02
二か月前、猫が死んだ。
耳がひだ状に三つ折れてぺたりと頭にくっついていた、愛嬌のある猫だった。
もともと犬派でしかも既に二匹飼っていたので、これ以上何かを飼うつもりは無かったのだが、ペットショップの経営をしている知人に頼まれて引き取ったものだ。
質の悪いブリーダが禁止されている交配で産ませ、保健所行きになりかけていた体の弱い猫だったが、飼ってみると意外とかわいかった。
性格は穏やかで、無駄に鳴いたりせず、お腹がすいていてもじっと西條を見つめるだけだったり。
けれど、たまに出す鳴き声は、澄んだ高いもので、それもまたかわいかった。
骨格に異常があるせいであまりうまく歩けもしなかったし、寿命が短いだろうということはわかっていたが、覚悟などいつも足りない。
その日、西條が仕事から帰った時には既に完全に冷たくなっていた体は、とても小さく軽くて、切なさに思わず視界が滲んだ。
ペットとの関係に、人付き合いにありがちな煩わしさは無いけれど、いつでも人間よりも先に去っていくことだけが、難点だ。
どうにもできずしばらくそのままにしていたフードや砂など猫のための物は、少し前にようやく処分した。
すぐに捨てることはできなかったくせに、それでも別の猫を飼う気には当分なれそうになかったからだ。
それなのに、西條は現在ペットショップにいる。
かごの中にはドライフードと缶詰と、トイレ用の砂が既に入っており、今ちょうど猫草を手に取ったところだ。
成り行き上、また猫を引き取ることになってしまった。
話を持ちかけてきたのは、西條の学生時代からの悪友で、今は上司でもある智紀だ。
「誰も世話してくれる人がいなくて」
最初はこんな感じで話されたが、西條は頷かなかった。
しかし、智紀は作戦を変え、西條はそれにまんまと引っ掛かった形になる。
「何て言ったっけ、お前が前に飼ってた猫と同じ名前の子らしいんだけど」
同じ名前の猫。
スコティッシュフォールドだ。
満足に世話してやれないまま、想像していたよりもずっと早くいなくなってしまった、小さな猫の姿が思い浮かんだ。
罪滅ぼしというわけではないが、少々感傷的になってしまった西條は、渋々ながらではあったが引き取ることを了承したのである。
こんなことなら猫用品を捨てるのではなかったな、と少し後悔したが、その時はもう飼わない気でいたのだから仕方が無い。
それに、聞いたところによれば今度引き取るのは仔猫ではないようだし、そうなると結局食べ物も変わってくるのでどうせ買うことになっただろう。
ちなみに、特に健康上の問題は無いらしいので、今度は長生きしてくれるだろうと思う。
そういえば、名前はどうしようか。
特に意味は無いが、飼っているペットの名前にはギリシャ文字を当てている。
なんとなく猫っぽい、という理由とも言えない理由だけで、あの小さな猫にはミュー(μ)と名づけていた。
あまりにも短い期間しか呼べなかった名前だ、もう少し呼んでいたかった。
さて、肝心の猫はどういうわけか、直接マンションに届けられるらしい。
西條の住むマンションはフロントがあり、またオーナーが智紀であるので、下手な扱いをされる不安は全く無いが、それでも生き物であるから心配ではある。
西條が少々足早にエントランスをくぐると、フロントの女性が笑顔を向けてきた。
「お帰りなさいませ。上で、もうお待ちかねですよ」
“お待ちかね”?
動物に対して使うには些か不向きに思える言葉に、西條は内心で首を捻る。
フロントで預かっているのだろうとばかり思っていたので、それも若干気にかかった。
けれど、女性は何もおかしなことが無いとばかりの笑顔を浮かべており、西條はとりあえず謝意を表してエレベータへ向かう。
来た猫がいくら成猫でも、いくらワンフロア全体が西條の居住区といっても、猫だけで置いておくのはちょっとどうなんだろうか。
やきもきした思いを抱えながら、エレベータが上昇しきるのを待つ。
ドアが開ききる前から、その隙間を大股で出て行った西條だったが、予想外の影が目に入り、立ち止まってしまった。
玄関の前にいるのは猫ではなく、人間だ。
しかも、女。
西條に気づいたその女は、何か言いたげに口元を歪めながらも言葉を発さず、ただただ九十度に体を折り曲げた。
これは何だ。
一体、どうなっている?
