第43話:魔族の王、ヴァーレ
背骨山脈の麓。
白く残った雪解けの名残と、春の風が混じり合う冷たい大地。
ヴィクトリアとエレツィアが王国軍と合流したとき、
戦場となる平原は、不自然なほど静まり返っていた。
風も、鳥の声さえもなく。
まるで、すべての音がこれから訪れる嵐を恐れて息を潜めている──そんな、底冷えのする静けさだった。
そこへ、馬蹄の音が近づく。
エリアス、リュークス、レベッカの三人が姿を見せた。
エリアスが馬を降り、兜を抱えたまま穏やかに微笑む。
「やあ、エレ。こんな時に言うことではないんだけど、出産おめでとう。」
「ありがとう、兄様。
ふたりともとっても元気なのよ。この戦いが終わったら、是非顔を見せてあげて。」
「……そうだね。“この戦いが終わったら”か。」
エリアスの視線が遠くを見据え、紫水晶の瞳に、一瞬、影が差す。
だがその奥には、決意の光が確かに宿っていた。
風を裂くように真紅の髪を靡かせて、レベッカが一歩進み出る。
金赤の瞳を細め、深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、おふたりとも。
……いよいよ決戦ですね。どうか、戦いの因果に終止符を。」
「お久しぶりです、レベッカさん。
……ええ、この戦いで全てを終わらせます。」
レベッカは小さく笑みを宿し、言葉を紡ぐ。
「ぼくも全力を尽くします。
今度こそ、“勇者”を死なせはしません。」
⸻
軍議の場。
分厚い天幕の中、油灯の灯火が揺れ、
卓を囲む将たちの影を長く落としている。
外では兵が陣を整えるざわめきが聞こえるのに、
この場にいる者たちの息遣いは妙に静かだった。
参謀が書簡を手に、沈んだ声で口を開く。
「魔軍の規模は10万。我らは15万。
数では勝っていますが、魔族は屈強で、種族差があります。
……苦戦は免れないでしょう。」
重石のような沈黙が広がった。
その中で、エリアスが静かに続ける。
「前回戦った時に気付いたが、魔軍には致命的な欠点がある。
そこを突けば勝機はある。……それに、“とっておき”もあるしね。」
将たちの視線が一斉にエリアスへ向かう。
期待と、わずかな安堵が入り混じった空気が流れる。
やがて話題は、ひとりの存在へと収束していった。
──魔王。
「魔王はわたくしと“剣聖”に任せてもらって構わないわ。
必ずや、打ち倒してみせます。」
すぐさま不安が噴き出した。
「姫様、しかし──」
「前線に出られるのは危険すぎます!」
だがエレツィアは、静かに諸将を見渡し、言い切る。
「わたくしは“癒しの魔力”を持つ魔術師。
ヴィクトリアは神代より受け継がれし“滅魔の剣”の継承者。
──それ以上に、魔王に相対する適任がいて?」
その凛とした声音に、軍議場から息が漏れた。
沈黙を破ったのはレベッカだった。
「ぼくもいます。魔王の魔術はぼくが防ぐ。
……この時をずっと待っていました。今こそ、ぼくの本気をお見せしましょう。」
油灯の光が、三人の顔を照らす。
静かに、しかし確実に、戦の熱が高まっていく。
⸻
数日後。
ついに魔軍が姿を見せた。
背骨山脈を背に広がる大平原。
雪解けの水で湿った黒土の上に、果てが見えないほどの軍勢が整然と並ぶ。
澄み切った春の空の下、
人ならざる者たちが、まるで人間の軍隊のように規律正しく陣を敷いている光景は、
まさしく“異様”だった。
魔軍を初めて見る王国兵の多くが、息を呑む。
しかし、エリアスだけは、じっと戦列を眺めて目を細める。
「……やはり私の見立て通りだ。これならば勝てる。」
