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『愛してくれた人が死ぬ』呪いの令嬢は、不死の元王に最後まで愛された

作者: おでこ
掲載日:2026/04/07

本作は、全八章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


━━━━━━━━━

第一章 誓いの朝

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六歳の秋に、私は誓いを立てた。


誰からも愛されずに、誰も愛さずに、死んでいく。


それがこの体に課せられた唯一の正しい生き方だと、幼い頭で理解した夜があった。


   ◆


私の呪いで最初に犠牲になったのは、父だった。


物心ついた頃から、父はエルザを膝の上に乗せて、焚き火の前で本を読んでくれた。その体温を、今でも指先で思い出せる。大きくて、分厚くて、少しかさついた手。声の低さと、ページをめくるたびに漂った羊皮紙の匂い。背中にあった温もりが、エルザの記憶の中でいちばん古い「愛」だった。


父が死んだのは、エルザが五歳の時だった。


原因不明の衰弱。


床に臥してから三週間で、別れも言えないほど早く逝った。炎天下の葬儀で、母は泣き崩れた。エルザは父の死が自分のせいだとは思わなかった。五歳の子どもに、そんな残酷な想像はできない。


気づいたのは翌年の春、母が倒れた時だった。


母は、夫を亡くしたことでより、エルザを溺愛していた。毎晩抱きしめ、頬に口づけをし、「あなたは世界でいちばん大切な子」と囁いた。髪を梳かす手が優しかった。眠りにつく前の子守唄が、いまも耳の奥に残っている。そして母もまた、理由のわからない衰弱で、夏の終わりにこの世を去った。


クロノス家に呼ばれた呪術師の老婆が告げた言葉を、エルザは今でも一字一句覚えている。


「この子には呪いがかかっています。この子を深く愛した者は、命を削られる」


六歳のエルザは、その意味を理解した。


(私が、殺したのだ)


父と母は、エルザを愛していた。誰よりも深く、惜しみなく。だから死んだ。自分が存在するだけで、近づく者の命を奪う。その事実が、骨の髄まで染み込んだ夜に、エルザは布団の中で静かに決めた。



"誰からも愛されなければ、誰も死なない"



それだけが、エルザにとっての正義だった。


エルザは、叔父の養子となり、叔父は爵位を継いだ。


それから、十六年。

その誓いを忠実に守り続けた。常に白い手袋をつけ、誰とも深く話さず、笑顔だけを纏って心を凍らせた。「冷たい伯爵令嬢」と陰口を叩かれることも、友人が一人もいないことも、全部計算の上だった。


好都合だったのは、噂の歪み方だった。


本来の呪いは「愛してしまった者が死ぬ」というものだったが、いつの間にか社交界には「親しくなった者が死ぬ」という形で広まっていた。どちらにせよ人は離れていく。むしろ噂の方が都合よかった。愛という感情が介在する前に、人が自然と距離を置いてくれるから。誰かを愛してしまう前に、遠ざかってくれるから。


代償として、エルザには友人が一人もいなかった。茶会の招待も来なければ、夜会で隣に座る令嬢もいなかった。使用人とも、必要以上に言葉を交わさないようにした。使用人に好かれる必要はない。好かれると、死ぬかもしれないから。


痛くないかと聞かれれば、嘘になる。


夜、一人で食事をする時、窓の外に灯る隣家の明かりを見ながら、あの窓の中には笑い声があるのだろうと思うこともあった。


でも……考えても仕方のないことを考えるのは、自分への甘えだと思い止めた。


(それでいい、誰も傷つけない分だけ、正しい生き方をしている)


