが、エレベーターの扉が滑らかに閉じてくる。そして、慈悲もなく、閉まりきってしまう。
四号エレベーター。
誰も使うことのない、この古びたエレベーターは、夜になると無念の呻きを上げるらしい。それは、エレベーターの中で苦痛の死を遂げた男が、今なお上げる呻きだという。
そして、エレベーターのカゴの床には、今でも白骨死体が転がるという。