マジョ
剃髪した魔法士の体が光になり、球体に凝縮され、消滅する。その一連の変化を、同胞の存在が視覚からも探査能力による超知覚領域からも完全に失せるまで観測。詳細を記憶する。
「ふむ」
右腕を――無色の魔法士を一振りで退けた腕を見下ろす。悪くない。
だがもう少し、自分の能力についてデータを収集しておきたくもある。これだけでは、まだまだ情報が不足していた。他の無色と比較して、自分の優位性がどれほどのものか、自分の器というやつを理解しておきたい。場合によっては――そんなことは有り得ないだろうが――、無色の全員を相手に戦う可能性があるのだ。それまでに、自身の能力くらいは把握しておかねば。
幸いにも、情報収集の機会には不自由しない。例えば、今この時のように。
「迂闊……」
呟く。背後から迫っていた気配に向かって。
極低温の魔法が、レアリアを中心にして温度を瞬間的に氷点下にまで下げる。空気が凍え、水蒸気が氷に変化した。氷は花弁のように咲き誇り、レアリアの体を巻き込んで氷結する。
「はああああっ!」
怒号が響く。頭上から、魔力を乗せて。
圧縮された立体魔法式が、目の前に落ちてくる。魔法ともいえない純粋な魔力が爆発した。小手先の技術を省いた、直接的な力が叩きつけられる。炸裂した白光の衝撃が空域を圧した。
相手を不意討ちで行動不能に陥れ、しかる後に大魔力を叩き込む。
良い戦略だ。良い戦略ではあるが――
惜しいかな。その前の段階で、彼女は既にミスを犯している。
「迂闊よ、ネル」
総身を覆っていた氷は大半が今の攻撃で吹き飛び、残った微細な霜も身震い一つで体から離れる。長い髪だけは、手ですいてやる必要があったが。
見上げることもせず、上空にいるネルへと語りかける。
「敵の戦力を計らずに、単身で挑むなんて。頭に血が上ると後先考えなくなる性格、なおしなさいって言っておいたでしょう。そういうところは、ギルとそっくりね。もっとシリムを見習いなさい」
「黙れ!」
「あら、いいの? こんな封鎖領域の端っこで戦っても。封鎖領域を破るのに一番簡単な方法が、境界隔壁の突破なのはあなたも知ってるはずでしょう」
「黙れと言った!」
荒れ狂う魔力が、ネルの描く魔法式に集う。絶対零度級の魔法を繰り出す前兆であろうが、しかし、彼女は理解していない。彼女と自分の差は、単純な戦闘能力だけではない。頭に血の上った彼女には、それを理解しようとするだけの冷静さもない。
彼女にはそれを理解するだけの能力があるはずだが。
「残念ね」
顔を上げ、ネルを見る。本当に、残念だ。
彼女は理解できていない。
これは無色の魔法士同士の戦いではない。
これは無色の魔法士と、その天敵との戦いだ。
リアルな夢だったのではないか。
帰路を歩く中、そんなことを考える。コウヘイとしても、勿論母には元気になって欲しい。いっこうに回復しない母に、焦りのようなものを感じていたのも確かだ。物言わぬ母の誕生日を、共に祝ったときの父の顔を今でも鮮明に覚えている。
(母さんの誕生日、近いよな……)
だからなのかもしれない。
あの女はコウヘイの作り出した想像上の人物で、女の言ったことは全てコウヘイの願望なのだ。
――あなたがお母さんを救うの。
魅力的な言葉だ。
そんなことができるのなら、自分だってそうしたい。母の事故には責任を感じているし、事故のことでなにも言わないよう気をつかってくれている父にも申し訳ない。