   ◆


今日も夜会の壁際で水を飲みながら、早く帰ることだけを考えていた。


その夜、男が声をかけてくるまでは。



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第二章 死にたい男と、死なせたくない女

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「クロノスの令嬢でしょうか」


振り返ると、黒い外套の男が立っていた。


二十代後半に見える顔立ちだが、目の奥に途方もない疲れがあった。灰色の瞳に、年齢には似合わない深い翳り。整った顔のどこかに、落ち着きと静けさがあった。


「……どちら様でしょうか」


「アルフレート・ゾラン。今は隠居の身です」


エルザは息を呑んだ。ゾラン。王家の姓だった。隠居の元王。不死の呪いにかかったまま三百年以上生きているという、あの。


「アルフレート・ゾラン陛下に、心よりの敬意を。クロノス伯爵が娘、エルザにございます。今宵、お目にかかれましたこと、この上なき光栄に存じます」


「陛下、はやめていただきたい。今の私はただの隠居人だ。今夜は私人として来ているのだから」


そう言って、迷いなくエルザの隣に立った。

エルザは咄嗟に一歩引いた。王はその動作を見て、ほんの少し目を細めた。追いかけることも、傷ついた様子を見せることもなく、ただ小さく目を細めた。


「あなたの噂は聞いています。呪いの令嬢、と」


「……御存じなら——」


「試してみたいのです」


静かに言った。感情的ではなく、懇願でもなく。ただ事実を述べるような、乾いた口調で。


「私は三百年以上、死ねずにいる。毒も、剣も、高所からの落下も、戦場でも、何ひとつ効かなかった。それでも試し続けた。どうにかして終わりにしたかった。もしあなたの呪いが本物なら……私のような者にも、効くかもしれない、と」


エルザは、しばらく黙っていた。


(死にたいから、近づいてくるのか)


嫌悪はなかった。怒りも、哀れみもなかった。この人も長い時間をかけて追い詰められた人間なのだという、静かな理解だけがあった。


「……私は殺したいわけではありません」


「わかっています。ただ、話し相手になっていただけないか、と。私はここ五十年ほど、まともに会話した記憶がない」


エルザは断ろうとした。断るべきだと思った。


でも目を見た時、言葉が出なかった。三百年分の疲れを抱えた目が、初めて誰かに何かを頼んでいた。傲慢でも哀れみを押しつけるでもなく、ただ静かに、頼んでいた。


「……お茶くらいなら」


小さく頷いた。笑いもせず、礼を言いすぎることもなく。その静けさが、かえってエルザには良かった。


それが始まりだった。


アルフレートは翌週から屋敷を訪ねてきた。


その次の週も。


話す内容は他愛のないことだった。庭の草の種類、昔の王都の地図、三百年前の人々の習慣。エルザは相槌を打つだけのつもりだったが、気づくと自分も話していた。久しぶりに、言葉が出てくる感覚があった。


(この人は、私に何も求めていない。ただ、会話を楽しんでいるだけ。だから……話しても、いいのかもしれない)


そう自分に言い聞かせながら、エルザは少しずつ口を開いた。


アルフレートも話した。最初の、そして唯一の妻のことを、一度だけ語った。


「エリーゼという名でした。私より先に逝きました。当然ですが」


「……お子様は」


「三人。その子も孫も、曾孫も。全員、先に逝きました。私だけが残り続けた」


淡々とした口調だった。


「子孫の顔を見ることができるのは嬉しいものです」


だが指先が、一瞬だけ、テーブルの上で静止した。エルザはその動作を、見なかったふりをした。


「でも……孤独には変わりない」


「え?」


「私を古くから知る者は、この時代にはいない……これがどれだけ寂しいことか」


「……私も、アルフレート様ほどではございませんが、孤独の痛みは分かります」


「そうですか……仲間ですね」


二人は、しばらく黙って茶を飲んだ。


その沈黙は、奇妙に居心地がよかった。沈黙を埋めなくていい相手が、エルザには初めてだった。



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第三章 忌み子の烙印

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後日、噂は社交界を駆け巡った。


「アルフレート陛下がクロノスの令嬢と話していた」という噂は、すでに広がっており、翌週には侯爵夫人テレーズ・マルクールの元へ届いていた。


テレーズは、社交界の女王と呼ばれる女だった。


四十代半ばだが老けを感じさせない、整った容貌。物腰は柔らかく、常に微笑んでいる。誰に対しても親切で、慈善活動にも熱心で、声を荒げたところを見た者は誰もいない。そして、誰よりも巧みに人を壊す。そして、誰よりも巧みに人を壊す。