左手に持っていたビニール袋に目を遣り、今買ってきたばかりの猫用品を見つめる。
そして、智紀の話を注意深く思い出してみると、世話を必要としている対象について智紀が一度も猫だとは言わなかったことに気づいた。
智紀が巧妙にそう仕向けたことではあるが、つまり西條が勝手に勘違いしただけだったということである。
これで、フロントの女性の対応も納得がいく。
この荷物は、どうやら無駄になりそうだ。
西條は大きく舌打ちしたい衝動に駆られたが、目の前にいる女が、どうもひどく緊張しているらしいことに気づき、やめた。
突然巻き込まれた意味不明なこの事態で、なぜ自分のほうが気を遣ってやらねばならないのかわからなかったが、仕方が無い。
ずっと玄関の前で突っ立っているのも変なので、西條は諦めて声をかけ、とりあえずスーツケースと共に部屋の中に入れてやった。
さあ、これからどうしようか。
おとなしく後ろについてくる気配に、西條は考え込むように眉を顰めた。
智紀を通じてここへ来たのなら、変な筋の人間では無いのだろうが、それでも西條の手には余る。
だいたい世話してくれる人間がいないからといって、なぜ西條のところに来る話がついたのかわからない。
明日、智紀に問い詰めねばならない、と思ったが、今はとりあえず当面の問題をまず先に解決する必要がある。
根本的なこととして、西條は、人間が好きではない。
確かに部屋は余っているし、ひとりくらい置いても物理的な支障は全く無い。
しかし、誰かと深く関わり合いになることを西條は歓迎しないし、良く知りもしない誰かと一緒に生活するなど想像するだけでため息が出る。
あからさまに迷惑だと言って追い返すわけにはいかないが、しかしどうすれば良いか。
完全に無駄遣いとなった猫用品をどさりと投げるように置いた時に、ちょうどそれが目に入った。
捨てそびれていたと思われる、ミュー用に買ったのだがサイズが合わなくて放っていた首輪だ。
こんなものを差し出されたら、どんな反応をするだろうか。
帰って欲しいという紛れもない本心が八割、もしかしたら受け取ったりしてという遊び心が二割。
その提案が、人としてどうかなんていう真っ当な考えが浮かばなかったのは、多分それだけ実は動揺していたということだろう。
とはいえ、怒って出て行くだろう、とは思っていた。
だから、ひったくられるようにして首輪が手から離れた時は、正直なところかなり驚いた。
こうなってから初めて西條がまじまじと見つめた目の前の顔には、物怖じしそうにない強い目と負けん気の強さを表すように引き結ばれた唇。
納得はもちろんしていないが西條の挑発には負けたくない、という気持ちがありありと見えて、明らかに負けず嫌いそうだと、今見ればよくわかった。
もっと観察してから策を練ればよかった、と今更ながら後悔したが、それでも自分から始めたことだから、もう引っ込みは付きようが無い。
半ばやけくそのように首輪を自分の首に嵌め終えた女が、次は何だ、と言わんばかりに西條を見つめている。
やれやれ、と小さくため息をつきつつ、面白くなりそうだ、と思った自分が少々可笑しかった。
西條は、妥協をしない人間だ。
凝り性であるが故か、何かを始めると徹底的にしなければ気が済まない。
新しい“猫”を飼い始めることになった今は、緩く嵌められたせいで首にフィットしていない首輪が、どうしようもなく気に入らなかった。
首と首輪の間の隙間に人差し指を入れて引き寄せると、驚いた顔が少しだけ近づく。
何か言いたげなのを無視して、西條も無言のまま首輪の穴を二つ詰めて嵌め直す。
少しだけ窮屈そうに眉が顰められたが、呼吸が苦しいわけではないらしく、文句は言われなかった。
ぴったりと嵌った首輪を見て、妙な満足感を味わった西條は、自分の思考を疑問に思って軽く頭を振る。
そこで、とりあえず受け入れたからには、この家で生活するにあたってルールを聞かせる必要があることを思い出した。
注意を集中させるために呼びかけようと思ったが、呼びかける名前を知らない。
「お前」
名前は、と言いかけて、ペットに名前を聞くのはおかしい、とすぐに言葉を途切れさせた。
首輪には、ミュー用だったせいで、Mのイニシャルチャームが付いている。
ついでに智紀が言っていた、前に飼っていた猫と同じ名前だ、という言葉を思い出した。
まさかミューという名前ではないだろうから、ミユとか、ミウとか、そんなところか。
しかしここに来た理由も魂胆も全くわからない相手だ、西條にとっては本名を知ったところでさほど意味があるとも思えない。
それに本物の猫だったら、全く同じ名前は付けられなかっただろうが、飼うことになったのはあいにく本物の猫では無い。
西條は、何の躊躇も無くその名前を声に乗せた。
「おいで、ミュー」
西條は一応本物の猫を飼う気だったのですが、違いました(笑)。
でも“猫”にしてしまうところが、西條の恐ろしさ。
自分で書いておきながらなんですが、凝り性もここまで来ると変態でしょうw