だから、あんな幻を見たのだろう。
でも、もしかしたら――
「よ、コウヘイ」
正面からかけられた女の声に、びくりと反応する。
足元に落としていた目を上げてみる。が、そこにいたのは長い髪の女などではなく、もっと若く、また短い髪の少女だった。
「サキか。なにしてんの?」
「部活の帰り。真正面から歩いてくるのに気づかないなんて、寝ぼけてんじゃない?」
ジャージ姿のサキは、呆れたようにそう言う。同じ中学に通う同級生は女子バスケット部に所属していたが、時間はまだ午前中だ。コウヘイとサキの通う中学の女子バスケット部は、廃部寸前の男子バスケット部と違って強く、その部員が日曜の午前中にうろうろしているのは珍しい。
「部活はサボり?」
「午前中だけだったの。それより」
サキの視線が、コウヘイの背後に向けられる。彼女の視線を追えば、そこには先ほどまでコウヘイがいた病院があった。
「お見舞い、行って来たんだよね?」
「うん」
「もしかしておばさん、良くないの」
「違うよ。相変わらず」
はたから見れば、コウヘイの姿は落ち込んでいるようにも見えたのだろう。どうもまだ心配そうな目をしているサキは、コウヘイの昔からの知り合い――幼馴染だった。サキは母のことも知っており、何度か見舞いに訪れたこともある。
「しばらくお見舞いしてないな。今度、あたしも行くよ」
「次は水曜だ。部活がなかった来いよ。もしかしたら、父さんもいるかも」
「おじさん久しぶりだな。半年くらい合ってないよ」
「忙しいからね」
他愛のない話をしながら――
コウヘイは迷っていた。あの女のことを、サキに相談するかどうかを。
どう考えても突拍子のない話だ。世話焼きで心配性のサキは、多分本気で聞いてはくれるだろうが、その後本気で精神科を紹介しかねない。なんというか、彼女はそういう人間だった。
(とりあえず、黙っておくかな……)
そう結論付けて、コウヘイは女の件について口を閉ざすことにした。あまり意味はなかったが。
(何故だ!)
背を向け全力で逃走しながら、反撃の魔法を作り出す。
慣れた手順を踏み、魔法式を構築。水も漏らさぬ制御で描かれた立体式は、無駄な消費を一切せずに魔力を魔法へと昇華させ得るできだった。式の質も、魔力の量も申し分ない。
それを放つ。
振り返りつつ、魔法式を相手へと押しやる。
かわすこともしない敵に、魔法式が直撃した。開放された魔法は全ての物体を凍てつかせ、分子のレベルで動きを阻害、完全に停止させる。生物なら体組織が壊死し、肉のない魔法士とて無事では済まず、魔族にすら有効な攻撃魔法である。その魔法が。
(何故、通じない!?)
髪の一筋さえその艶やかさを失わず、レアリアは魔法の効果範囲をすり抜ける。最初の攻撃以来――いや、最初のそれも含めて、彼女への攻撃は全てが無力化されている。
「最初の威勢はどうしたの? 鬼ごっこは、もうごめんよ」
嘲笑するレアリアの声。それに、途方もない威圧感が添えられている。
見惚れるほど繊細で、圧倒されるほど力強い、芸術品のような魔法式が展開される。神々しくすらある白い光の球体から、黒い影が染み出た。神秘的に輝く球体からあふれ出したどす黒い闇は、意思を持っているかのように、ネルを食らおうと襲い掛かる。
(はやい!)
