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μ  作者: ミナ
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03

息が、止まるかと思った。

美憂のことを知らされていなかったと思われる西條が、なぜ美憂の名前を呼ぶのか。

その偶然に、心臓を鷲掴みされた気になったのだ。

西條が先住のペットたちの名前を呼んだ瞬間、それが単にギリシャ文字で、美憂の名前を呼んだわけでは無いと嫌でも気付かされたが。

それでも、かなり近い発音だ。

美憂は微妙に嬉しくなってしまった。

たかが名前、されど名前だ。

だがそんな浮かれ気分を簡単に払拭してしまう現実が、すぐ後に迫っていた。


「Sit.(お座り)」

呼ばれてきたタウとシータは、美憂の横で即座に西條のコマンドに従った。

お利口さんだな、などと呑気に見ていた美憂だったが、自分に向けられている西條の視線にはっとする。

まさかとは思うが、自分もこのコマンドの対象なのか?

視線に気圧されるように、無意識に左手が喉元の首輪に伸びる。

美憂のその動きを見て、西條の口元が、微かに笑ったような気がした。

「…Sit.」

もう一度、ゆっくりと、言い聞かせるように、美憂と目を合わせて。

これはもう、逆らえる気がしない。

しかしお座りと言われても、まさか本当に犬や猫と同じ姿勢では座れない。

やろうと思えばできなくもなさそうだが、最近仕事ばかりで運動不足な美憂にとっては、拷問だろう。

一瞬考えた後、美憂は床に正座した。

これでどうだ!という意味も込めて西條の目を見てみたが、大して反応が無い。

多少面白がって首輪を嵌めた割に、反応が薄いというのは、どういうことだ。

だいたい、コマンドに従ったら、褒めるのが基本だろう。

と、少しばかりむっとしていたら、また次のコマンドが出された。

「Stand.(立て)」

今度は、二度言わせてなるものか。

そんな変な対抗心で、美憂は慌てて立ち上がった。

「タウ、シータ、Good.(よし)」

美憂の名前は、呼ばれない。

西條はしゃがんで両手で、コマンドに従ったタウとシータのそれぞれを撫でていた。

「え…」

立ち上がったのに、と思わず出てしまった不満の声に、西條が目線を上げた。

まずい、と思ったが、それでも不服の表情は抜けない。

「…よく見てな」

西條に言われて、そのまま見ていると、西條はタウとシータに同じコマンドを繰り返した。

すなわち、お座りと立て、お座りと立て、その繰り返し。

何度か繰り返した後、西條が美憂を見遣る。

そして、タウとシータに視線を戻すと、何度も二匹を褒めた。

「Yes, good. Good girl. Good boy.(よしよし)」

ちなみに、タウがメスでシータがオスだ。

褒められている二匹を見ていると、どうしてかいてもたってもいられない気分になった。

こんな扱いなのに、犬相手の褒め言葉が妬ましい。

つまるところ、ただ単純に、美憂も褒められたかった。


先ほどは、立ち上がったけれど認められなかった。

反応としては合っていたはずだが、どこが違っていたのだろうか。

タウとシータと、美憂の違い。

しばらくじっと二匹を見つめて、それに気付いた瞬間、美憂はうろたえた。

窺うように西條を見て、その表情から自分の予想が正解だと悟った美憂は、思わず生唾を飲み込む。

美憂が理解したことが伝わったらしい西條が、タウとシータに声をかけた。

「タウ、シータ、Wait.(待て)」

タウは伏せをして、シータはお座りをして、思い思いの体勢でその場で待っている。

その姿を確認すると、西條は美憂にもう一度視線を向けた。

「ミュー、Sit.」

正座をする。

先ほども何も言われなかったから、これはこれで正解。

「…Stand.」

ぎゅっと目を瞑り、覚悟を決める。

手を少し前方に付き、正座の姿勢から膝の位置をそのままにお尻だけ上げる。

いわゆる、四つん這い。

目の前に見えるのは、西條の脚だけだ。

これはちょっと、いやかなり、恥ずかしいものがある。

それほどプライドが高いつもりは無かったが、それでも人並みの自尊心が妙に傷ついた気がする。

じっと西條の膝のあたりを見ていたら、西條がしゃがんだ。

美憂の顔を正面から見て、それから、頭を軽く撫でられ、そして頬まで指が滑る。

「Yes, good girl.」

その表情は、今までに見た西條のどの表情からも想像できないくらい、甘いものだった。

その声と、触れた指先から、とろりとした何かが流れ込んできたような気がした。

自尊心なんて、無かったのかもしれない。

その時は、ばかみたいにただ、褒められて嬉しい、としか思えなかった。


羞恥心は後からやってくる。

それを自覚すると、舞い上がった気持ちは、すぐにしゅんと消えた。

褒められたのは当然美憂自身ではなく、美憂の服従の姿勢なのだ。

しかも、今ので美憂は西條の完全なるペットである、という共通の認識が出来上がってしまった。

西條の悪戯めいた挑戦に乗ってしまった美憂が悪いのだが、切ない。

美憂の少し前にあるタウとシータのふりふりするお尻としっぽが、切なさをさらに深くする。

只今、廊下を移動中。

コマンドは「Heel」だ。

つまり、西條の左側に寄り添って歩くこと。

なのだが、なんせ四足歩行など初めてのことだ、もたもたしてしまってスピードが出ない。

「ミュー、遅い」

「…っ」

目的地に着いた西條に、振り返ってしかたなさそうにため息をつかれ、美憂の頬に赤みが差した。

タウとシータまで振り返って、覚え悪いなお前、みたいなどことなく哀れみの入った目で見られている気がする。