彼女がエルザに最初に仕掛けたのは、一年前の夜会だった。エルザが席に着くと同時に、隣のご婦人方に聞こえるように囁いたのだ。


「あら、クロノスの令嬢がいらしている。皆さん、くれぐれもあのお方に心を開いてはいけませんよ。愛された者が死ぬのでしょう? なんとも……恐ろしいこと」


ざわめきが広がった。エルザは聞こえていた。全部聞こえていた。それでも立ち上がらず、水を一口飲んで、表情を動かさなかった。


(これは、定め。慣れなければ……)


その後もテレーズの嫌がらせは続いた。エルザの前では椅子を引かない。すれ違いざまに「忌み子」と呟かれる。令嬢たちがエルザと話そうとすると、テレーズが自然に割り込んで話題を変える。気づかれないように、笑顔のまま。それが何ヶ月も続いた。


それだけではなかった。


三ヶ月前、エルザの屋敷に仕える老女中のマーガが辞めた。


マーガは、エルザが幼い頃から仕えてくれた唯一の使用人だった。両親が死んだ夜も、エルザが泣き崩れた朝も、ずっと傍にいた。「お嬢様の呪いなど怖くありません。私はあなたを愛しているのではなく、お仕えしているだけですから」と言ってくれた女だ。それが詭弁だとわかっていても、エルザにとってマーガは唯一、「近くにいてもいい人」だった。七十に近い、少し腰の曲がった、たこのできた手の、大切な人だった。


辞表を持ってきたマーガは、目を合わせなかった。


「理由を聞かせてください」


「……申し訳ございません、お嬢様。私も、もう年ですので……」


何かを隠しているようなそんな表情であった。


「……本当のことを言って、マーガ」


しばらく沈黙した後、老女中はぽつりと言った。


「侯爵夫人から……お話がありまして。息子夫婦の店を、潰さないためには、と……」


それだけで十分だった。


エルザは「今まで本当にありがとう」と言い、退職金を渡し、見送った。玄関の扉が閉まった後、エルザはその場に三秒だけ立ち尽くして、それから執務机に向かった。


(わかっていた。最初から予想はできていたけど……)


涙は出なかった。


いや、正確には——出し方を忘れていた。


そして今日の夜会でも、テレーズは動いた。

エルザが入場するや否や、周囲の貴族令嬢に囁きかけ、人垣が自然にできあがり、エルザが進もうとすると誰かが前に立ちふさがる。笑顔のままで、悪意のままで。


「クロノスの令嬢。今宵も物怖じせずに来られましたのね」


テレーズが近づいてきた。周囲の視線が集まる。扇を持った手が優雅に揺れる。


「先日、アルフレート陛下と話されていたとか。あら恐ろしい。陛下に何かあってからでは遅うございますのに。あなたも、少しはご自分の立場を、ご自身の呪いの重さを——わかっていらっしゃるのでしょう?」


最後の一言が、棘だった。あなたはわかっているはずでしょう、という確認。わかっているなら近づくべきではないでしょう、という暗示。柔らかい言葉の中に刃を包んで、笑顔で差し出す。


「テレーズ夫人」


遮ったのはエルザ自身だった。


「私が誰と話そうとも、それはあなたの管轄ではありません」


「あら……」


「そして私の呪いは私のものです。他人の方々へ吹聴することもお止めいただきたいです」


低く、静かな声だった。感情的ではない。怒鳴ってもいない。ただ、言うべきことを言った。自分の言葉を、初めて真っ直ぐ立って言った。


テレーズの顔に、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——冷たい光が走った。


「……まあ。ご自分の置かれた立場がおわかりでないようね、クロノスのお嬢様」


それだけ言って、テレーズは踵を返した。


テレーズがこれで引くとも思わなかった。



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第四章 呪いの、本当の形

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四度目の訪問の午後、アルフレートが言った。


「不思議なことに、私はまだ死んでいません」


「……そうですね」


「あなたと何度も話して、親しくなっているはずですが——呪いは発動しないようです。ということは、噂は誤りだったのでしょうか。呪いはない、と?」


エルザはしばらく、手袋をした自分の手を見ていた。


言うべきではないと思った。これまでずっと、誰にも正確には告げてこなかった。噂が広まっていれば、訂正しなくてよかった。でも今、この人は嘘の上に座ったまま、話し続けている。