魔法を扱うまでのタイムロスが異常に短く、早い。また、放たれた魔法も飢えた獣がごとく、不気味なほどに速い。
直線的だった飛行の軌道を変え、はるか高みに上昇した。速度で劣っているなら、小回りでその差をうめるしかない。眼下の空間を闇が飲み込んだ、ネルはなんとかその身を捧げずにすんだ。が。
「甘い」
「っ!」
先回りされた。そう気づいたときには、もう遅かった。
音すらほとんどしなかった。先ほどまでさらされていた闇の魔法の脅威と比較すれば、呆れるほど軽い衝撃が体を貫く。背後から、胸元へと。
見る。細い腕が、彼女の胸から生えていた。指を伸ばし、一応は手刀の形をとってはいるが、刃物と呼ぶには程遠い女の手。
「素手、で……私の構築限界……を、上回った……のか……?」
「こう見えて、力には自身があるの」
冗談の口調。耳元に寄せられたレアリアの口から、そんな言葉が発せられたと思う。聴覚がいかれ、よく聞き取れなかったが。
ギルのときと同じだ。存在の維持どころか、再構築も不可能。それどころか、ネルの体が自らを壊してさえいる。鋳像管理が、自壊を命じている。ネルの存在が、自身の分解を望んでいる。この感覚を、彼女は知っていた。
(勝てない)
絶対にネルは――いや、無色の魔法士では、レアリアに勝てない。彼女と自分達の間にあるのは、猫と鼠の間にあるような、強弱の問題ですらない。生態系ピラミッドの上下ではない。
これは、もっと質の違う。
「……お前、は……」
体が崩れる。光が包み、光になり、光に消える。
すでに五感と呼べるものは失せていたが、レアリアの声は、突き刺された腕からネルへと流れ込んでくる。
「やっとわかったみたいだけど、残念ね。あなたには理解するだけの能力があった。でも、あなたは理解できなかった。だから……」
間をとる。ゆっくりと――今度こそ――ネルに理解させるために。噛み締める時間を与える。ネルの意識が暗転する直前、最後の声が頭の中に響いた。
「あなたの負けよ」
よほど切羽詰っているのか、冷静さを失っているのか、あるいはそう誘導されているのか。ネルはシリムたちを目指すどころか、むしろ離れるように戦闘を続けている。静の戦闘を得意とするネルにしては珍しい、戦場を広げる戦いかたをしていた。一方的な逃亡劇を、戦いと呼べるなら、だが。
と、シリムの探査能力が、ネルの存在を知覚できなくなる。
宙空で静止。全速力から唐突の急停止に、対応できなかったコーダがシリムを追い越してから停止する。
「ネルの存在が消えた!」
「……そのようだ」
「しかし、これは……」
なにかが妙だった。無色の二人をことごとく、短時間でほふり去ったレアリアの力量もそうだが、それだけでない奇妙な感覚がシリムの中に芽生えている。なんというか、既知感に似た。
胸の中に、靄のように曖昧な不快さが居座る。
「…………」
「シリム?」
「このまま戦って、レアリアに勝てる見込みは少ない。はっきり言って、勝率は万に一つもない」
ネルほど卓抜した探査能力があるわけではなかったが、それでも彼我の戦力差を見極めることはできた。シリムとコーダが二人がかりでも、レアリアは歯牙にもかけず彼らを一蹴するだろう。ギルとネルの兄妹がそうだったように。
レアリア――『最初の無色』は、その異名に恥じぬだけの強さを誇る魔法士ではあった。だが、それにしてもこれは強過ぎる。一月前とは次元の違う強さを振るっている。そこには不自然があった。
(もしかしたら)
不自然な強さ、不自然な振る舞い、不自然な感覚。それらが、シリムの中で一つに繋がった気がした。裏付ける証拠などなにもない、憶測でしかなかったが。
「コーダ。俺に一つ策がある。仮説に基づいた、出来損ないの策だが、お前の命を預けてくれないか?」
都合の良い頼みであることは百も承知だ。それを押して、シリムは訊ねた。
