第44話:大陸の夜明け ③
静寂。
先ほどまで地を揺らしていた喧噪が、嘘のように消えていた。
誰もが動きを止め、
ただ、崩れ落ちた“魔王”の姿を見つめていた。
そして──
魔族の兵が、ひとり、またひとりと膝をついた。
青い手が力無く大地へ落ちる。
次の瞬間、エルスーア軍から歓声が爆発した。
「勝った!勝ったぞ!」
「剣聖万歳!王国の花万歳!」
「エルスーア!エルスーア!我らが祖国!」
歓喜が瞬く間に波となって戦場全体を揺らし、足元の大地までも震わせた。
「ヴィクトリア!」
エレツィアが駆け寄る。
ヴィクトリアは、飛び込んでくるその身体を、強く、しかしそっと支えた。
震える肩を、黒曜の籠手が優しく包む。
「終わったのね。本当に、全部終わったのね。」
「……ええ、エレツィア様。終わりました。きっと、何もかも。」
紫水晶の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
ヴィクトリアはそれを指先でそっと拭った。
少し離れた場所でレベッカが空を仰ぎ、小さく息を吐く。
「──永かった。
これで、ぼくの不死の旅もようやく終わる。」
長い年月を生きた者だけが持つ、
深い疲労と静かな解放が、その声音には滲んでいた。
本陣では、エリアスが大きく肩の力を抜く。
「やれやれ、やっと終わったね……。
……けれど、魔族はどうするのかな。これ以上戦うのは避けたいのだが。」
その言葉が終わりきらぬうちに、
空が、翳った。
さっきまで一片の雲もなかったはずの蒼天から、日差しが急速に奪われていく。
影が長く伸び、戦場全体が不吉な薄闇に包まれた。
兵たちが思わず空を仰ぐ。
風が止む。
空気が凍りついたような、完全な静寂。
そして──
『決着はついた。』
『人が魔を下した。』
空から、人ならざる声が響きわたった。
大地の底からも同時に響いてくるような、どこまでも重く、澄んだ声。
蒼天に、ふたつの巨大な影が浮かびあがる。
ひとつは、青い肌に金の瞳、天を刺す角、四本の腕を持つ威容の偉丈夫。
もうひとつは、金糸の髪に柔らかな微笑みを宿す、白き衣の美女。
彼らの言葉に従うように、風が一度だけ深々と吹き抜けて膝を折った。
誰もが悟った。
──神だ。
エリアスを含め、エルスーア軍の全将兵が一斉に跪く。
鎧の音が重なり合い、一瞬だけ震えのようなざわめきが広がるが、すぐに消えた。
大地そのものがひれ伏しているかのようだった。
神々は、戦場の中心──
ふたりの“勇者”へと、まっすぐ視線を向ける。
『勇者よ、よく戦った。』
『理は果たされました。これよりは、人の時代。』
ヴィクトリアもエレツィアも、声を失ったまま静かにその言葉を受け止めていた。
だが──レベッカだけは違った。
金赤の瞳を細め、きわめて“いつもの調子”で、神へ噛みついた。
「……まあ、それは構わないのですが。
魔族はどうされるおつもりですか。
“負けたから皆殺し”なんて言われたら後味が悪い。」
戦場の空気が凍りつく。
兵たちが思わず息を呑んだ。
だが、男神は穏やかに頷いた。
『魔族は……我が新しき世界へ連れて行く。
この大地に根ざせぬのは残念だが。』
男神がゆるやかに手を広げると、光の粒子が渦を巻きながら戦場へ降り注いだ。
魔王の亡骸も、“破滅の槍”も、
そして魔族たち自身の身体も。
輪郭が柔らかくほどけ、
静かな光となって空へと昇っていく。
光は雪のように舞い上がり、
戦場全体が、柔らかな光に満たされる。
天へ帰る魂の群れのように、ひとつの文明が静かに消えていった。
誰もが言葉を失った。
美しく、哀しく、祈りのような光景だった。
やがて光が収まる頃、女神がゆっくりとレベッカへ視線を向けた。
『──『歴史を見届けたもの』。貴女は選べます。
“魔導の神”として天に昇るか。
それとも“現人神”として、この地に残るか。』
レベッカの肩がびくりと揺れた。
「待ってください。“現人神”って……?
ぼくの不死の呪いは、戦いが終わったら解けるのでは?」
女神がふわりと微笑む。
慈悲深いようで、どこか悪戯めいた微笑みだった。
『勘違いしていたのですね。
貴女はもう、ずっと昔から──神の眷属。
不死であることは、私たちからの贈り物ですよ。』
レベッカの顔が蒼白になる。
「な、な……っ!?」
抗議の言葉は喉で絡まり、うまく出てこない。
女神は気にも留めぬ様子で、視線を勇者たちへ戻した。
『本当によく戦いましたね、勇者。』
『素晴らしい決着であった。我らも満足している。』
神々の輪郭が、空に溶けるように薄れていく。
『あなた方のこれからの世界に、祝福あれ。』
『人の時代に、大いなる繁栄あれ。』
最後にその言葉を残し、
神々は蒼天の彼方へ昇っていった。
静けさが戻る。
鳥の声すらなく、静まり返っている。
そして──
「ふ、ふ、ふざけんなぁっ!!!」
レベッカの絶叫が、
流星の魔術を凌ぐ勢いで背骨山脈に響き渡った。
⸻
決着から数日後。
皇后と剣聖の凱旋に、帝都は揺れた。
帝都の鐘が高らかに鳴り響き、
紅と黒の旗が春の風に大きく踊る。
石畳を進む凱旋の行列。
民衆の歓声が波のように押し寄せ、
街そのものがふたりの帰還を祝福しているかのようだった。
“黎明の華妃”エレツィア。
“黒曜の剣聖”ヴィクトリア。
その名を叫ぶ声は絶えることなく続いた。
道の両脇には老いも若きも集まり、
元騎士の老人が涙を拭いながら空を見上げる。
高台に上った少年たちが競うように手を振り、
小さな子どもたちが紙の花を両手いっぱいに撒いた。
それが陽光を受けてきらめき、
まるで金色の雪が舞っているようだった。
老婆が隣の婦人に囁く。
「ねえ……見て。剣聖様が……笑っていらっしゃるわ。」
「本当に……本当に戦が終わったのねえ。」
婦人の腕の中の幼子が小さく手を振ると、
ヴィクトリアはそれに気付き、わずかに目を細めて柔らかく手を振り返した。
その一瞬に、誰もが悟った。
──ついに、平和が来たのだ、と。