それが今は、ひどく不誠実に感じられた。


「……誤りではありません」


「ほう」


「噂が、変形して伝わっただけです。本当の呪いは——」


一呼吸、置いた。


「私のことを、愛してしまった人が死ぬ呪いです」


沈黙が落ちた。


アルフレートはしばらく何も言わなかった。灰色の目が、静かにエルザを見ていた。


「……では、あなたと親しくなっても、愛さなければ死なない」


「そういうことになります」


「では、あなたの両親は」


「私を愛していました。とても深く」


「……そうか」


アルフレートは目を伏せた。長い沈黙の後、ぽつりと言った。


「ならば私は、あなたに対して不誠実でした。死ぬためにあなたに近づいたのですから」


「存じています。最初からわかっていました」


「それでも話してくれた」


「……あなたが、話し相手として不都合な方ではなかったので」


アルフレートは小さく苦笑した。初めて見る表情だった。三百年の疲れの隙間から、ほんの少し、人間の顔が覗いた。


「正直な方だ」


「アルフレート様も正直に話してください。今もまだ、死にたいと思っていますか」


問いかけた後、自分でも驚いた。そんなことを聞く立場にないはずだった。でも言葉は出ていた。


アルフレートはしばらく考えてから、答えた。


「……はい、死にたいと思っています。それは変わりません。ただ」


一呼吸、間が空いた。


「急ぎではなくなりました。少し」


エルザは何も言わなかった。


ただ、手袋の中の手が、かすかに温かくなった気がした。


「私も」エルザは静かに言った。


「孤独だとわかっていながら、一人でいることに慣れきっていました。でもあなたと話して……久しぶりに、言葉の出し方を思い出しました」


「それは良かった」


「良かったのかどうか、まだわかりません」


「なぜですか」


「……慣れてしまうと、いなくなった時が怖いから」


アルフレートはその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。


「分かります。いなくなる側の気持ちも、私はよく知っています。妻のエリーゼは、そんな自分を心配してくれた」


「……奥様は」


「最後まで、心配してくれました。二百年以上前のことです。今でも、鮮明に覚えている」


沈黙が流れた。暖かい沈黙だった。



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第五章 テレーズ邸の午後

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エルザは初めて自分から動いた。


エルザの評判が低下し続け、アルフレートが訪問しづらくなったため、テレーズ・マルクールに面会を申し込んだのだ。


理由を問われると思っていた。でも使者が戻ってきた時、「明日の午後、お越しください」とだけ書かれた返事があった。驚いた。テレーズも、エルザが来ることを待っていたのかもしれなかった。


マルクール侯爵邸の応接室は、エルザの屋敷より二回りは広かった。金と白で統一された室内に、テレーズはいつも通りの微笑みで座っていた。エルザが入ると、丁寧に立ち上がり礼をした。まるで普通の訪問客のように。


「まあ、クロノスの令嬢。どういったご用件かしら」


「単刀直入に伺います。なぜ私を排除しようとするのですか」


「排除だなんて……私はただ社会の安全を——」


「マーガを買収したのもあなたですね。権力で脅してまで」


テレーズの微笑みが、少し固まった。扇を持つ手が、わずかに止まった。


「……お気に召さなかったなら申し訳ないけれど、私はただ、あの老女中の身体を気遣っただけで——」


「陛下に近づけたくない理由があるはずです。単なる社会的な嫌がらせにしては、手が込みすぎている。答えてください」


しばらく、沈黙があった。長い沈黙だった。


テレーズの表情が、初めて変わった。微笑みが落ちて、その下にある本当の顔が出た。思っていたより——疲れた顔だった。疲れて、怯えて、それを隠し続けてきた顔だった。


「……フェリクスを知っているかしら」


「息子さんですね。一度お会いしたことが」


「あの子は、一年前からあなたを……」


テレーズは一度口を閉じ、ゆっくりと続けた。


「あなたのことを気にかけているの。遠くから、ずっと。夜会でも、庭でも、どこかあなたを目で追って。私は気づいていた。あの子は優しすぎて、あなたの呪いを知っても引かなかった。むしろ、どうにかできないかと、呪いを解く方法を調べていた。そんな馬鹿なことを……」