鋳型を失い、型をとれなくなった存在が、白い発光体となる。
白光に導かれて、二人目の友人が旅立った。彼らの行った道が――資格を持つ者のみが歩むことのできる旅路が、しかし快適な道のりでないことは知っている。だがその旅路に、後二人の友人を送り出さねばならない。自身を知るための練習台として。
(酷い女よね。我ながら)
くすりと、笑う。
自らを嘲笑うほど自虐的ではないつもりだったが。
「さて。殿方をお待たせするのもなんだし、ご足労させるのも悪いし……ん?」
接近してくる、大きな魔力がある。あるにはあるが、これは。
「一つ?」
左手から探査の魔法式を展開。封鎖域内の縮図が発現する。ドーム状の空間内部に、三つの光――三人の魔法士の反応を確認できた。一つは自分、そして自分に向かってくる魔法士が一つ、最後に、ドームの側壁辺りに一つ。その最後の一つの反応が、ふと消えた。
「……逃げた?」
その言葉を合図に――いや、一人が逃げたのを合図にしてだろう。
大量の魔力を練りこんだ、大出力の魔法。閉じた空間を明るく照らす雷光。水平に降る雷が、レアリアを避けて通り過ぎた。
「一人で来るとは思ってなかったわ」
「……本当に、当たらないんだな」
こちらの言葉を無視して、ぼそりと独り言を呟く。
長身で、髪をオールバックにした魔法士。彼とまともな会話というものをした記憶が、ほとんどない。事務的な会話ならともかく、他愛もないおしゃべりを望める相手ではなかった。
「シリムを逃がして、自分は私の足止め?」
「そんなところだ」
「嘘ね」
即座に断言する。シリムの性格は、自分が一番わかっている。
「彼が逃げるはずないわね。どこに向かったの」
「その口調では、もう気づいているようだが」
コーダは惚けるでもなく、そう肯定する。
「ふふふっ。やっぱり良いわ、彼。かなり高い点数をつけてたつもりだけど、それでもまだ見損なっていたみたい。私の力を見破ったのも、シリムなんでしょ? そうでなきゃ、あなた一人を残して行くはずがないものね」
「その通りだ。安心した。奴の仮説は正しいらしい」
言うほど、その表情に安堵はうかがえない。鉄壁のポーカーフェイスにより、心のうちを無表情の下に隠しているのか、あるいは、最初からシリムを信じ切っていたのか。
「つまりお前は、私たちの鋳像管理に外部から干渉する手段をみつけたわけか。『箱庭』の技師や、大賢者たちが聞いたら卒倒しかねない話だが、考えてみれば貴様は自身の鋳像管理を解除することに成功していたな。まさか他人のそれにまで影響を与えられるとは、想定していなかったが」
「影響といって、それほど大層なことができるわけじゃないわ。存在の確定が曖昧な私は、私の発する信号――いつもは無色の信号で安定させてあるけど、それを短い時間だけなら変更できるのよ。例えば、あなたたちの禁忌コードに抵触するような、ね」
「私たちの超感覚が、貴様を不可攻撃目標――箱庭の主要建造物あるいは大賢者たちと誤認し、攻撃をキャンセルしたのか」
短い時間とは、つまりほんの数秒程度のわずかな間だった。しかしそれだけあれば、他の魔法士が繰り出す全ての魔法を無力にできる。必殺の大魔法を、派手なだけの虚像に変えてしまうことができる。
「無色の魔法士――箱庭の守護者である私たちを、最も恐れたのは誰だと思う?」
「魔族でないのは確実だな」
「ええ。魔族に恐怖なんて感情はないでしょうね。では逆に、恐怖を感じるのはなに? 地位や名誉なんてつまらないものに囚われて、一々悩みごとを増やす存在は? 当然、人間よ」
身振り手振りを加えて、彼女は語った。
侮蔑を含んで続ける。
