1つ目、環境改善を試みよう
ヨル・ウスル下級宦官は、今日も朝から足が棒になっていた。下級宦官は階級こそ低いが「忙しさ」だけは上級妃の侍女たちに引けを取らない。
朝は妃嬪の起床前に香炉の火を整え、湯を沸かし、朝餉の支度を手伝い、昼は各殿舎の掃除、薬草の運搬、妃嬪たちの小言対応、夕刻からは灯りの点検、巡回の強化。後宮に出入りできる唯一の「男」という種別であるので、力仕事も多かった。
その上この後宮では夜中になれば、誰かが毒見で倒れたり、誰かが嫉妬で物を投げつけたり、誰かが泣き叫んで壁を叩いたりと大変活発である。宦官は「静かにしろ」と叱る側ではなく「静かにさせろ」と命じられる側になる。異国から奴隷として売られてきたヨルにとって、去勢されて宦官になるのは確かに痛かったが、「生き延びられる」選択肢の中ではマシだった。
少なくとも、鉱山で死ぬことや、戦場で矢や剣で死ぬことはない。この後宮では宦官の命も軽く、気を抜けば朝日を迎えられない、というのはあるが、ヨルは「うまくやっている」方だった。
もちろん要領の良い方ではない。ただ、文句を言わず、今日も淡々と足を動かすのだ。意思主張はしない。ただ「動く道具」と思われればそれでいい。気分の上下の激しい妃たちも、自分の家具にあたり散らしても憎悪は向けない。そういうものだ。
さてある日。
翡翠殿の麗妃様が珍しく早めに休まれたせいで、就寝の準備が前倒しで終わったのだ。ヨルは、いつものように冷えた粥を腹に詰め込んだ。そうして時間が空くと、上級宦官がちょっとした「暇つぶし」を思いついて下級宦官や下級女官に何か命じる。それを心得ているヨルは率先して雑用を引き受けて、かれらの視界に入らないように努めた。
くず拾いでもするかと、後宮の端っこにある忘れられた冷宮の方へ足を向ける。蔦が壁を覆い、瓦が欠け、鼠が天井を走る廃墟のような一角。人畜無害の羊姫が、ひっそりと置かれている場所。羊姫のことは知識としては知っている。母親は「敗者」であり、この後宮を生き延びれなかった。戦神である皇帝陛下は滅多に後宮に戻らず、第一皇子、第二皇子は「貴重な王族」として扱われ、第一皇女は母親の高い身分により匿われている。だが第二皇女は顧みられていない。貴重な王族であるというのに奇妙なことだと、ヨルは聞いた当初不思議に思った。だが「そういうものなのだ」と言われれば「わかりました」というしかない。皇女の生まれ、だが「誰の目にもとどめられない」存在でなければならないという皇女。
その皇女の住まい。ヨルは、いつもなら素通りするだけだった。
だが今日は、ふと視線が上がった。
……壁をよじ登っている少女がいた。
煤けた薄桃色の袍が風に揺れ、ボサボサの髪が月明かりに白く浮かぶ。
小さな手で蔦を掴み、足をかけ、必死に上を目指している。
…………見間違いだな。
十歳そこそこの幼い体で、まるで逃げ場を探す小動物のようによじ登っている。後宮にこの年齢の子供はいない。子供はいたとしても13歳からだ。なぜ13歳からか。子供を産めるからだになるからだと聞いている。視線の先の幼女は明らかにそれより幼い。となると、この年齢の子供は例の羊姫だろう。侍女や下級女官、下女よりもみすぼらしい姿だが、皇女しか該当する人物がいない。ならより、見間違いだ。ふぅ、疲れているらしい。今日は仲間たちに具合が悪いとでも言って早く休むかと、現実逃避をしたくなった。
こんな時間にこんな場所で仮にも皇女殿下がいらっしゃるわけがない。いないでくれよ。。
「あ、こんばんは」
だがヨルの願い空しく、ヨルの姿を視認した少女はよじ登る体制のまま明るい声で挨拶をする。
「え、ぇえええ……」
そんな普通でいいいのか??
ヨルは顔を引きつらせた。するとずるっと、幼女の足元が滑る。慌ててヨルは落下していく幼女を受け止めた。
「ありがとうございます」
「え、え、えぇええ…………お、皇女様?ですよね」
「カテゴリー的には」
「かて……?」
足元に落ちた蔦の葉を払いながら、淡々と皇女殿下は頷く。
「……もしや、脱走を……?」
ヨルは恐る恐る問いかける。
無理もない。保護者もおらず、まともに侍女もつけられていない。餓死しないだけの最低限の環境で、満足に教育も受けられない状態を、皇女が受け入れられるものか。食事は粗末、衣類はぼろ、陽の当たる場所すら与えられず、こんな廃墟で育つのは、どんな皇女でも可哀想だ。ヨルは胸の奥で、ほんの少し、憐れみの感情が湧くのを感じた。
宦官の問いかけに、羊姫は神妙な顔で頷いた。
「環境改善です。こんなところで健やかな成長期は送れません。すでに身体の成長に影響が出ていると判断しています」
「……それは、お気の毒に」
「夜、うるさくて眠れなくて。もうキレそうなんです」
「……え、そこ!?」
一瞬、頭が真っ白になった。衣食住の不満より、睡眠不足の不満の方が先に来るのか!?
しかし羊姫は真剣である。後宮で生まれ育った自分だが、年がら年中聞こえる拷問の悲鳴、阿鼻叫喚、なんだここは蟲毒の壺の中かと思うような悪辣な環境。
「な、なるほど……」
もちろんヨルは多少周囲がうるさくても眠らないと次の日が辛いので気合で眠る。それが出来るのは大人の男だからというのもあるかもしれない。この幼い姫には辛いだろう。
「なら……そうだ。私がせめて屋根裏に仮の寝床を。壁に板を貼れば音も少し遠ざかるのではないでしょうか」
親切心からの申し出。
大人として、こんな子供が置かれている環境を「自分のちょっとした時間」と労力で何かできるのならという善意。
「それはそれで素敵な提案ですが、今の私が求める環境改善はそれではありません」
「……つまり?」
「尤も近い騒音への苦情申し立てです」
冷宮のお隣さん。
翡翠宮の麗妃様へ「煩いので静かにしてくれませんか」と、直訴しに行くと、幼女は仰る。
「こ、殺されますよ姫!!!!!!!!!!」
不敬も何もあったものではなく、ヨルは思わずそう突っ込みを入れた。
騒音トラブルは住居あるあるですからね。