エルザは黙って聞いていた。


「私はただ……息子が死ぬのが怖かった。あなたと接触したら、息子が死ぬかもしれないと思って……だから、あなたを遠ざければ良いと……あなたが社交界から消えれば、あの子も諦めると……」


「だから私を消そうとした」


「……そうよ」


「だから使用人を買収した」


「……そうよ!」


テレーズの声が、初めて感情的になった。扇が、床に落ちた。


「私は、息子を守りたかっただけなの! あなたが憎かったわけじゃない! でも、でもあの子が傷つくのを見ていられなくて……呪いのことがなければ、私だって……っ!」


「……」


「間違っていたとは、わかっています。でも、手段は選べなかった」


エルザは黙って聞いていた。


怒りはなかった。不思議なほど、なかった。


(この人にも、呪いゆえに傷つけてしまっていた……)


「……わかりました」


エルザは静かに立ち上がった。


「テレーズ夫人。私はあなたを責めに来たわけではありません。ただ、もうおやめください。それだけです」


テレーズは何も言わなかった。ただうつむいて、扇の縁を指でなぞっていた。その姿が、ひどく小さく見えた。


   ◆


応接室を出た廊下に、フェリクスが立っていた。


端正な顔が青ざめていた。

どこまで聞いていたのか——だが、その目を見た瞬間、エルザには全部わかった。


「……エルザさん」


「フェリクス様」


「少し、よろしいですか」


(はっきりと伝えないと……)


庭に出た。春の終わりの風が吹いていた。フェリクスはしばらく黙って歩き、噴水のそばで立ち止まった。水の音だけが聞こえた。


それから、まっすぐエルザを見た。


「母のことは……申し訳ありませんでした」


「あなたが謝ることではありません」


「いいえ」フェリクスは静かに首を振った。


「僕が情けなかった。あなたのことを想っていながら、母が何をしているか、気づけなかった」


(……想っていた)


「エルザさん、一つだけ言わせてください」


フェリクスは一度目を伏せ、それから顔を上げた。覚悟を決めた顔だった。青さの中に、静かな決意があった。


「僕はあなたのことを……想っています。呪いのことは知っています。親しくなれば死ぬかもしれない。それでも伝えないまま終わるのは、僕には無理だった」


風が吹いた。噴水の水が揺れた。


エルザの胸の中で、何かが温かくなった。同時に、何かが痛んだ。


(うれしい。本当に、うれしい)


フェリクスは誠実だった。侯爵家の跡取りで、穏やかで、真っ直ぐで、こんな令嬢のために死を覚悟して言葉を選んでくれた。三年間、遠くから見ていた。その重さを、エルザは知っていた。


でも。


エルザの頭の中に、灰色の目が浮かんだ。三百年の疲れを抱えた目。少し急ぎではなくなった、と言った時の、あの静かな声。いなくなる側の気持ちも知っている、と言った人の顔。


(……私には、もう)


「フェリクス様」


エルザは静かに言った。


「あなたの言葉は、本当にうれしかった。あなたはとても誠実な方です。遠くから……ありがとうございました」


エルザは少し間を空けた。言うべきか迷った。でも不誠実にはなりたくなかった。


「私の心には、すでに別の人がいます」


フェリクスは、しばらく動かなかった。

水の音だけが続いた。それから、静かに笑った。悲しい笑い方だったが、責めるような色はなかった。


「……そうか」


「ごめんなさい」


「謝らないでください」フェリクスは首を振った。


「その方は……あなたを大切にしてくれますか」


「……わかりません。でも、私が大切にしたいと思っています」


「そうか」


それだけだった。


二人はしばらく、噴水の音を聞いていた。エルザはフェリクスに何も言えなかった。ただ、この人は真っ直ぐな人だと思った。こんな令嬢に、死を覚悟して向き合ってくれた人だと思った。


テレーズ邸を辞する時、廊下の角でテレーズの後ろ姿が見えた。フェリクスのそばへ、静かに歩いていく背中だった。小さく、少し丸まった背中だった。エルザは振り返らずに外へ出た。