「箱庭なんて明日も知れない場所で地位にすがりつき、名誉の椅子から蹴落とされるのを恐れているのは、あの生命維持装置に繋がれてなければ息もできない老人たちだけよ。彼らは大賢者の名を脅かす最たる者として、無色の魔法士を警戒していた。無色の魔法士たちが必要不可欠なのは事実、かといって鎖でつないで番犬であることを強制しなければ、いつ自分たちの居場所を奪われるかわからない。だからこそ、鋳像管理に禁忌コードなる鎖を組み込んだのよ」
本来ならば棺桶に収められるべき体を、様々な機械と投薬、数十回の手術と魔法的肉体治癒・復元により、現在に至るまで使い古している妖怪たち。肉のない自分が言うのもなんだが、残ったオリジナルが体の四割に満たないあの老人たちは、最早生き物ではない。
「不可攻撃目標、普遍主従、大賢者長に至っては存在破棄命令というこの世で最も具体的な死刑宣告までも可能――まあ前例はないけど。これらの絶対上位権限で無色を隷属させることで、老人たちはなんとか安心していた。だけど、私はそれを逆手に取った。もちろん、絶対上位権限を完全に行使できるわけではないわ」
「わずかな時間の不可攻撃目標化。こと無色に対して、最強の盾を得たわけだ。そして、二人を消したお前の持つ最強の矛は、普遍主従によっての」
「帰還システムの強制起動」
言葉の半分を受け持つ。
「ギルも、ネルも。びっくりしたでしょうね。構成維持ができずに体が分解されて、再構築も働かない。でも当たり前のことなのよ。転移はその工程の中で、存在を分解しないといけない。エラーの発生を防止するため、転移中には魔法士の意思で存在を構築も維持もできないようになってるし。でもまあ、拍子抜けもしたでしょう。死んだと思った次の瞬間、自分の家の玄関先に転がっているわけだから」
「だが、それを実行するには相手に接触していなければならない。違うか?」
「そおね。探査能力の裏を付いてどうにかなる問題じゃないから、必ず手を触れさせて命令を送らなければならない」
「距離を取って戦えばいいのだな」
「そういうことね。……あなたとこんなに長い時間しゃべったことがなかったから、もう少しコミュニケーションをとっていたい気もするけど、この後にも予約があるの。そろそろ、時間稼ぎに付き合っていられなくなってきたわ」
軽い言葉とは程遠い緊迫感に、空気がささくれ立つ。痛いほど鋭く尖った気配が肉のない体を刺激する。風のない世界をざわめかせる。
心地良い緊張感を味わいつつ、呟く。
「私、待つのも待たせるのもキライなの」
封鎖空間からの脱出は、正規の手順であればスムーズなものだった。偽りの空間にいる権利を破棄すれば良い。それだけでシリムという存在が、現実の世界と時間に吐き出される。
復活した時間を実感させたのは、やはりここに来たときと同じく風だった。最初の転移時よりもいくらか高度は低いが、それなりに風は強い。その風をコートにはらみながら、彼は目的の場所を探した。時空封鎖を展開した地点からだいぶ離れてしまっていたが。
(あそこか……)
最後に見たとき、たしかに破壊されていたそれ――
シリムたちがこの星で足を下ろした、唯一の建造物。マンションとしては小さく、しかし町を望むことができた場所。その北西辺りに、あるはずだった。
ネルの探査に引っ掛かった、民家と思しき建築物。
(あれで間違いないか)
二階建ての民家に目星をつける。注視すれば、わずかに立ち上る魔力の残滓を確認できた。気にすることはないと思うが、なんらかの罠に気をつけておいたほうが良いだろう。
右目の前に式を描き、それ越しに目的の家を眺める。左右の目で、別々の景色を見えた。左の目に映るのは、遠目に見るなんの変哲もない家屋であったが、右の目に映るのはそれを倍率の調整により拡大させ、探査による詳細な情報を表示させたものだった。
(魔力があるが、罠をはれるほどの量ではない。場に溜まった残留反応だ。大きな生命反応もない。人が――おそらく一人で住んでいるようだが、今は留守か。レアリアの情報を聞き出したかったが……)