誰に向けるでもない低い呟き。
その声には、策を持つ者だけが出せる自信が滲んでいた。
やがて魔族の軍勢が割れ、その中心から──
“破滅の槍”を携えた青い肌の王が歩み出た。
呼応するように、ヴィクトリアとエレツィアが前へ進む。
王国軍と魔軍、その間の平地へ、ふたりの影が抜け出す。
両軍が息を呑み、静寂が大地を包んだ。
魔王が、驚いたように目を細める。
「……生きておったとはな。人間は脆いと思っていたが。
やはり貴様は俺が出会った中で最強の敵よ。」
ひとつひとつの言葉が、大地を叩くような重さで落ちていく。
ヴィクトリアは“滅魔の剣”の柄にそっと手を添え、まっすぐに魔王を見据えた。
「……私だけの力で生き延びたのではない。
私を支える多くの人が、私を生かしてくれた。
だからこそ、今度こそ負けない。」
魔王が鼻を鳴らす。
「くだらぬ。自らの生き死にを誰かに頼るなど、やはり人は脆弱だ。
……それで、後ろの小娘はなんだ?」
金の瞳が、エレツィアを射抜く。
その視線だけで、胸の奥まで凍りつくような圧が押し寄せた。
エレツィアの肩が、ほんのわずかに震える。
それでも、唇を噛み、声を絞り出した。
「私は、彼女の“伴侶”よ。
ねえ、魔王。提案があるのだけれど。」
「剣聖の伴侶が……提案だと?
良い。剣聖に免じて許す。申してみよ。」
魔王の声音には、嘲りと、ほんのわずかな興味が混じっていた。
エレツィアは一度だけ息を整え、まっすぐに言葉を投げる。
「──“戦わない”という選択肢は、ないの?」
平原の風が、止まったようだった。
魔王の表情が、一瞬だけ揺れる。
「……なんだと?」
「わたくしたちは言葉を交わせる。
ならば、争い以外の関わりも出来るのではなくて?
帝国と王国の力を合わせれば、“全て”は無理でも。
少しずつでも、互いに分け合うことは──」
「くだらぬ!」
魔王の一喝が大気を裂く。
轟音とも咆哮ともつかぬその圧の強さに、砂塵すら震えた。
「我らが望んで氷の大地に住んでいるとでも思うのか。
僅かな恵みを奪い合い、幼子が吹雪に凍え、骸となる地に。
……“分け合う”だと?」
金の瞳に、凍てついた怒りが宿る。
「ならば我ら全員が生きられる大地を提供してみせよ。」
絞り出すような低い声。
それは要求というより、怨嗟の叫びにも似ていた。
「出来ぬであろう。
ならば奪い取るまでだ。」
ヴィクトリアがエレツィアの前に立つ。
「……お下がりください、エレツィア様。
やはり、奴らとは分かり合えません。」
魔王は高らかに宣言する。
「俺が死ねば、魔族はまとまらぬ。ゆえに俺は死なん。
この生のうちに魔族を繁栄させてみせる。
俺は魔族の王、ヴァーレ!
剣聖よ、その伴侶よ──
我らのために疾く、死ぬがよい!」
“破滅の槍”が掲げられ、黒銀の刃が陽光に鈍く光る。
ヴィクトリアが静かに、しかし強く名乗り返した。
その赤い瞳に、確かな炎が揺れている。
「魔族の王、ヴァーレ。
……私はヴィクトリア・ロムルス。
そして、彼女はエレツィア・シャルル・エルスーア=オルヴァンス。
──“勇者を継ぐもの”だ!」
“滅魔の剣”が鞘から抜かれる。
刃が空気に触れた瞬間、光が弾けた。
刀身は、まるで地上に降りた星のように輝き、その軌跡は星の川となって周囲の空気を震わせる。
その輝きに、後方で見守っていたレベッカが目を細める。
「ああ──“彼の剣”だ。
やっと……この時が来たのですね。」
互いの名乗りが終わった瞬間。
大地が揺れるほどの咆哮と共に、両軍が一斉に動き出した。
大陸の命運を賭けた最後の戦が、ついに始まった。




