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翡翠宮の麗さん


 翡翠宮は、後宮の中でもひときわ華やかな殿舎だった。朱塗りの柱に金箔を散らし、梁には鳳凰と牡丹の彫刻が施され、夜になると無数の宮灯が揺れて、まるで地上に落ちた星の海のように輝く。

 回廊の床には贅沢なほどに厚い絨毯が敷かれ、歩くたびに足音が消える。空気には沈香と麝香が混じり、かすかに甘く漂う。


 宮付きの女官たちは、皆、麗妃の寵愛の下で働くことを誇りに思っていた。なにせ、麗妃は今のところ一番最後に「お手が付いた妃」である。ご寵愛を一身に受ける妃というわけではないが、後宮を訪れる回数が極端に少ない皇帝の目を引いたのだ。


 そうなると食事は上等なものばかり、衣類は新調され、化粧道具は西域から取り寄せた珍しいもの。「麗妃様のお側にいられるだけで、人生の半分は勝ちだわ」と、彼女たちは陰で囁き合う。嫉妬の炎はもちろん燃えているが、それは外に向かうもの。内側は、華やかで、甘く、心地よい。そんな翡翠宮の門前に、一人の小さな影が立っていた。煤けた薄桃色の袍、ボサボサの髪、これでも皇女の羊姫。


 門番の女官が、眉をひそめて見下ろす。かりにも「皇女」である。粗末に扱えば、後で皇帝の耳に入るかもしれないが、入らないかもしれない。そもそも羊姫は捨て置かれた姫君、追い返しても誰も咎められはしないのではないかと思う反面「それでも皇女なんだよな……」という葛藤。普段無視はするけれど、面と向かって自分の視界に入られれば「皇女……なんだよな」と、どうしたって脳裏にちらつく厄介さ。


 だが、女官たちは就寝中の麗妃を叩き起こせるほどかと考えると、とりあえず首を振れる。


「麗さんにお話しがありまして。お取りぎいただけますか?」

「……それは、ちょっと…」

「ねぇ……?もうお休みですし……」

「厳密には寝てないでしょ?」


 羊々は女官たちを見上げて首を傾げる。


 麗妃の騒音問題はまさにそれだ。入床しても、早々には寝付けない。うなされるのか、叫んだり恨み言をぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつと呟き続け、それならそれでいいのだが、この妃、牛や馬を折檻させるのだ。


「……それは、その」


 今この間も、ひっきりなしに聞こえてくるのは鞭打たれる動物の悲鳴である。これでは余計麗妃も眠れないのではないかと思うのだが、これらの音を聞きながら安心して眠れるらしい。この妙な癖の所為で、麗妃は羊々の暮らす冷宮のような「後宮の端」に追いやられているのである。


「……明日、改めてお伺いいただけますか?それとも、内容をこちらで承りましょうか」


 女官は腰を屈めて丁寧に申し出た。親切心、である。だが羊々は、無表情で首を振った。「別にご本人に会えずとも、この音の現況をどうにかしていただいて。動物虐待反対。幼い私の情操教育に悪いです」

「え、えぇえ……」


 ずかずかと羊々は宮内に入り込んだ。小さな姫の身体であるので、ひょいひょいっと、女官たちをかわせる。


 そうしてたどり着いたのは、翡翠宮の最奥、麗妃の寝所。扉は半開きで、そこから漏れるのは、甘く重い沈香の香りと、混じり合う、牛の苦悶の鳴き声。鞭が肉を裂く、乾いた音が、規則的に響いている。


 ぱしん、ぱしん。ぱしん。


 寝台の上では、麗妃がぼんやりと横たわっていた。十六歳かそこらの若さで、肌は雪のように白く、髪は黒檀のように艶やか。しかしその目は、どこか焦点が合っていない。焦燥と苛立ちが、薄く膜のように張り付いている。傍らに控える女官が、大きな孔雀の羽根で作られた団扇をゆっくりと仰いでいる。


 風が届くたび、麗妃の薄絹の寝衣がわずかに揺れる。牛の悲鳴がまた一つ、大きく上がった。羊々は、ずかずかと寝所に踏み込んだ。


「こんばんは」


 麗妃は、ゆっくりと顔を上げた。


「……なぁに」 


 声は低く、甘いが、優しさがない。羊々は、煤けた袍の袖を軽く払い、丁寧に名乗り、用件は騒音問題の苦情申し立てであると告げる。


「あぁ、皇女。へぇ……こんな夜更けに、わざわざ」


 麗妃は寝台に肘をつき、身を起こした。団扇を仰ぐ女官の手が止まる。


「集団生活ですからね、後宮は。近隣住人への配慮がほしいです。鞭の音、牛の悲鳴、恨み言の独り言……これでは眠れません」


 麗妃は、鼻で笑った。


「だから何? それが何。私が私の好きなようにして、何が問題なの。近隣への配慮? どうして?

