第45話:これまでも、これからも
皇后の私室。
穏やかな昼下がりの陽光が、柔らかい光の帯となって窓から差し込んでいた。
外の喧騒は遠く、ここだけがゆったりと世界から切り離されたような静けさに包まれている。
長椅子には、寄り添うようにふたりが並んで座っていた。
肩と肩が触れ合い、体温が伝わるその距離が、どこか懐かしくさえ感じられた。
「……ずっと一緒にいたはずなのに、ずいぶん久しぶりに感じるわ。」
エレツィアが、小さく息を漏らすように呟いた。
「私も同じ気持ちです。……本当に、色々とありましたから。」
祝賀会のあと、数ヶ月の日々が怒涛のように過ぎていった。
ノーレの復興作業の指示。
戦役の遺族への慰労。
戦勝と御子の誕生を祝して開かれる連日の夜会。
それ以外にも、公務と政務は山のように積み重なり──
こうして肩を並べて穏やかな午後を過ごす時間は、気付けば久方ぶりのことだった。
ふと、エレツィアの手がそっと伸びて、ヴィクトリアの手の上に重なった。
その瞬間、ヴィクトリアの肩がわずかに跳ねる。
「クロイツァーさまとヴァイス侯には、感謝しなくてはならないわね。
私たちの政務を肩代わりしてくださったもの。」
「ええ。兄上も宰相閣下も激務の中、私たちの時間を作ろうとしてくださって……ありがたいことです。」
エレツィアの指先が、控えめにヴィクトリアの手の甲をなぞった。
「シュヴァルツとクラウディアも、首がすわり始めたわ。
もう少ししたら、みんなでどこかへ出かけたいわね。」
ヴィクトリアが手を返し、その手を優しく包み取った。
今度はエレツィアの肩が、ぴくりと跳ねる。
「よろしいのではないでしょうか。
……兄上にも、息抜きは必要です。」
ヴィクトリアの親指が、エレツィアの手のひらをそっと撫でる。
くすぐったさに耐えきれず、エレツィアが思わず笑い声を漏らした。
「……もうっ。いたずらをして。話に集中できないわ。」
その笑みに、ヴィクトリアも静かに表情を緩めた。
「最初に始められたのはエレツィアさまです。」
ふたりの笑みが重なり、私室には柔らかい笑い声が満ちた。
やがて、エレツィアが紫水晶の瞳をそっとヴィクトリアに向ける。
「……ねえ、ヴィクトリア。いつまで近衛を続けるつもりなの?」
ヴィクトリアは目を伏せ、言葉を選ぶように静かに答えた。
「まだ、しばらくは。ノーレの残党が残っているかもしれませんから。
……本当に平和になったのだと確信できた時。
その時は、“ヴィクトリア・ロムルス”の名と共に──“剣聖”を辞そうと思います。」
エレツィアはゆっくりと頷いた。
「……分かったわ。でも、どこかへ行ってはだめよ。私の傍にいてね。」
「もちろんです。エレツィアさまがどこに行こうと、お供いたします。
……侍女として必要な作法は、ラウラさんに教えていただかねばいけませんね。」
「ラウラは教え方が上手だから、すぐに慣れるわ。
でも……侍女でいいの? クロイツァーさまも、皇女として生きる道があると言っていたでしょう?」
ヴィクトリアはそっと首を振った。
「……降って湧いた皇女の存在は、民に歓迎されるとは思えません。
それに、私は意外とわがままなのかもしれません。
皇女の公務など御免です。
私はこれからも、貴女の傍に控えていたい。」
その言葉に、エレツィアはやわらかく微笑んだ。
「わがままなんてことないわ。大陸を救った勇者の言葉よ?
誰もが傅き、『仰る通りに』と言うのが当然でしょう。」
「ふふ。それでは、そのように。」
ふたりの間に、短い沈黙が落ちる。
だがそこには、張り詰めた気配など一切なく、ただ深い安らぎだけがあった。
エレツィアが天井を仰ぎ、小さく問いかける。
「……私たちの出会いは、“運命”なのかしら?」
「エレツィアさま?」
「私たちは“勇者の片割れ”同士でしょう?
なら、初めから神様が巡り合わせていたのかなって……ふと思ったの。」
赤い瞳がわずかに揺れたが、すぐに静かに首を振る。
「私は、そうは思いません。」
「……どうして?」
「五千年もの時があったのです。
もし神々が勇者同士を巡り合わせられるのなら、とっくに決着はついていたはずです。」
ヴィクトリアはそこで一度息を吸い、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「それでも私たちが“勇者”として巡り合ったのは──
……それぞれが懸命に生き続けたからこそです。」
赤い瞳が、まっすぐにエレツィアを見つめる。
「“運命”なんかじゃありません。あたしたちの出会いは。
神様に決められたんじゃなくて、あたしたち自身が選んだんです。
貴女を愛したことも、貴女と生きると決めたことも、全部。」
静まり返った室内で、互いの視線だけが強く結ばれた。
吐息が触れ合い、瞳に熱が宿る。
どちらからともなく──唇が重なった。
「……不思議ね。私が不安に思った時、貴女はいつも、私が一番欲しい言葉をくれる。」
「貴女のことを、この世で一番想っているのは私ですから。」
「ふふ……そうね。──貴女と出会えてよかった。」
「私もです。貴女と出会えてよかった。
……共に生きていきましょう。
これまでも、これからも。」
⸻
こうして、後の歴史家から“ノーレ戦役”と名付けられた一連の戦役は終焉を迎えた。
その三年後。
“黒曜の剣聖”ヴィクトリア・ロムルスは、剣を置き、帝都を去った。
同日に──“ソフィア・カルシェ”という名の娘が、新しく皇后付きの侍女として雇い入れられたのは、また別の話である。
⸻
第四章:黄昏と暁の終章 完




