第41話:時代を背負う者たち
冬の冷気が、帝都の屋根という屋根を鈍く染めていた。
空気は硬く張りつめ、街の吐息すら白い霧となって凍える。
ノーレの陰謀が暴かれてから、二ヶ月。
皇后を毒殺しようとした企ては、帝都全体の怒りを呼び起こし、
その怒りはまるで冬を押し返す炎のように民の胸で燃え続けていた。
皇帝は事件からほどなく戦線へ復帰した。
そして──戻った瞬間から、烈火のごとき攻勢を開始した。
帝国軍の進路は、地図上を赤く塗りつぶすように拡大していく。
補給線は揺らがず、兵の士気は満ち、策は常に一手先を行く。
冷徹で正確。
だが同時に“怒り”を宿した、獅子帝の本気。
「陛下は……本気でノーレという国を、地図から消すおつもりでは──」
参戦した将兵たちは、誰からともなく漏れた囁きを半ば信じていた。
だが、その進撃はある地点で止まった。
ノーレ軍が王都アウヴァスキ南の丘──
中央教会が“聖地”と定める場所に布陣したのである。
風が止み、戦場全体が深く息を潜めたかのようだった。
「……まさかエルスーアとの同盟が、ここで足枷になろうとはな。」
クロイツァーは低く呟き、吐息とともに舌打ちを押し殺した。
帝国の民は聖地に特別な敬意を払わない。
だがエルスーアの民は違う。
彼らの信仰は深く、噂ひとつで揺らぐ。
『帝国が聖地を焼いた』
──そんな風聞が広まれば、築いた同盟など一夜にして崩れ去るだろう。
皇帝は丘に陣取るノーレ軍を見据え、参謀へ短く告げた。
「仕方あるまい。同盟のおかげで兵糧は潤沢……。
ならば、しばし我慢比べといくか。」
こうして皇帝は一時的に帝都へ戻り、
両軍は聖地を挟んだまま冬の静寂に凍りついた。
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冬が終わり、街にわずかな春の香りが戻った頃──
帝城は、戦場以上の騒ぎに包まれていた。
エレツィアが、ついに産気づいたのだ。
皇帝の執務室。
机には書簡が山のように積まれているが、
クロイツァーの視線はそこを素通りし、どこか落ち着かない。
「……宰相。貴様の娘はいくつであったか。」
控えていたヴァイス侯が、淡々と答える。
「十でございます。」
「十年前に経験したなら分かるであろう。
俺は書簡など睨んでいる場合ではない。」
「十年前の私は立ち会いの際、大騒ぎをして部屋から追い出されました。
陛下には同じ轍を踏んでほしくないという、臣下の忠心でございます。」
「俺が貴様と同じ騒ぎを起こす保証はない。」
「いえ。今の陛下は
『苦しそうだが皇后は大丈夫か』『俺に何か出来ることはないか』
と何度も問うては産婆に叩き出される未来しか見えませぬ。」
「……恨むぞ、宰相。」
「悲しいことです。私は誰より陛下を案じておりますのに。」
クロイツァーはしぶしぶ書簡へ視線を戻す。
判断不要な書類ばかりをヴァイスが選んで置いたことを察していたが、
文字はほとんど頭に入らなかった。
どれほど刻が過ぎただろうか。
扉が勢いよく開き、女官が息を切らして告げる。
「陛下──!無事にお産まれになりました!」
椅子が跳ねるような音が響く。
「宰相。俺は行くぞ。止めるなよ。」
「無論です。
……ただし最重要事項として、
“最初の一言は皇后陛下への労いを”お忘れなく。
私はそれを怠ったせいで、この十年妻に責められ続けております。」
「貴様は何を言ったのだ──いや、やはり聞かぬ。助言に感謝する。」
呆れたような声音を残して、皇帝は疾風のように部屋を飛び出した。
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「エレツィア!よく頑張ってくれた!」
皇后の寝台はまだ温かな喧騒に包まれていたが、
エレツィアは汗に濡れた額のまま、静かに微笑んだ。
その隣にはヴィクトリア。
皇后をずっと支え、手を握り続けていた。
女官が柔らかく告げる。
「おめでとうございます、陛下。
皇后陛下も御子様も、お元気でございますよ。」
「うむ……して、御子は?」
おくるみに包まれた赤子が示される。
「──男の子と女の子、おふたりでございます。」
クロイツァーの目がほんのわずかに見開かれた。
「双子……か。」
ヴィクトリアが小声で尋ねる。
かすかに不安の声音が滲んでいる。
「陛下、何か不都合でも……?」
だが、クロイツァーはすぐに首を振った。
「ない。皇族が増えるのは慶事だ。
ただし……これがエルスーア王に知られたら大変だぞ。
今ですら部屋が埋まるほど祝いの品が届いている。
双子ともなれば、帝城の半分が埋まるやもしれん。」
柔らかな笑いが室内を満たした。
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しばらくして、室内には三人と赤子だけが残った。
「何度でも言う。本当によく頑張った、エレツィア。」
「ありがとう、クロイツァーさま。
……私は、役割を果たせたかしら。」
「もちろんだ。貴様ほど相応しい皇后はいない。
だが、男子に女子……賑やかになるぞ。」
「ふふ……楽しみにしているわ。」
クロイツァーの青い瞳が細められる。
「となれば、急がねばならぬ。
ノーレと魔王を討ち果たし、この大陸を整えねば子の教育に悪い。」
その言葉に、ヴィクトリアの肩がわずかに揺れた。
剣はまだ握れず、魔王と対峙する覚悟も揺らいだままだ。
その表情に気づき、エレツィアが優しく告げる。
「ねえ、ヴィクトリア。
貴女が剣を握れないなら……私が振るうわ。
“勇者”はふたりでひとつ。
貴女だけが背負う必要はないのよ。」
「そ、そんな……。」
驚きで声を失うヴィクトリア。
クロイツァーが静かに頷く。
「そうだな。帝国と王国の全軍をもって魔王を追い詰める。
あとはふたりでゆっくり止めを刺せばよい。」
その言葉を受け、赤い瞳が困惑に揺れた。
「ずいぶん乱暴な話に聞こえますが……。」
「ふん、神々の理とやらで“勇者ひとりに世界を背負わせる”など馬鹿げている。
俺たちは共に生き、共に戦える。
……ヴィクトリア、気負うな。」
ヴィクトリアはようやく柔らかく微笑む。
「ありがとうございます──兄上。」
「ああ。」
春の陽光が柔らかな光の帯となって室内に差し込み、
赤子たちの寝息が穏やかに響く。
その光景の前で、
今の時代を背負う三人は静かに決意を固めた。
長き戦乱の終わりが、近づいていた。




