第44話:大陸の夜明け ②
戦場の中央だけが、外界から切り離されたように静かだった。
怒号も、金属のぶつかり合う音も、遠い世界の出来事のように感じられる。
魔王は“破滅の槍”を振るわず、
勇者もまた“滅魔の剣”を静かに構えたまま、互いの呼吸だけが空を震わせていた。
風が止まり、砂塵が落ちる。
その小さな変化すら、決戦の前触れに感じられた。
勇者の伴侶はわずかに後方へ下がり、
その横へ、真紅の髪の魔術師が姿を現した。
「……ふう、間に合いましたね。
勇者を護ると言っておきながら遅参では、格好がつきませんから。」
「レベッカさま。」
エレツィアの声がかすかに震え、安堵が滲む。
レベッカは短く微笑むだけで、すぐに魔王とヴィクトリアへ視線を戻した。
「魔王は動かないようですが……それが絶好の隙です。
──防げ、護れ。遍く祈りよ、“白光”。」
囁くような詠唱。
次の瞬間、レベッカの掌から白光が糸のように伸び、
ヴィクトリアの身体を淡く包み込んだ。
魔王の顔がわずかに歪む。
「貴様──前に見た魔術師だな。何をした。」
レベッカは肩をすくめ、口元に嘲笑を浮かべる。
「いちいち教えてあげると思っているんですか?
ぼくがそこまで親切だとでも?」
その声音とは裏腹に、ヴィクトリアへ向ける言葉は真剣だった。
「ヴィクトリアさん、ぼくはこの魔術の維持に専念します。
後のことは──お任せしました。」
「任されました。──行くぞ、魔王。」
響いたその声は、剣を抜く音以上に鋭かった。
ヴィクトリアは一陣の風となり、魔王の懐へ飛び込む。
“破滅の槍”が振り上がるより先に、
“滅魔の剣”の輝きが三つ、四つと閃き、魔王の青い体表を切り裂いた。
魔王は鋭く舌打ちしながら大きく距離を取る。
その掌に、雷光が集まり始めた。
青白い閃光が奔った。
だが、その雷はヴィクトリアから大きく逸れ、
後方の大地を爆ぜさせただけだった。
轟音が空気を裂き、爆炎が立ち昇る。
それでも勇者の身体には、一片の傷も付かない。
白光が薄い膜のように揺れ、春の陽光のような気配で彼女を守っていた。
「な……っ!」
魔王の目に、露骨な焦りが宿る。
その一瞬の隙を見逃さず、ヴィクトリアは再度踏み込んだ。
星河のような軌跡が“滅魔の剣”から走り、
魔王の左腕を大きく抉る。
血が噴水のように噴き出し、焼けた大地へ染み込んでいった。
「魔術が……通じぬ。おのれ、魔術師。小細工を弄しおって。
だが──なるほど、ずいぶんと苦しそうだな?」
魔王の嗤いに、レベッカの額から大粒の汗が滴る。
術を押しとどめるたび、彼女の魔力が削れていくのが分かった。
「レベッカさま!」
駆け寄ろうとするエレツィアに、レベッカは薄く笑みを返す。
「……ふふ、この程度、問題はありません。
さ、ヴィクトリアさん。奴は言葉で時間稼ぎをするほどに追い詰められています。今が好機ですよ。」
魔王の目が見開かれ、憤怒の影が走った。
「俺を……侮るなよ!」
激情とともに槍が迸り、
雷光のような突きがヴィクトリアの左肩を抉った。
黒曜の鎧が砕け、赤い血が弧を描いて宙に散る。
だが──
「──癒やせ、“春風”!」
柔らかな緑の光が勇者を包み込む。
風が優しく吹き抜けるように、傷が瞬く間に閉じていく。
「なんだと……!?」
その間隙を縫うように、ヴィクトリアは真っ直ぐに踏み込んだ。
斜め下から切り上げる刃が、魔王の脇腹を深く斬り裂く。
鈍い呻き声と共に、魔王が片膝をついた。
「あなたがどれだけ彼女を傷つけようとしても、私がそれを全て癒す。
傷一つだって、残させないんだから!」
エレツィアの凛とした声が戦場に澄み渡る。
その言葉に、ヴィクトリアがわずかに口元を緩ませた。
そして、魔王の眼前にゆっくりと立つ。
「魔王ヴァーレ。お前は私よりも強い。」
「なんだ……皮肉か?」
「いいや。
“滅魔の剣”はお前の身体を焼いたはず。それをお前は、わずか一年足らずで克服した。
私は“破滅の槍”の呪いを前に、ただ泣き叫ぶことしかできなかったのに。」
魔王は何も言わなかった。
ただ、深い底に沈んだような眼で、ヴィクトリアを見つめている。
「ただ独りで立ち続け、魔族の王であり続けた。
……きっと、お前は私よりもずっと強い。
だが、今の私は独りじゃない。
愛する人が、兄が、仲間がいる。
だから、私はお前には負けない。
その人たちの希望を、力を託されているから。」
静かに“滅魔の剣”を構え直す。
魔王も、折れかけた呼吸を無理やり繋ぎながら、“破滅の槍”を振り上げた。
風が吹いた。
時間が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
ふたりの影が、地面の上でぴたりと重なる。
刹那──
血飛沫が花のように、空へと散った。
魔王の槍は空を穿ち、
勇者の剣は、その胸を深々と貫いていた。
魔王の口から血が零れ落ちる。
それでも、その瞳には不思議なほど澄んだ光が宿っていた。
「……勇者よ。ヴィクトリアよ……見事。
俺は、貴様と戦えたことを……光栄に思う。
だが……ああ、民たちよ……すまぬ。」
その最後の言葉とともに、
魔族の王ヴァーレは、静かに地へ崩れ落ちた。
槍が、乾いた音を立てて地に落ちた。
その音だけが、彼の生の終わりを確かに告げていた。
背骨山脈の上に広がる深い空の青が、
彼の終焉を、ただ黙って見下ろしていた。