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第六章 触れる夜

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屋敷に帰ってから、エルザはアルフレートに手紙を書いた。


「お時間はありますか」


返事は早かった。


「いつでも」


アルフレートの屋敷は、王都の外れにある古い館だった。隠居らしく、飾り気のない石造りの建物だった。応接室に通されると、アルフレートは暖炉のそばに立っていた。手紙を受け取ってすぐ火を入れたのか、部屋はすでに温かかった。


エルザは暖炉の火を見つめたまま、フェリクスから告白されたこと、そしてそれを断ったことを静かに伝えた。


「あの方は、私を想っていると言いました」


エルザの顔は蒼白だった。膝の上で、手袋をした両手が小刻みに震えている。


「私の呪いは、愛された者が死ぬというもの……フェリクス様は、きっと……」


その先の言葉を紡ぐことができず、エルザは唇を噛んだ。

自分のせいで、あの誠実な命を落とすかもしれない。その恐怖に押し潰されそうになっていた。それを聞いてほしかった。


アルフレートは静かにその言葉を聞いていた。灰色の瞳に、これまでにない熱と、深い痛切な色が宿っていた。彼はゆっくりと息を吐き、エルザの前に進み出た。


「エルザ」


その声は、驚くほど優しかった。


「私は三百年、死を望んで生きてきました。剣も毒も私を殺せなかった。あなたに近づいたのも、初めはそのためでした」


「……はい」


「ですが、今は違います」


アルフレートは、震えるエルザの手を、手袋の上からそっと包み込んだ。


「あなたと語り合い、あなたの不器用で優しい心に触れるうちに……私は、死ぬためではなく、あなたと共に生きるためにここに来たいと思うようになった」


エルザは息を呑んだ。


「私は、あなたを愛しています」


静かな、だが確かな告白だった。


「いけません……!」


エルザは弾かれたように手を引こうとした。


「私を愛せば、あなたは死んでしまう! 両親のように、命を削られて……! 私は、あなたに死んでほしくないのです!」


「私は不死です。それに……」


アルフレートは微笑んだ。三百年の孤独を溶かすような、柔らかな笑みだった。


「もしこの身が滅びるのだとしても、私はあなたを愛さずにはいられない。どうか、私に触れさせてくれませんか」


エルザは泣きそうになりながら、首を振った。愛する者をまた失う恐怖が彼女を縛り付けていた。だが、アルフレートの目は真っ直ぐに彼女を捕らえて離さなかった。


「いつも手袋をしていますね」


「触れると呪いが伝わると思って……」


「思っている、というのは、確認したことがないということですか」


答えに詰まった。エルザは十六年間、素手で誰かに触れたことがない。確かめるために誰かを危険にさらすことなど、できるはずがなかった。


「……確かめることはできません。確認して誰かが死ねば手遅れです」


「なるほど」


アルフレートは、エルザの震える手を優しく包み、そして手袋を外した。


「怖いなら、目を閉じていていい。私が、あなたの呪いごと受け止めよう」


十六年ぶりに素肌に触れた。冷たかった。それから、アルフレートの大きな手が、彼女の素手に重なった。


温かかった。


何も起きなかった。少なくとも、すぐには。

アルフレートの体温が、彼女の凍りついていた心を溶かしていくようだった。


エルザは目を閉じ、声を出して泣いた。誰かの手を素手で握るのが、これほど温かいものだとは、思っていなかった。


六歳の夜から積み上げてきた孤独が、一気に溢れ出した。アルフレートはただ静かに、彼女の涙が枯れるまでその手を握り続けていた。



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第七章 数年後の春

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それから五年が過ぎた。


エルザとアルフレートは、静かに共に暮らした。派手ではなかった。社交界には必要な時だけ出て、あとは二人で館の庭を歩いたり、本を読んだりした。手袋はしなくなった。アルフレートの手に触れるたびに、まだ少しだけ驚く。温かい、と思う。それだけで、十分だった。


時折フェリクスが顔を見せた。

彼は数年後に別の令嬢と結婚し、穏やかな家庭を作っていた。エルザと顔を合わせると、静かに微笑んで「お元気そうで」と言った。それ以上のことは何も言わなかった。エルザも何も言わなかった。それで十分だと、二人ともわかっていた。