家主を待っている時間はない。コーダの時間稼ぎも、そう長続きはしないはずだ。それまでに、次に繋がるなにかを得なければならない。体を舞わせ、目的の家へと降下する。
レアリアに、殺害の意思がないこと――彼女がシリムらを送り返す以上のことをしないと見抜いたとき、シリムは自分が選ぶことのできる最良の行動がなんであるかを考えた。戦って死ぬことはないが、どうあっても勝てるはずがない。戦って、負けて、送り返される。悔しいが、これがシリムの行く末だろう。
だがしかし。死なないということは、次があるということだ。戦いの時を先延ばしにし、その間になにか有益な情報を得る。それができれば、今回の遠征は、目的を果たせなくともまったくの無駄足にもならない。
家の屋上に着地し、そのまま足元から沈む。顔が沈む際に瞬間視界が閉ざされるが、完全に通り抜けるとそれも復活する。屋上を通過し、二階の床に足を下ろした。
なにか――なんでもいい――次に繋がる手がかりさえ得られれば。
「ふんっ」
アスファルトの地面に掌を打ち下ろし、魔法式を焼き付ける。完成した魔法式は即座に力を発揮し、地表に雷撃を走らせ、そして破壊した。アスファルトの残骸が吹き上がり、煙幕となってコーダの姿を隠す。
相手から姿を隠しつつ、魔法で空けた穴から地下へ移動。下水道を通り、いったん距離をとる。とるはずだった。
ほんの少し進んだだけで、動きを止める。
「……っ」
地下のそれよりなお暗い影が、コーダを待ち構えていたように現れる。彼女はコーダの逃走経路を読み、魔法式を放っていたのだろう。化かし合いでは、自分に分が悪いようだ。
(わかっていたことだが)
頭の回転の速さで、自分がレアリアに勝てないのは重々承知だ。彼女の聡明さは、箱庭の技師どころか学者をも凌駕している点があった。
頭上にある地表を、体を透過して抜ける。半ば予想していたことだが、やはりそこにも彼を待ち受けているものがある。漆黒の闇が、上空から降ってきた。出力を最大にした結界で受け止めるが、信じられないほど多量の水を被ったような錯覚に陥る。必死に、その重さに耐える。
「ぐうっ」
「がんばるわね、でも」
悪寒が、首筋を泡立てる。囁かれた声は、結界さえなければ息が届くほどの間近からのものだった。即ち、背後から。
敵の姿を視界に入れようと首を捻り、コーダが見たのは、レアリアがノックをするように結界を小突く様子だった。たったそれだけの動作に、彼の心臓が――実際にはそんなものとうに捨てているのだが――跳ね上がる。レアリアに接触した地点から砂が風に飛ばされるように、結界が解除されてゆく。
(再度の展開……)
試みるが、そんなものが間に合うはずもない。
結界がなくなれば、それが防いでいた魔法は当然、コーダ自身が受けることになる。
闇を頭から被り、空から落とされて地面に押し潰される。大した抵抗もなく、コーダを飲み込んだ魔法は地面を貫通して地下にまで達する。今しがた逃げてきた道を逆戻りするようにして、下水道へと叩き伏せられた。
「がっ……」
レアリアの魔法が、コーダの体を縛る。巻きつくような影が、四肢を覆った。
「少しだけ、手間取ったわ。ほめてあげる」
地上から、そんな声が聞こえた。
闇の魔法に束縛されたまま、コーダは地下から引き上げられる。巨大な腕に握られ、持ち上げられるような、そんな感覚だった。人形などの玩具にされた気分で、あまり気持ちの良いものではない。
「ここまでか」
「あなたはよくやったわ。シリムは良い部下を持ったわね」
「無茶なだけだ。隊長があれだからな」
「あなたのほうがシリムより少し年長だったと思うけど、年下の上司のためによくやるわ」
ふっと――自分にしては、非常に珍しいことだが――笑う。見栄や虚栄など、離肉して亡霊も同じの自分たちにあるはすがない。
