第6話:無数の星が瞬いて
夜を越え、朝を迎えた。
夜明けの空は淡い群青に染まり、戦の匂いだけが微かに残っている。
吐く息が、朝靄に溶けて白く染まった。
本来なら休むべきだった。
だが、歩みを止めれば反対派が再び動くかもしれない。
帝都への強行軍を選んだのは、殿下ご自身の希望だった。
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帝国の街道を抜け、いくつかの領地を越える。
けれど、空気は常に、どこか冷たい。
(……やはり敵国の姫君、歓迎はされないか。)
街道に並ぶ民の数は少なく、視線も伏せがちだ。
微笑む者もいる。だがその陰に、わずかな恐れがあった。
(あるいは、反対派の策か。)
表に出ぬ者ほど、よく動く。
「帝国にとって不利益だ」──そんな言葉を、甘い毒のように流し続ける連中だ。
数字や噂を飾り、平和そのものを疑わせる。
殿下が、馬車の窓から空を見ていた。
その横顔にだけは、戦の影はなかった。
皮肉なことに、それ以降、襲撃はなかった。
レッゾ子爵のように刃を振るう者は稀だ。
平和の敵は、いつだって静かに潜む。
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やがて四日目の夜。
帝国騎士たちは手際よく野営の準備を整えた。
明日には帝都だ。
騎士たちの表情も明るい。
焚き火の光を頼りに、私は剣の手入れを始めた。
布で刃を拭うたび、金属が夜を裂く光を取り戻す。
この単純な作業が、唯一、心を落ち着かせる。
無心になれる時間。
──無心でなければ、思い出してしまう。
戦場を。
あの、ノーレとの戦を。
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二年前。
東国ノーレ王国からの軍勢が不意に押し寄せ、
帝国東部で防衛戦が起きた。
西ではエルスーアとの戦が長引き、兵は尽き、補給も乏しかった。
かき集めた一千の防衛隊で、五千の敵を迎えた。
死を覚悟するには十分な数字だった。
それでも、誰も退かなかった。
「我らには剣聖がいる!」
砦の指揮官の声が、まだ耳に残っている。
「剣聖が敵を斬り尽くすまで、我らは立ち続けるのだ!」
……だから、斬った。
斬って、斬って、斬り続けた。
千を超える敵兵を、骸に変えた。
──だが、敵を斬るそのたび、隣で仲間が死んだ。
槍が飛んだとき、初陣だという少年兵が私を庇った。
心臓に槍を受け、即死だった。
その亡骸は、笑顔だった。
矢の雨が降れば、帝都に母を残してきたという若い兵が咄嗟に覆い被さった。
「貴女がいてくれてよかった」と笑って──二度と息をしなかった。
古参の兵もいた。
「うちの娘ほどの小娘に、守られてばかりは癪だな」と笑い、
ほんの一時の足止めのために盾を構えて突撃し、帰らなかった。
後に戦場を探したが、屍すら見つからなかった。
皆、笑って死んでいった。
「剣聖がいれば勝てる」と、信じながら。
幾たびのノーレの攻勢を越え、
ようやく救援が来たとき、味方の生き残りは百にも満たなかった。
それでも人々は、私を讃えた。
「剣聖の勝利だ」と。
ふざけるな。
こんなものが、勝利であるものか。
誰一人、守れていない。
斃れた仲間の血の匂いが、今も鼻の奥に残る。
私は“護られる側”の小娘のままだ。
だから眠らない。眠れない。
眠れば、思い出す。
あの音を。あの匂いを。あの熱を。
あの、笑顔を。
「剣聖様」
「剣聖」
「剣聖殿」
──あたしを、そんな目で、見るな。
『ねえ、ヴィクトリア。貴女の剣は──綺麗ね。』
鈴のような声が、心の底で響いた。
あの夜の、殿下の声。
『……ねえ、ヴィクトリア。貴女、あの剣を振るうとき……“痛む”のね。』
『剣が、嫌いなの?』
胸の奥が、焼ける。
誰もそんなことを言わなかった。
誰も、私の痛みに触れなかった。
──かつて自らの剣に持っていた誇り。
そんなものは、争いの血風に流され消えた。
それでも、人々は私に剣を振るうことを望んだ。
剣聖だから。
剣に選ばれた者だから。
剣を振るうのが当然だと、そう言われ続けてきた。
だから、あの時、初めて心から言えた。
『……振るわずとも済む時代が来れば、いいと思っております。』
誰も傷つけずに済む時代。
誰も泣かない世界。
ただ“剣”であった小娘の、夢物語だと笑われる理想。
けれど、あの方は笑わなかった。
『その時代を作るために、わたくしは帝国に行くのよ。』
真っ直ぐな瞳。
神の奇跡よりも確かな光。
その声が、私の闇を浄めていった。
あの瞬間、夢が現実になった。
『だから、その日まで──護ってね、ヴィクトリア。』
私は誓った。
この命に代えても、あの方を護ると。
──だから、レッゾ子爵にも迷いなく剣を向けた。
殿下を害するなら、斬らねばならないと思った。
けれど、それは違っていた。
あの方は風に揺られるだけの花ではなかった。
しっかりと、大地に根差した花だった。
あの瞬間、私は知った。
“護る剣”とは、ただ敵を斬るためのものではないのだと。
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「ねぇ、ヴィクトリア。それは、どこまで綺麗にするの?」
すぐ隣で声がして、反射的に剣を構えかけた。
「で、殿下……!」
「随分と集中していたのね。隣に座っても気づかないなんて。」
「そ、それは……ご無礼を。」
「いいのよ、そんなこと。それより、ぴかぴかにしているのね。これが“剣聖の剣”なのね。」
「いえ……少し、やりすぎました。」
名剣は鈍色を超え、焚き火に反射して地上に落ちた星のように光っていた。
「帝都に戻ったら、必ず研ぎ直します。」
「ふふ、完璧ね。」
殿下が隣に寄る。服が触れ合う。
焚き火の光が黄金の髪を揺らす。
「……ねぇ、ヴィクトリア。わたくし、明日には帝都に着くの。」
「はい。」
「そして、皇太子殿下と婚姻を結ぶわ。エルスーアとオルヴァンスが、ようやく一つになるの。」
「……はい。」
「それが、平和な時代の第一歩だと思うの。だから──」
殿下は空を見上げた。
夜空には無数の星が瞬いている。
「だから、ヴィクトリア。わたくしと一緒に、平和な時代を見ましょう。
勝手にいなくなっては、ダメよ。」
胸の奥が熱くなる。
このお方は、どこまでまっすぐなのだろう。
「……はい。どこまでも、お側におります。」
震える声で、そう答える。
「……そう、よかった。──わたし、も──」
何かを言い切る前に、殿下の頭がすとんと私の肩に落ちた。
穏やかな寝息。緊張の糸が切れたのだろう。
数日前まで、命の奪い合いなど見たこともなかったお方だ。無理もない。
そっと外套を外し、殿下の肩に掛ける。
「……おやすみなさいませ。」
隣で眠る殿下の、柔らかな体温が伝わる。
緩やかな眠気を感じ、私も目を閉じた。
──その夜は、誰の死も見なかった。
帝都を目前にした最後の夜。
空に散る無数の星だけが、静かに私たちを見守っていた。
……それは、まだ誰も知らない“新しい夜明け”の前触れだった。




