第39話:白狼侯ヴァイス(前編)
第38話:白狼侯ヴァイス(前編)
秋が終わり、冬の気配が帝都へ忍び寄っていた。
冷たい風が街並みを撫で、石畳の隙間からじわりと体温を奪っていく。
朝晩の吐息は白く曇り、人々の歩みも自然と早まるようになった。
遠い雲は鈍い鉛色に沈み、低く垂れ込めている。
静かで乾いた、冬の前触れ特有の空気が帝都全体を包み込んでいた。
皇帝の執務室。
燃える暖炉だけが、冬の気配を押し返すようにぱちぱちと音を立てていた。
柔らかな光がレースの縁を照らし、その明滅が部屋を穏やかに温めている。
クロイツァーは机に向かい、黙々と書類へ筆を走らせていた。
そのすぐ傍では、皇后エレツィアと近衛のヴィクトリアが長椅子に並んで座っている。
最近では、ヴィクトリアも椅子に座るようになった。
「妹を立たせておく兄などいない」──そんな皇帝らしからぬ理屈をつけられてのことだった。
「宰相の後任が決まった。」
クロイツァーが静かに告げた。
「まあ、ずっと空白だったものね。……それで、どなたが?」
「ヴァイス侯だ。中立派を取りまとめていた人物で、議会でも否定の声は上がらなんだ。」
エレツィアが小さく頷く。
「あの方なのね。婚約発表の時と披露宴の時、とても丁寧なご挨拶をいただいたわ。
夜会ではあまりお見かけしなかったけれど。」
「そうだな。奴は元来、華美な場が苦手だ。
だが──奴には気をつけろ、ふたりとも。」
一瞬、室内の空気がひやりと揺れた。
ヴィクトリアの赤い瞳がわずかに細くなる。
「……何か、裏が?」
「いや。ヴァイス侯は裏も表もない、潔癖な人物だ。……潔癖すぎる、とも言える。」
クロイツァーは筆を置き、深く息を吐いた。
「おそらく、貴様たちの関係が勘付かれると厄介なことになる。」
静まり返る空気。
エレツィアは視線を逸らし、小さくため息をついた。
「……そうね。私たちの関係は、他の人には理解ができないでしょうから。」
「ヴァイス侯は宰相としては申し分がない。だからこそ味方に引き込みたい。
今後は関わることも増えるだろう。……故に、気をつけろ。」
「……承知しました。」
「わかったわ。」
ふたりは静かに頷いた。
⸻
数日後。
エレツィアのもとへ、宰相就任の挨拶の先触れが届いた。
謁見の間。
高い天井に声が吸い込まれるほどに、静謐な空間。
その中心で、銀髪の男が丁重に礼を取った。
蒼い瞳は鋭く、氷柱を思わせる冷たい光を宿している。
壮年にはまだ早い年齢だが、纏う気配は老練で隙がない。
その気配の主、ヴァイス侯爵が静かに言った。
「この度、宰相に任じられました、ウォルフ・ヴァイスと申します。
帝国のため、身命を賭してこの任を果たします。」
硬質で無駄のない声。
控えていた者たちの背筋が自然と伸びるような響きだった。
エレツィアは微笑み、優雅に頷く。
「皇帝陛下からも『宰相として申し分のない人物』と伺っています。
わたくしも心強く思っておりますわ。」
「過分なお言葉、光栄でございます。」
言葉は端的で飾らない。
しかしその裏には、揺るぎない意志が確かにあった。
「……ヴァイス侯爵は、法務大臣を務められていたと聞きます。
わたくしは帝国の法にはまだ疎く……頼りにさせていただきますわ。」
その一言で、蒼の光がわずかに和らいだ。
「ご謙遜を。皇后陛下の元には優秀な人材が集まっていると伺っております。
法を知らずして監察局は立ちゆきますまい。」
短い沈黙。
「……そう、陛下が設立された監察局。あれは実に素晴らしい。
帝都の膿は、徹底的に出すべきです。」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がぴり、と揺れた。
(……潔癖、という評価はまさしくその通りね。)
エレツィアは胸中でそっと息をつく。
その後の会談は形式的な挨拶を交わして終了した。
⸻
ある日のこと。
帝国議会が閉会した後、
ヴァイス侯は静かにクロイツァーへ声をかけた。
「陛下、お伺いしたいことがございます。」
「……なんだ?」
「皇后陛下と剣聖殿を定期的に──同じ部屋に閉じ込めていらっしゃるとか。
……その意図を、お伺いしたく存じます。」
クロイツァーの瞳が、かすかに細められる。
「ふん、何の話かと思えば。
皇后は働き者でな、放っておくと夜通し働く。
“帝国の母”であることを忘れるほどにな。」
低く、かすかな呆れを含めた声。
「黒曜は俺が信を置く人物で、そのうえ皇后と同性よ。
万に一つも間違いがないならば、見張り役としてこの上あるまい。」
「万に一つも、間違いはないと。」
「くどいぞ。──他ならぬ俺が、そう言っている。」
突き刺すような視線が光る。
ヴァイス侯はすぐに頭を下げた。
「……差し出がましいことを申し上げました。」
「構わぬ。御子に万が一があってはならぬと、皇后の身を案じているのだろう。
だが、あのふたりに関しては心配せずともよい。」
「……はっ。」
⸻
しかし──
その後もヴァイス侯は、皇后と剣聖の周辺を頻繁に探っていた。
皇后の私室。
厚い雲に覆われ、昼間にもかかわらず室内は薄闇に沈んでいる。
暖炉の薪がぱちりとはぜ、燭台の灯りが頼りなく揺れていた。
室内には、エレツィア、ヴィクトリア、そして侍女ラウラが揃っていた。
ラウラは、緊張でわずかに震える声で言った。
「『何か知らないか』と……何度も聞かれました。
わたしは何も存じ上げませんと答えているのに……。」
「……心配、というには過剰ね。どう見ても、怪しんでいる。」
エレツィアが眉を寄せる。
ヴィクトリアが静かに口を開く。
「ラウラさん。
もし貴女に危害が及ぶようなことがあれば、思っていることを全部話して構いません。
そこまでして守る秘密でもありません。」
「でも……わたしは……姫様もヴィクトリアさんも、お守りしたいのです。」
「ありがとう。貴女のその姿勢に、わたくしたちは随分と助けられているわ。」
エレツィアの微笑みは温かい。
だがその奥には、氷のような警戒がひそんでいた。
「……ともあれ、用心しておくに越したことはないわね。」
窓の外を見ると、空は厚い雲に閉ざされ、雨の気配が滲んでいた。
⸻
夜。
土砂降りの雨が帝都の屋根を叩きつけ、
その轟音が、世界の輪郭を塗りつぶしてしまうかのようだった。
ヴァイス侯が自らの邸宅に戻ると、執事が密やかに告げる。
「旦那様……お客様が訪れております。」
「……なんだと?今日は誰も訪問する予定はないが。」
「それが……ノーレからの……特使とのことで。」
沈黙。
ヴァイス侯の蒼い瞳が細くなる。
「──そうか。応接室で待たせているな?
すぐに伺おう。」
外では雨が荒れ狂い、
その中で、帝都の闇はいっそう深く沈んでいった。




