第40話:白狼侯ヴァイス(後編) ①
ヴァイス侯爵家の応接室。
分厚い絨毯の上に、燭台の火がゆらりと揺れ、
暖炉の炎が壁に淡い影を投げかけていた。
冬の雨が窓を激しく叩き、まるでこの屋敷が外界から切り離されたかのような、閉ざされた静寂が広がっている。
湿り気を帯びた冷気の中で、
密談にふさわしい重さが、自然と室内に漂っていた。
そんな空気の中、
扉が軋む音を立て、ヴァイス侯が姿を現した。
応接室の中央ではすでに、初老の男が丁寧に礼をとっていた。
油膜を張ったような声が室内に落ちる。
「この度は、お時間をいただきありがとうございます。」
「……挨拶は結構。“敵国の特使”が何の用だ。」
ヴァイス侯の声音は冷たい。
しかし特使は怯む気配もなく、薄い笑みを浮かべ続けていた。
「それは勿論、あなた様にお伝えしたいことがあるのでございます。
あなた様も探っておられる──“皇后陛下の身辺について”、私どもが知っていることを。」
空気が張りつめた。
「……なんだと?」
「私どもの手は多く、長うございます。
皇后陛下は随分と努力されたようですが……それでも我らの手は残っております。」
特使は一拍置き、冷たい笑みのまま続けた。
「“自身の不貞”を、隠し通せぬほどには。」
ヴァイス侯の瞳がわずかに揺れた。
「不貞……だと。」
「ええ、宰相閣下が驚かれるのも当然でございましょう。
なにしろ──“自身の近衛”との、不貞でございますから。」
特使の声は低く、どこか侮蔑を含んでいた。
「女同士など……神の摂理にも反しております。」
「説法なら教会でやるがよい。」
ヴァイス侯の返しは鋭い。
「確たる証もなしに皇后の不貞を糾弾するとは、貴国は暇なのか。
宣戦布告は既に済んでいると思っていたが。」
「結論をお急ぎなさらず。……証拠は、こちらに。」
特使が差し出したのは、分厚い書類の束。
ヴァイス侯は一枚を手に取る。
その瞬間、顔色が変わった。
「これは……!」
「ええ、私どもで調べ上げた証言でございます。
『庭園で抱擁し、口付けを交わしていた。』
『寝室から“愛を紡ぐ”ふたりの声が聞こえた。』
──これだけ揃えば、疑う方が難しい。」
暖炉の火がぱち、と爆ぜる。
ヴァイス侯が、唸るように声を上げた。
「……証拠の真偽を確かめぬことには、何も言えぬ。」
「仰る通りでございます。存分にお調べください。
宰相閣下ほど厳格なお方ならば、“帝国の母”の不貞など、決して許せますまい。」
特使の目が、わずかに光る。
蛇の目のような光だった。
ヴァイス侯は深く息を吸い、低く問う。
「それで……貴公は何を求めている?」
特使の口元がゆっくりと綻ぶ。
「我らは平和を求めております。
帝国と我が国は五年ほども遡れば、友好国。
エルスーアこそが長年の仇敵のはず。
手を結ぶ相手を、間違えてはなりません。
つきましては……宰相閣下のお力で、和平への譲歩を引き出していただきたく。」
「早い話が命乞いか。」
冷たく吐き捨てるような声音だった。
「……まあいい。情報が確かなら、黙っていられる話でもない。
こちらでも真偽を確かめる。時間をもらうぞ。」
「勿論でございます。一朝一夕で片付く話ではございませんから。
また後日、お伺いさせていただきます。」
ふたりは視線を交わし、
特使は深く頭を下げて部屋を後にした。
応接室の室内には、暖炉の火がはぜる音を立てるのみ。
冬の雨音が、再び静かに窓を叩いた。
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ノーレの特使が再び訪れた頃、
帝都には雪がちらつき始めていた。
冷えた空気が部屋に流れ込むたび、長机の上の紙がふわりと揺れる。
「いかがでしたか、閣下。
証拠の精査はお済みになりましたでしょうか。」
ヴァイス侯の顔は、以前よりも疲弊して見えた。
「……信じられぬ話だが、真であるらしい。
まさか、皇帝陛下を謀って不貞を働くとはな……。」
「心中、お察し申し上げます。」
かすかな同情の響きを装いながら、
特使の口元には密かな笑みが浮かんでいた。
ヴァイス侯の目に、怒りが宿る。
「やはり、エルスーアの姫など信用できぬ。
堂々と糾弾してやる。」
「ですが、上手く言い逃れされるやもしれませぬ。
──実は、宰相閣下のお力になれるものが、まだございます。」
特使は懐から、透明な瓶を取り出した。
内部の液体は水のように透き通り、どこか得体の知れぬ冷たさを放っている。
「……それは?」
「私どもが開発した、自白剤でございます。
飲料や食事にごく少量混ぜ込むだけで、隠し事はできなくなる。」
「自白剤……だと。」
「ええ。ノーレは教会との縁が深く、薬学に長けておりますので。
これくらいは造作もございません。」
ヴァイス侯は瓶を受け取り、しばし見つめた。
「……そうか。預かっておこう。
いざという時には使わせてもらう。
和平の件も任せよ。」
「ありがとうございます。私どもも、胸を撫で下ろせます。」
そうして、ふたりは固く握手を交わした。
その瞬間、外から吹き込んだ冬の冷気が、部屋の空気をわずかに揺らす。
その風に煽られ、暖炉の火がかすかに揺れた。
その揺らぎはまるで──
帝都の均衡そのものが、風に煽られ始めたかのようだった。