美憂は今、この西條の家における西條を頂点としたピラミッドの最下層にいる自分をはっきりとイメージしてしまった。

クツジョクだ。

慣れてないのだから、仕方ないだろう。

というか、そもそも四足歩行など慣れているわけないのだが。

しかも、手はまだ良いとして、膝をつくのは骨がフローリングと接して若干痛い。

でもここで引くわけにはいかない。

本来ここに来た目的から遠ざかっている気もしないでもないが、乗った挑戦には最後まで乗り続けてみせる。

決意も新たに、少しだけ頑張ってスピードアップし、何とか西條の足元までたどり着いた。

「水周りはここだ。トイレ、風呂。

 洗濯機は、あるが使ってない。クリーニングサービスに出せばいい。…次、行くぞ」

そして、また「Heel」のコマンドがかかる。

もしかしてこれは自分のための部屋の中の案内なのか、と今更気づく。

そうしてその後も、ドアごとに止まって説明され、注意事項もその時に伝えられた。

視線の高さに慣れないのと、つい廊下の床ばかり見てしまうせいで、位置は半分も覚えられなかったが。


一回りして戻ってきたのはリビングで、西條は何も言わずにどこか別の部屋へ行ってしまった。

ちなみにコマンドを解除されたタウとシータは、それぞれ好きな場所で落ち着いている。

ケージは無いが、使い古されたような小さめのラグがあり、定位置らしいその上で伏せていた。

美憂はといえば、どうして良いかわからず、結局ソファを背もたれにぼんやりと長座してしまった。

一瞬、行儀が悪いかと思ったが、膝も痛いしどうせペット扱いだし西條もいないし、と開き直った。

ここに来て、まだそれほど時間は経っていない。

しかし、この疲労感はどうだ。

妙な体勢で歩いたせいか体が痛かったので、そのまま手を前に伸ばして前屈。

ストレッチをしながら、心の中で小さく佐那に泣き事を言う。

何でもするとは言ったけど、まさかまさか、ここまでするとは思わなかったよ、とか。

ほんとにあの人恋愛向きじゃないんだね、さすがにちょっと理解したよ、とか。

気持ちロンドンの方角へ向かったつもりでさめざめと訴えていたら、西條が両手に妙なものを持って帰ってきた。

「随分前に忘年会か何かで押しつけられたものだが。これで少しは痛まないだろう」

言いながら、伸ばしていた美憂の手足にぐいぐいとそれを装着し出した。

そして着け終わると、満足そうに頷いてからそのままキッチンへ行ってしまった。

「なにこれ…」

黒い、猫の手と、ニーパッドのようなもの。

確かに床に直接触れない分、痛みはマシだろうが、どうも妙な心地だ。

触ってみたが、両手に嵌められたそれのせいで、感触がわからない。

しかも妙に分厚くて指が動かせないため、本当に触るだけで、何かをつかんだりできそうにない。

美憂がぱたぱたと手を合わせていじっている間に、西條がタウとシータの前にボウルを置いて「Stay(待て)」をかける。

食事の時間らしい。

キッチンへ行きがけに、西條に食事をしてきたか確認されたので、してきたと答える。

次にリビングへ戻った西條は、自分の分の食事とお酒を持っていた。

食事もお酒もいらないが、何か飲み物くらい欲しいな、と思いながら試しにじっと西條を見てみる。

「……飲み物か?」

美憂の目をしばらく見た後ひとりごとのように呟いて、西條がまたキッチンへ行く。

美憂は、見ただけで通じるものなのだな、と驚いてしまった。

しかし西條が帰って来た時には、別の意味でさらに驚くことになった。

「ミュー、Sit.」

慌てて正座した後に、コトリ、と目の前に置かれたのは、牛乳らしきものが入ったウォーターボウルだった。

首輪が差し出された時と同じように、思わず凝視してしまったが、何度見直しても、ボウルだ。

タウとシータが使っているのと、色違い。

「タウ、シータ、ミュー、OK.(よし)」

解除のコマンドがかかって、二匹がおいしそうに食事を始める。

その姿を後目に、美憂はまだ体が動かなかった。


どれくらい経っただろうか。

やっと覚悟を決めて、そっと舌を伸ばす。

体重が移動して膝が床に強く押し付けられたけれど、装着されていたもののおかげで、先ほどより痛くない。

けれど、髪が落ちてきて、邪魔をする。

手でかきあげようとしたけれど、装着されたもののせいで、今度はできない。

どうしよう、と困っていたら、ソファの上から手が伸ばされた。

するり、と髪が掬われてそのまま押さえられる。

驚いて顔を上げれば、そのまま飲むように視線で促された。

解除のコマンドの後、今までずっと美憂の様子を見ていたのだ、とわかった。

しかも、また、あの表情だ。

初めて褒められた、あのときの表情。

もう一度、そろり、と舌を伸ばして、舌の先に触れただけの牛乳を、それでもこくり、と飲みこむ。

と、同時に髪を押さえていた手はそのままにしつつも、伸ばされた指先が、美憂の耳元をくすぐった。

「Good girl.」


西條は容赦が無い。

けれどその褒める声と仕草の甘さも、同様に容赦が無い。

内心で、佐那の名前を呼んだ。

どうしよう。

嬉しいかもしれない。


ハンドラー西條(笑)。

美憂は猫のはずが、性質的には犬になってきたなぁ…。

そんなわけで、美憂のペット化はますます進みます^^;


ちなみに西條がどこぞから引っ張り出してきたのは、

大学時代の悪友ばかりが集ったいつかの忘年会で当たった、

コスプレ(猫耳)セットです(笑)。

他に耳付きカチューシャとむにゃむにゃなしっぽが入ってたり…ヒィ(@_@;)


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