第42話:欲望の泥で咲く花
御子誕生の報は、鐘の音とともに春の帝都を駆け抜けた。
冬のあいだ街にこびりついていた怒りと陰鬱が、雪解けの水のように一気に流れ出していく。
帝国と王国、ふたつの命名作法が重ねられ──
“シュヴァルツ・ルクス・オルヴァンス”
“クラウディア・アイリス・オルヴァンス”
そう名付けられた双子の名は、瞬く間に帝都に広まり、道のあちこちで歓声が上がった。
酒場では杯が打ち鳴らされ、広場には即席の楽団が現れ、
子どもたちは新しい皇子と皇女の名を口にしながら走り回る。
冬の帝都を覆っていた重たい空気は、いつの間にか春風に溶けていた。
──まるで、大陸そのものが長い夜から覚めつつあるかのように。
だが、その祝福の光の裏で──
大陸北方を見張る王国軍から、凶報が届く。
魔族の大軍が動き出し、背骨山脈を越えようとしている。
さらに追い打ちのように、東の戦地から別の風が吹き込んだ。
ノーレ軍が突如として態勢を立て直し、反撃の兆候を見せている。
「……いよいよ、最終局面と言ったところか。」
戦装束に身を固めたクロイツァーが低く呟き、
視線をヴィクトリアとエレツィアへと向けた。
「俺はノーレを片付ける。エルスーアへの根回しは済ませた。
聖地への被害もやむなしと正式に認めさせた以上、もはや奴らに遠慮はせぬ。
──魔軍は義兄どのに任せる。ヴィクトリア、エレツィア。無理だけはするな。」
「はい、兄上。……再び、この帝都で。」
「クロイツァーさまも……どうかご無事で。
シュヴァルツもクラウディアも、お父様を待っております。」
「ふっ……ではな。」
獅子帝は剣を腰に、静かに戦地へと向かった。
これが最後の戦になると、確信しながら。
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大広間に残されたのは、ふたりと静まり返った空気だけだった。
黒曜の鎧に“滅魔の剣”を携えるヴィクトリア。
動きやすい軽装に着替えたエレツィアが、その横に並び立つ。
そこへ宰相・ヴァイス侯が歩み寄った。
蒼い眼差しには、いつもの冷静さと、わずかな憂色が浮かんでいる。
「……帝都はお任せください。
おふたりは王国軍と共に“魔王”と戦われるのですね。」
「ええ。留守は任せました。」
「おふたりの“お役目”が何であれ……大陸の平和を祈る心は同じです。
どうか、ご無事で。」
静かに頭を垂れる宰相の姿に、場の空気がひとつ締まった。
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廊下を行く途中、エレツィアがふと口を開く。
「シュヴァルツとクラウディアの顔を見てきたわ。
ふたりともぐっすり眠って……本当に、可愛かった。」
言葉は穏やかだが、その奥に名残惜しさが滲んでいる。
ヴィクトリアは苦しげに眉を寄せた。
「エレツィア様……やはり、御子様の元に──」
「だめよ。」
足を止め、エレツィアは正面からヴィクトリアを見つめた。
「貴女をひとりで行かせたら……今度こそ帰ってこない気がするの。
私たちは“健やかなる時も病める時も”。戦地だって、ずっと一緒よ。」
「……承知しました。
ですが、以前の“エレツィア様が剣を振るう”案は却下です。
──今度こそ、私が全てを終わらせます。」
赤い瞳に、鋼の意志が灯る。
「分かったわ。それでも、私は傍にいるからね。」
「ええ。……参りましょう。」
ふたりは春の風の中を、北へ向かって歩み出した。
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一方その頃──ノーレ王国“聖地”。
クロイツァーが戦地に到着したときには、
激しい雨が一面を叩きつけていた。
怒号。
鎧の軋む音。
鉄が衝突する音。
泥に沈む足音。
遠くで雷鳴が轟く音。
雨に煙る戦場で、ノーレ軍は最後の抵抗とばかりに狂気じみた攻勢を繰り返している。
丘の上、その全てを見下ろしながら指揮を執るのは、漆黒の目を持つ男──
ノーレ王、アルガレ・ノーレ。
光を映さぬ濁った瞳は、破滅そのものを愉しむかのように歪んでいた。
「一人でも殺せ!一人でも道連れにせよ!
帝国に呪いを残せ!」
それは命令というより、軍全体に浴びせかけられる呪詛だった。
「陛下……帝国軍は崩れておりませぬ。
ここは、降伏を──」
進言しかけた大臣の首が、アルガレの剣により裂かれ、大臣の身体がどうと倒れる。
血の匂いが雨の中に溶け、幕僚たちは息を呑んだ。
「ふん……この期に及んで降伏だと?
ここまで徹底して帝国に喧嘩を売ったのだ。
この戦が終われば、我らは誰ひとり生き残れぬ。
ならば帝国に深い傷の一つでも残して逝く……そうするしかないのだ。」
そこへ、教皇が震える声で言葉を挟んだ。
「聖地を血で染めるなど……神も御怒りですぞ。」
「くだらぬ。神に何が出来ると言うのだ。」
アルガレは天へ嘲笑を向ける。
血に濡れた剣を掲げ、泥にまみれた大地を踏みしめながら叫んだ。
「神よ!見ておれ!
貴様の降臨したという聖地を、余が血で染めてやる!
罰せるというならやってみろ!
何もできぬのなら、そのまま黙って指を咥えておれ!」
その瞬間。
雷鳴が空を裂いた。
稲妻が一直線にアルガレを貫き──
王の身体は、糸の切れた人形のようにゆっくりと後ろへ倒れた。
重い沈黙。
雨音だけが、陣を満たす。
やがて教皇が、小さく、しかしはっきりと囁いた。
「……神罰だ。」
その囁きは波紋のように広がっていく。
「王に……神罰が降った。」
「聖地を冒涜したからだ……。」
「このままじゃ、俺たちまで罰される……!」
戦意は霧のように溶け、ノーレ軍は雪崩を打つように逃げ出した。
こうして、戦はあまりにも呆気なく終わった。
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倒れたアルガレの前に、ひとつの影が立つ。
漆黒の髪に、青い瞳。
漆黒の鎧と真紅の外套に、双獅子の紋章を背負う男。
帝国皇帝、クロイツァー・オルヴァンス。
アルガレは、焦点の合わぬ目で笑った。
「くく……皇帝どの……か……。
お初に、お目にかかる……。」
「まだ息があるか。しぶとい男だ。」
「ふん……間もなく、死ぬ。
神などおらぬと……思っていたが……。」
「最期に一つ教えろ。
何故そこまで執拗に帝国を狙った?」
アルガレの口元が、かすかに歪む。
「……手の届くところに……宝石があったからよ。
そして、手に入らぬなら……壊す。
人の欲望など、そんなものだろう……?」
その言葉を最期に、
アルガレ・ノーレは、それきり動かなくなった。
クロイツァーは、短く息を吐く。
「……身を滅ぼすほどの欲望か。
だがそれで不幸になるのは──民だ。」
陰謀の庭に芽吹き、欲望の泥の中で咲いた花は散った。
その花弁が踏み潰された跡だけが、濁った水面に残る。
雨の帳の中、戦の終わりだけが静かに残る。
(ヴィクトリア。エレツィア。こちらは終わったぞ。──後は貴様らだけだ。)
獅子帝は北を見据えた。
遠く、背骨山脈の空の下で。
最後の戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。