五年目の春に、アルフレートが体調を崩した。


最初は小さな変化だった。


以前より早く疲れる。食が細くなる。眠る時間が長くなる。それだけだった。でもエルザにはわかっていた。


呪いが動き始めた。


「医者を呼びます」


「必要ない」


「呼びます」


アルフレートは止めたが、エルザは聞かなかった。医者は首をひねった。不死の身体のはずが、確かに弱っている。原因はわからないと言った。エルザにはわかっていた。わかった上で、医者を追い返し、アルフレートの隣に座った。


「……怒っていますか」


アルフレートが聞いた。


「怒っていません」


「でも、顔が」


「怒っていません」


「そうですか」


しばらく、沈黙があった。部屋に午後の光が入っていた。


「エルザ、私は怖くありません」


「……わかっています」


「ずっと死にたかった。それは変わらない。ただ——」


少し間があった。


「あなたと過ごした時間は、予想していなかったものでした。三百年生きて、もう何も驚かないと思っていた。でもあなたは、驚かせてくれた」


エルザは何も言えなかった。


「感謝しています」


「……私の方こそ」


「いいえ、私の方が」


アルフレートは小さく笑った。それから、手元の羊皮紙を示した。


「王家への書状は書きました。後継への言葉も。心配いりません」


「……そんな話をしないでください」


「しなければならないことは、しておきたい」


アルフレートはエルザの手を取った。素手のまま、力強く握った。


「エリーゼのところへ行ったら、怒られるでしょうね。三百年待たせておいて、最後に別の人を好きになったのかと」


「……さっさと謝ってください」


「ええ。それからあなたのことを話します。こんな人がいたと。」


「……アルフレート」


「なんですか」


「あなたと話して——よかった」


「私もです」


「あなたのおかげで、私は……少しの間、手袋を外せた」


「それは良かった」


アルフレートは目を閉じた。窓から光が入っていた。


「エルザ、あなたは長く生きてください」


「……」


「誰かを大切にして、大切にされて」


「それは」


「呪いによって、あなたはずっと、誰かのために自分を縛っていた。でも、あなた自身はもっと自由に生きていいのです」


エルザは、握られた手を強く握り返した。


「……わかりました」


「良い子だ」


それが最後の言葉だった。


アルフレートは、翌朝の夜明けに静かに逝った。



━━━━━━━━━

第八章 誓いの、その先へ

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誰からも愛されずに、誰も愛さずに、死んでいく。


六歳の夜に立てた誓いを、エルザは守れなかった。


守れなかった代わりに、得たものがあった。


素手で誰かの手を握った感触。暖炉の前で泣いた夜のこと。庭を並んで歩いた春の午後のこと。怒られてしまうかな、と笑った横顔のこと。感謝する、と言った声のこと。


アルフレートの書状は、王家へ届けられた。


春の庭に、一人で出た。


アルフレートがよく立っていた場所に、エルザは立った。手袋はしていなかった。素手のまま、風を受けた。


(ありがとうございました)


心の中で、言った。


誰からも愛されてはいけないはずだった。誰も愛してはいけないはずだった。でもあの人は来て、傍にいて、最後に感謝して逝った。


誰からも愛されずに死ぬと誓った人間が、「愛している」と言われた。


それがどれほど重いことか、エルザにはまだうまく言葉にできなかった。ただ、胸の中に何かが残っていた。悲しみではなく、冷たさでもなく、温かくて、少し痛い、あの感覚。


(でも、もう誰も触れることはない)


風が吹いた。


エルザは空を見上げた。春の光が、素手の手のひらに落ちてきた。


どこかで怒っているかもしれない人が、少しだけ笑ってくれている気がした。


エルザは、手のひらを静かに閉じた。


温もりは、もうそこにはなかった。


でも、かつてあったことは確かだった。それだけで——それだけで、十六年間の誓いは、報われた気がした。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「『愛してくれた人が死ぬ』呪いの令嬢は、不死の元王に最後まで愛された」、いかがでしたか?


よかった!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)

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