「肉のない私たちに、肉体年齢は最早関係ないだろう。貴様も、もう七十近いのだろう?」
「なにを言うのかしらね。私は外見も中身も、永遠に二十歳よ」
その返事は冗談とも本気とも取れたが、レアリアの容姿は確かに二十代に見えはした。当たり前だ。二十代の時に離肉した彼女は、時間による老化から開放され、当時のまま変わることはない。
外見に関しては、だが。
彼女から受ける印象は、二十歳の小娘ではなく、もっと経験を経た女性のそれだった。
「私は、早く生まれたかどうか――そして大賢者たちが命じたかどうかで、自分が信じる者を決めたりはしない。シリムの頼みだったから、命を懸けた。それだけだ。最後に残ったのが私でなく、ギルだろうと、ネルだろうと、同じことをしたさ」
「そう」
レアリアの手が、拘束されたコーダの肩に置かれる。置かれた手はスポンジに沈むように、コーダの体に埋没する。彼の存在維持を解除し、分解する。レアリアが手を離したときには、コーダの肩口が削り取られていた。
「シリムは幸せ者ね。羨ましいくらいだわ」
「なにを……言うか……」
声音が変じ、レアリアが聞き取れたか不安だったが。
コーダは首を振って、言う。彼女はわかっていない。本当に羨ましく思うのは、彼女ではなく、自分たちのほうだ。
「……私たちの、シリムに対する……念は、シリムが貴様に向ける念と似たものだ……ネルに至っては、同じと言ってもいい」
コーダの存在が、ノイズに大きく乱れる。四肢は崩れ、五体は散じ、全ての感覚が失われる。視力が著しく低下して遂には失明する刹那、レアリアの口が動く。聴覚は既になく、また超感覚も完全に死んだ無音の中で、コーダは彼女の口を読む。
緊急帰還のプログラムに身をゆだねる。分解が済む直前から、再構築されるまでの間意識を閉じなければならないが、それについて不平を漏らすのはギルくらいのものだ。なにも、問題はない。
レアリアの答えに満足し、コーダは母星へと転移した。
「ちいっ」
探査魔法をかけてみても、これといって興味を引くような結果は出ない。残留した魔力の痕跡がわずかに検出され、レアリアがここに来てご丁寧に魔族の罠を仕掛けて行ったことくらいはわかるが、その他に、自分たちにとって有益な情報を発見できない。
(レアリアはこの家を、魔族を配置してまで守りたがった。封鎖空間に集団休眠状態の魔族を内封し、無色の魔力に反応して隔壁が破れるように細工していた。言うほど簡単なことじゃない。時空封鎖の維持にも、万一にも魔族が暴走しないための封印にも、特殊な隔壁にも。かなりの魔力を消費するはずだ)
この家に――なんの変哲もないこの家に、それほどの労力を注ぐには、なにか理由がある。ただの罠ならば、もっと別の方法を考えるはずだった。
「……なにかないのか……!」
苛立たしく、呻く。もう一度探査を行おうと、魔法式を構築して。
シリムの耳に、金属の軋む音が届いた。レアリアがコーダを突破したのかとも考え、身構えるが。
(いや……)
聞こえる声と、足音があった。先の音は、門の開く音だ。声と足音は、誰か――おそらく二人――が話しながら、家へと近づく音だった。声は幼いが、家の住人の可能性がある。
一筋の光明を掴んだ。
急ぎ、玄関へと向かう。音もなく廊下を滑り、扉を開くこともせず潜り抜ける。地面に直角に立つ水面を通過するような感覚で、シリムは外へと出た。
目に飛び込んできたのは、訳もわからずこちらを見上げる二人の男女だった。声もそうだったように、二人とも幼い子供で、おそらく十四、五の年齢だろう。
怯えるでもなく、驚くでもなく。
彼らは今、自分の目に映る光景を理解しようと努めているようだった。
シリムはその二人の片方――少年から、染み付いた魔力の残り香を感じ取った。