第7話:黎明の花
朝靄の帝都。
白い霧の向こうで、鐘が鳴った。
長い戦の終わりを告げるように、静かに、深く。
馬車の列が城門をくぐると、人々のざわめきが波のように広がった。
今は“敵国の姫君”であっても、皇太子の妻となり、やがては帝国の母となる存在。
誰もが、その姿を一目見ようと息を呑んだ。
御者が馬を止める。
殿下が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
その瞬間、空気が変わった。
扉が開く。
金糸の髪が朝日に溶け、霧の向こうで暁の輪郭を纏う。
まだ陽は弱く、街は半ば眠っていた。
けれど、あの方だけが確かに“朝”そのものだった。
通りの端で、白髪の老人が帽子を脱いだ。
若い職人たちが息を呑み、手にした道具を取り落とす。
母親が子を抱き上げ、囁く。
「わぁ…お姫様、綺麗ねぇ。」
子どもが小さな手を振り、周りの大人たちが思わず微笑んだ。
裾が風に揺れるたび、淡い金がひとひら舞う。
その姿を見て、誰かが小さく呟いた。
「……まるで、夜明けに咲く花だな。」
最初はひとりの呟き。
次の瞬間には、幾つもの口が同じ言葉を紡いでいた。
「“黎明の花”だ。」
老いた声が、若者の声と重なり、子どもの笑い声に溶けていく。
波のように広がるその名は、祈りのように帝都を包み込む。
民の表情に、初めて歓喜が宿った。
殿下は何も言わず、ただ微笑み、静かに一礼した。
その仕草ひとつで、ざわめきが風のように静まる。
──誰もが、見惚れていた。
私は、その横顔を見ていた。
彼女はただの“王国の花”ではない。
輝くために光を浴びるのではなく、
光そのものを、生む人だ。
(……黎明の花。まさに、その通りだ。)
その名が広がるたび、胸の奥に何かが灯るのを感じた。
もう、この国の人々は“敵国の姫”を見てはいない。
ただ、夜明けを──未来を見ているのだ。
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城に到着したとき、ラッパが鳴り響いた。
近衛騎士たちが整列し、帝国旗を高く掲げる。
赤い絨毯が、白い石畳の上に長く延びていた。
(ここからは……私の役目ではない。)
殿下が馬車を降りる。
人々の視線が一斉に注がれるのを、私は少し離れた位置から見ていた。
「──よくぞ参られた、エルスーアの王女殿。」
静寂を割るように、低く、澄んだ声が響く。
その声だけで、場の空気が変わった。
言葉に合わせ、群衆が道を開ける。
「両国を結ぶ和平の架け橋として、帝国皇太子、クロイツァー・オルヴァンスが、ここに帝国を代表して歓迎しよう。」
──帝都の中心、皇太子クロイツァー・オルヴァンス。
夜を閉じ込めたような黒髪に、氷のごとく透き通った青い瞳。
整った顔立ちは冷たく、だが人の目を離させぬ強さを帯びていた。
陽光を受けると、その輪郭が金の縁取りを纏ったように輝く。
軍装に似た重厚な礼服。
肩章には、帝国の双獅子の紋章。
その姿は、ただの皇子ではない。
一国を背負う男の、それだった。
そして、彼の声。
冷たくも、よく通る。
ひとつの命令で戦場を動かす者の声だ。
その目は、あくまで冷静に王女殿下を見つめていた。
憧れでも恋でもない。
“観察”の目。
王女殿下は、その視線を真正面から受け止める。
微笑を保ったまま、胸の奥で静かに息を潜めた。
どちらも、一歩も引かない。
まるで、二つの太陽が同じ空で輝きを競っているようだった。
「お初にお目にかかります。エルスーア王国第一王女、エレツィア・シャルル・エルスーア。
“帝国の獅子”たるお方にお会いできて、光栄に存じます。」
「ふっ……いかに“帝国の獅子”といえど、“王国の花”の前では霞んで見えよう。
──いや、“黎明の花”と呼ぶべきか。」
あの言葉を、もう知っている。
早い。──さすがは帝国。
「城下の民は、すでに貴女に魅せられている。
貴女の存在こそ、帝国の新たな夜明けだ。」
「過分なお言葉ですわ。
けれど、民が微笑んでくださったのなら……嬉しく思います。」
彼の目が一瞬だけ、柔らかく細められた。
だが次には、王者の顔に戻っていた。
「…まだ語らいたいところではあるが、お疲れであろう。
まずは休まれるといい。長旅の疲れを癒し、式典に備えてくれ。」
「お心遣い、感謝いたします。」
そして、皇太子殿下は私に目を向けた。
「よくぞ彼女を俺の元に送り届けてくれた、黒曜。」
「はっ。」
「落ち着いたら執務室へ来い。話がある。」
そう言い残し、彼は去っていった。
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静寂。
広間に残されたのは、ふたりだけ。
「ヴィクトリア、ありがとう。
貴女がいたから、ここまで来られました。」
「……任務ですので。」
「ふふ、やっぱりそう言うのね。でも、知ってるわ。貴女、照れているでしょう。」
「……」
「やっぱり。」
殿下は少し微笑んで、けれどすぐに真面目な声に戻った。
「短い間だったけれど、貴女と過ごした日々は宝石のようだった。
──わたくしは、まだ世界を知らなかったのね。」
何も答えられなかった。
ただ、胸の奥で何かが熱を持つ。
「……あの星空の下のこと、覚えているわ。
いつか、あの約束を果たしましょう。
平和な時代を、ふたりで見届けましょう。」
「……必ず。」
振り返り、殿下が去っていく。
赤い絨毯の上に、金の髪が流れる。
その光が遠ざかるたび、胸の奥が静かに痛んだ。
私は大理石の床を踏みしめ、反対の方向へ歩き出す。
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ふたりの道は、一瞬だけ離れた。
けれど──再び交わる日は、きっとそう遠くない。
この出会いは、
大陸に吹き荒ぶ嵐の幕開けか。
それとも、真の黎明の始まりか。
今はまだ、誰にもわからなかった。
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帝都の夜はまだ静まりきってはいない。
王国との和平を快く思わぬ者たちが、
闇の奥で、ひそやかに息を潜めている。
白い聖布の下、祈りを捧げる者。
帝都の影に隠れて、密約を交わす者。
それぞれの“信念”が、まだ熱を帯びていた。
祈りの声と、刃を研ぐ音。
そのどちらもが、同じ夜風に混じり合う。
平和の鐘が鳴るその影で──
まだ、戦の火種は消えていなかった。
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第一章 黒曜と黎明の序曲 完
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これからのんびり更新します。