この辺りで一番美しいのは私よ。私が私の好きにして、どうしていけないの」

「え、そこから……?道徳の授業から希望ですか……?」

「……」


 羊々の言葉を戯言と思っているのか、麗妃は取り合わない。ゆっくりと寝台から降りると、薄絹の衣が床を滑り、足元に広がる。それだけの所作だが、使える女官たちが息を呑むほどに美しい。


「世間知らずで誰も構ってくれない人畜無害な羊のお姫さま、教えてさしあげましょうか?私は元々踊り子だったの。辺境の小さな楼で、毎日踊っていたわ。よくいる女の一人ね。でも、私はとびきり綺麗だった。だから、後宮へこれたし、皇帝陛下も私を「綺麗だ」っておっしゃってくださったわ」


 羊々は顔も知らない皇帝(父)が、こんな若い娘にまで手を出しているのかと正直引いているが、麗妃にとってはそれはこの上ない名誉なことなのだと言う。


「貴族出身の妃たちからは「下賤の踊り子」と陰口を叩かれてる。わかっているわ。でも、それが何?」


 麗妃は、羊々を見下ろした。


「皇女様。本来なら私は貴方と口を利くことも許されないんでしょうね。でも、今は違う。わかるでしょう?見て頂戴、この調度品、この服、この宝石。貴方は一つだって持っていて?」

「ないですね」

「そうよね、貴方の身分は、生まれ持ってのもの。貴方が努力して得たわけではないわ。でも私は違う。何もかも、自分の才覚で手に入れたのよ。自分の力じゃ何も手に入れていない、ただ生まれてぼんやり生きているだけの貴方に、『私の為に静かにして』なんて命令されるいわれはないわ」


 寝所に、静寂が落ちた。

 鞭の音だけが、ぱしん、ぱしん、と続いている。羊々は、じっと麗妃を見つめた。


「なるほど、それはそうですね」


 麗妃の主張に、羊々は素直に頷いた。なるほどなるほど、それはそうか、と一理あると幼女が頷くと、はらはらと聞いていた女官たちは「え、そこ納得するの?」「しちゃうの??」と顔を引きつらせる。


「他人の趣味趣向ですものね、自由が許される範囲はどこまでか、というところですが……仰る通り、後宮は権力主義ですからね……麗さんが動物を虐げないと安心して眠れない性癖の持ち主であるなら……仕方ありませんね。良いんですよ、性癖は人それぞれです」


 にこっと、慈愛に満ちた目を向けると、なぜだか麗妃がぴくん、と不快げに眉を跳ねさせた。それはそうだろう。性癖呼ばわりである。これで怒らない方がおかしい。


「何も知らないくせに……」

「初対面なので、それはそうかと」

「ねぇ、鞭を貸してちょうだい」


 麗妃は女官に命じた。


「麗妃様…そ、それは……」

「いいから寄越しなさいよ」


 何をしようというのかは、彼女の性格を良く知る女官たちは予期している。この生意気な幼女を鞭で打ってやろうというわかりきったこと。だが、さすがに、それはさすがに、止めなければならないだろう。


「……いいじゃない。一つ、試してみるのも一つね。私が……ねぇ、どうかしら。どこまで、私は、陛下に許して頂けるほどの女なのかしら」


 淀んだ麗妃の目に、嗜虐的な光が浮かぶ。これはまずい、と女官たちは思うが、しかし、かといって主人か、顧みられない皇女かという天秤がすぐに決断できずにいる。


「あぁあああっとぉおお!!大変失礼します!麗妃様!!!!!!宦官のヨルでございます!!大変申し訳ございません!!!!!こちらの姫を!!姫さまを!!はい!!回収しますんで!!大変申し訳ありませんんんんん!!!!!!!!」


 しびれを切らした麗妃が女官の手から家畜用の鞭を奪い取るのと、バタン、バタバタとあわただしく、黒髪糸目の宦官が飛び込んでくるのは同時だった。


 一瞬、さっと、まるで春の風でも吹いたように瞬間的に、麗妃の目の前から羊々が消える。素早く幼い皇女を抱き上げたヨルは、それでも退出の挨拶だけは丁寧に口上して、翡翠宮を後にした。



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