第40話:白狼侯ヴァイス(後編) ②
謁見の間は、静寂に包まれていた。
しかし、その静けさの底に研がれた刃の気配が沈んでいる。
ヴァイス侯から謁見の申し出があり、
皇帝、皇后、剣聖が顔を揃えていた。
人払いは済んでいる。
側仕えも、近衛もいない。
玉座の前には、四人だけ。
沈んだ空気が、重くのしかかるようだった。
ヴァイス侯は一歩進み出て、深く礼を取る。
「お時間を頂戴し、痛み入ります。」
「構わぬ。──だが、宰相。
この場には俺と皇后、剣聖しかおらぬ。
それほどの顔ぶれを揃えさせるほどの用件か。」
低く響く声。
獅子帝の青い瞳が、まっすぐに宰相を射抜く。
ヴァイス侯は一瞬だけ息を整え、顔を上げた。
その蒼の瞳に、剣呑な光が宿る。
「私がお話ししたいのは……皇后陛下の、不貞行為についてです。」
空気が軋んだように感じられた。
全く表情を変えずに、皇帝が口を開く。
「不貞だと……?宰相よ。その言葉、軽くはないぞ。」
声の温度は低い。
その一言ごとに、室内の空気が震えた。
重い沈黙。
それでもヴァイス侯は一歩も引かない。
「証拠は、こちらに。」
一束の書類が差し出される。
「侍女や衛兵の証言をまとめました。」
皇帝が眉を寄せる。
皇后がわずかに息を呑む気配。
その背後で、剣聖の手が固く握りしめられていた。
「……女同士であるが故に、“万に一つも間違いはない”と陛下は仰っておられましたが──」
ヴァイス侯は書類を軽く掲げる。
「この中身は、それを否定しております。
これは明らかに不貞と呼ぶべき行為。
しかるべき処置を行うべきだと、私は考えます。」
暖炉も無い広間は冷え切っていたはずなのに、
皇后の額にうっすら汗が滲む。
だが、今度は獅子帝の目が、静かに光を帯びた。
「……不貞などない。」
一拍置いて、言葉を重ねた。
「初めから、そう言っている。
皇后と剣聖の関係であれば、女同士。子は出来ぬ。」
その声音には、確固たる響きがあった。
そして、短く息を吐く。
「子を成すことのみが“過ち”よ。
それ以外は、どうでもよい。
皇后も、剣聖も──愛したい者を愛せばよい。」
ヴァイス侯の目が、驚愕に見開かれた。
「まさか……陛下も、ご存じで。」
「存じているとも。」
皇帝は鼻で笑う。
「貴様ごときが嗅ぎつけられることを、この俺が知らぬとでも思ったか。」
静かに放たれたその一言が、宰相の矜持を打ち据えた。
沈黙。
しばしの間、ヴァイス侯は俯き、言葉を失っていた。
握られた拳の骨が、白く浮き出ている。
「どうした、宰相。
もう我らへの糾弾は終わりか。」
皇帝が鋭く問いただす。
長い沈黙の後、ヴァイス侯はゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、先ほどまでの義憤が消えている。
代わりに、冷徹な光が宿っていた。
「……ええ。陛下がご存じであったのならば、この件はこれで決着です。
あとは、“後始末”をするとしましょう。」
「……宰相?」
クロイツァーの声に、怪訝の色が混じった。
ヴァイス侯はそれに応えず、
入り口の扉に向けて、鋭く声を放った。
「──連れて来い。」
扉が開く音が響く。
衛兵に引き立てられて現れたのは、ノーレからの特使だった。
豪奢だったはずの衣は乱れ、顔には怒りと焦燥の色が濃く出ている。
「宰相閣下、これはどういうことです!」
ヴァイス侯は、氷のような笑みを浮かべる。
「ふん。痴れ者が。
ノーレの間者ごときが、私と対等に話せると思うな。」
「……ノーレだと?宰相、どういうことだ。」
クロイツァーの視線が細められる。
ヴァイス侯は玉座へ向き直り、恭しく一礼した。
「ご説明いたします、陛下。」
そこからは、淡々としていた。
「この“特使殿”は、皇后陛下の不貞の証拠を携え、我が元へ参りました。
証拠は精査したところ、真実であったため──
