表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
72/82

第40話:白狼侯ヴァイス(後編) ①

ヴァイス侯爵家の応接室。


分厚い絨毯の上に、燭台の火がゆらりと揺れ、

暖炉の炎が壁に淡い影を投げかけていた。

冬の雨が窓を激しく叩き、まるでこの屋敷が外界から切り離されたかのような、閉ざされた静寂が広がっている。


湿り気を帯びた冷気の中で、

密談にふさわしい重さが、自然と室内に漂っていた。


そんな空気の中、

扉が軋む音を立て、ヴァイス侯が姿を現した。


応接室の中央ではすでに、初老の男が丁寧に礼をとっていた。

油膜を張ったような声が室内に落ちる。


「この度は、お時間をいただきありがとうございます。」


「……挨拶は結構。“敵国の特使”が何の用だ。」


ヴァイス侯の声音は冷たい。

しかし特使は怯む気配もなく、薄い笑みを浮かべ続けていた。


「それは勿論、あなた様にお伝えしたいことがあるのでございます。

あなた様も探っておられる──“皇后陛下の身辺について”、私どもが知っていることを。」


空気が張りつめた。


「……なんだと?」


「私どもの手は多く、長うございます。

皇后陛下は随分と努力されたようですが……それでも我らの手は残っております。」


特使は一拍置き、冷たい笑みのまま続けた。



「“自身の不貞”を、隠し通せぬほどには。」



ヴァイス侯の瞳がわずかに揺れた。


「不貞……だと。」


「ええ、宰相閣下が驚かれるのも当然でございましょう。

なにしろ──“自身の近衛”との、不貞でございますから。」


特使の声は低く、どこか侮蔑を含んでいた。


「女同士など……神の摂理にも反しております。」


「説法なら教会でやるがよい。」

ヴァイス侯の返しは鋭い。

「確たる証もなしに皇后の不貞を糾弾するとは、貴国は暇なのか。

宣戦布告は既に済んでいると思っていたが。」


「結論をお急ぎなさらず。……証拠は、こちらに。」


特使が差し出したのは、分厚い書類の束。


ヴァイス侯は一枚を手に取る。

その瞬間、顔色が変わった。


「これは……!」


「ええ、私どもで調べ上げた証言でございます。

『庭園で抱擁し、口付けを交わしていた。』

『寝室から“愛を紡ぐ”ふたりの声が聞こえた。』

──これだけ揃えば、疑う方が難しい。」


暖炉の火がぱち、と爆ぜる。

ヴァイス侯が、唸るように声を上げた。


「……証拠の真偽を確かめぬことには、何も言えぬ。」


「仰る通りでございます。存分にお調べください。

宰相閣下ほど厳格なお方ならば、“帝国の母”の不貞など、決して許せますまい。」


特使の目が、わずかに光る。

蛇の目のような光だった。


ヴァイス侯は深く息を吸い、低く問う。


「それで……貴公は何を求めている?」


特使の口元がゆっくりと綻ぶ。


「我らは平和を求めております。

帝国と我が国は五年ほども遡れば、友好国。

エルスーアこそが長年の仇敵のはず。

手を結ぶ相手を、間違えてはなりません。

つきましては……宰相閣下のお力で、和平への譲歩を引き出していただきたく。」


「早い話が命乞いか。」


冷たく吐き捨てるような声音だった。


「……まあいい。情報が確かなら、黙っていられる話でもない。

こちらでも真偽を確かめる。時間をもらうぞ。」


「勿論でございます。一朝一夕で片付く話ではございませんから。

また後日、お伺いさせていただきます。」


ふたりは視線を交わし、

特使は深く頭を下げて部屋を後にした。


応接室の室内には、暖炉の火がはぜる音を立てるのみ。

冬の雨音が、再び静かに窓を叩いた。



ノーレの特使が再び訪れた頃、

帝都には雪がちらつき始めていた。

冷えた空気が部屋に流れ込むたび、長机の上の紙がふわりと揺れる。


「いかがでしたか、閣下。

証拠の精査はお済みになりましたでしょうか。」


ヴァイス侯の顔は、以前よりも疲弊して見えた。


「……信じられぬ話だが、真であるらしい。

まさか、皇帝陛下を謀って不貞を働くとはな……。」


「心中、お察し申し上げます。」


かすかな同情の響きを装いながら、

特使の口元には密かな笑みが浮かんでいた。


ヴァイス侯の目に、怒りが宿る。


「やはり、エルスーアの姫など信用できぬ。

堂々と糾弾してやる。」


「ですが、上手く言い逃れされるやもしれませぬ。

──実は、宰相閣下のお力になれるものが、まだございます。」


特使は懐から、透明な瓶を取り出した。

内部の液体は水のように透き通り、どこか得体の知れぬ冷たさを放っている。


「……それは?」


「私どもが開発した、自白剤でございます。

飲料や食事にごく少量混ぜ込むだけで、隠し事はできなくなる。」


「自白剤……だと。」


「ええ。ノーレは教会との縁が深く、薬学に長けておりますので。

これくらいは造作もございません。」


ヴァイス侯は瓶を受け取り、しばし見つめた。


「……そうか。預かっておこう。

いざという時には使わせてもらう。

和平の件も任せよ。」


「ありがとうございます。私どもも、胸を撫で下ろせます。」


そうして、ふたりは固く握手を交わした。


その瞬間、外から吹き込んだ冬の冷気が、部屋の空気をわずかに揺らす。

その風に煽られ、暖炉の火がかすかに揺れた。


その揺らぎはまるで──

帝都の均衡そのものが、風に煽られ始めたかのようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