陛下がご存じでない様子であれば、然るべき時にお知らせしようと思っておりました。」
そして、わずかに肩を竦める。
「……ですが、すでに陛下がお認めになっている関係であれば、私から申し上げることはございません。
よって──残るはこの者の始末だけ、ということです。」
特使の顔から、血の気が引いた。
「なっ……!」
「あわよくば、皇后陛下を失脚させて帝国内部を揺るがそうと思っていたのであろうが……。
どちらにせよ、私は内々で処理するつもりであった。
目論見が外れたな、特使殿?」
ヴァイス侯の蒼い瞳が鋭く細められる。
その目に宿る光は、狼の牙そのものだった。
ゆっくりと、燭台の方へ歩み寄る。
「それと──貴公から預かった“自白剤”とやら。
ずいぶんと物騒な自白剤もあったものだな。」
透明な瓶が、燭火の橙に照らされる。
火にかざされた液体は、炎の熱を受け──
じわりと、毒々しい紫色へと変じていった。
「ノーレでは、飲ませた相手が物言わぬ骸になることを自白と呼ぶらしい。」
特使が、はっと息を呑む。
「貴様、まさか。」
「ノーレの毒のこと、帝国が知らぬとでも思ったか?
方々で景気よく使いすぎたな。
最早、秘密の毒でもなんでもない。」
ヴァイス侯の声は冷ややかだった。
特使が言葉を荒げる。
「宰相!貴様──!」
「特使殿。」
ヴァイス侯は、わざとらしく丁寧な声に戻した。
「ノーレでは、今生の別れの挨拶は何と言うのだ?
次に会った時には是非、教えてくれ。」
一拍置いて。
「──連れて行け。」
衛兵たちが無言で特使の両腕を取り、扉の向こうへと連れ去っていく。
足音が遠ざかり、やがて完全な静寂が訪れた。
広い謁見の間に残ったのは三つの息遣いと、
宰相ひとりの影だけだった。
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やがて、ヴァイス侯は皇后の方へ向き直る。
深く、頭を下げた。
「皇后陛下、剣聖どの。
陛下がお認めになった関係とはつゆ知らず──
大変な無礼を申し上げました。
どうか、お許しを。」
顔を上げ、真っ直ぐにふたりを見据える。
エレツィアが、小さく首を振った。
紫水晶の瞳に、まだ揺らぎが残っている。
「謝罪は受け入れますわ。
……でも正直なところ、あなたは私たちを糾弾すると思っておりました。──本当に、よろしいの?」
ヴァイス侯は、ふっと口元を緩めた。
「勿論でございます。
私は法を重んじますが、皇帝陛下は法の上に立つお方。
そのお方が是とされるのならば、
私が口を挟む筋合いはございません。」
そこで、わずかに顔を顰めた。
「とはいえ──宰相ともなれば、多少は諫言すべき立場なのでしょうな。」
一度小さく息を吐いて、
その声が、少し砕けた声音に変わる。
「……おふたりとも。
あまり人目を憚らず逢瀬を楽しまれては、このように噂になります。
今後は、もう少し“こっそり”お願いいたします。」
そう言って、片目を瞑ってみせた。
エレツィアとヴィクトリアの頬に、一斉に熱が灯る。
クロイツァーが深々とため息を吐いた。
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「……ずいぶんと、砕けた方だったわね。」
謁見の間を下がった後、エレツィアが呆れ半分で呟く。
「聞いた話だが、若い頃は相当に浮き名を流していたそうだ。
全く、“潔癖”が聞いて呆れるわ。」
クロイツァーが肩を竦める。
だが、その目にはすでに別の光が宿っていた。
「それはそれとして──ノーレめ。
まだ、我らの足元にまで手を伸ばしておるとは。
そろそろ、決着をつけねばならぬな。」
青い瞳が、遠く戦場の方角を睨む。
その言葉に、空気がかすかに震えた。
冬の冷気の中に、
ゆっくりと決戦の匂いが混じり始めていた。




