表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
70/82

第38話:母のあしあとをたどって(後編) ②

しばらくして、ヴィクトリアは老婆に別れを告げた。


「ありがとうございました。この御礼は、必ず。」


深く頭を下げると、夜風が煤けた路地を抜け、小さな埃を巻き上げる。

焼け跡だらけの通りに、冷たい空気だけが流れていた。


老婆は肩を揺らし、愉快そうに目を細めた。


「ふふ……かの“黒曜の剣聖”に恩を売れるとはね。まさかの拾い物だったよ。」


「……私の素性を?」


「スラムにだって噂くらいは流れてくるさ。

黒髪、赤目、若き女騎士。──それだけ聞けば、馬鹿でも分かる。」


そう言って、老婆がにやりと笑う。


「ま、お貴族様に嫌気が刺したらおいで。

あたしの店はいつでも歓迎するよ。あんたも上玉さね、しっかり面倒を見てやる。」


「……それは謹んでお断りします。」


「つれないね。まあ、いいさ。さっさと帰りな。」


老婆が手をひらひらと振る。


ヴィクトリアはもう一度だけ頭を下げ、燃え跡の路地を歩き出した。

足音が小さく石畳に響く。


夜のスラムは静かだった。

崩れかけた建物の影が月光を受けて長く伸び、遠くから、かすかに鐘の音が届く。


その中を、迷いなくひとつの影が進んでいった。



ヴィクトリアが帝城に戻ったときには、夜もすでに更けていた。

それでも城門前は暗くはなかった。

高く掲げられた灯火が揺らめき、門の前にはふたつの影が立っていた。


「「ヴィクトリア!」」


皇帝と皇后の、重なる声。

焦りと安堵が入り混じったその響きに、ヴィクトリアの足がわずかに止まる。


ヴィクトリアはふっと微笑んだ。


「──ただいま、戻りました。」


灯火に照らされたその顔は、かすかな疲労の影を帯びていた。

だが、その瞳には、確かな煌めきが宿っていた。



再び、皇帝の私室。


燭台の灯りが揺れ、窓の外には夜の帝都の篝火が遠く瞬いている。

静かな室内で、ヴィクトリアはすべてを語った。


娼館へ向かったこと。

かつてを知る老婆と再会したこと。

母の最期を知ったこと。

そして──母から自分に宛てられた手紙のこと。


長机の上に広げられた焦げの混じった紙片。

そこから伝わるものは、母からの確かな愛。


エレツィアとクロイツァーは、その手紙を読み終えたあと、しばらく言葉を失っていた。


「……貴女のお母様は、心から貴女を愛していたのね。

それなのに……こんな愛し方しか許されなかったなんて。」


エレツィアの紫水晶の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

指先で拭っても、次から次へと溢れて止まらなかった。


クロイツァーは拳を強く握りしめ、天を仰ぐ。

年若い皇帝の肩が、小さく震えていた。


「……これほどの仕打ちを受けてなお、先帝に恨み言ひとつもないとは。

どこまで……どこまで優しいのだ。

俺は……この罪をどう償えばよいのだ。」


吐き出される声には、怒りとも悔恨ともつかぬ色が混じっていた。


ヴィクトリアは、ゆっくりと首を振る。


「償いは不要です。母も、私も──そんなことは望んでいません。」


淡々とした口調。

だが、その赤い瞳には、灯火のような優しさが宿っていた。


「だが……それでは俺の気がおさまらぬ。

何か望みはないか、ヴィクトリア。

貴様が望むならば、ソフィア・カルシェとしての身分でも、

ソフィア・オルヴァンスとしての身分でも、用意してやれる。」


クロイツァーの言葉は、皇帝としての懺悔であり、ひとりの兄としての約束でもあった。


エレツィアも、そっと言葉を重ねる。


「ヴィクトリア。

クロイツァーさまを想うなら、何か受け取ってあげて。

ずっと抱え続けるのは……辛いものよ。」


その声音は柔らかい。

だが、痛みを知る者だけが持つ、灯火のような強さが宿っていた。


ヴィクトリアはしばらく目を閉じ、胸の内を整えるように息を吐く。

そして、静かに口を開いた。


「……まだ、“ソフィア・カルシェ”として生きるつもりはありません。

私は“ヴィクトリア・ロムルス”としての役目を終えていない。」


赤い瞳が、まっすぐ青い瞳を見据える。


「ですが、もし全てが終わり……許されるのならば。

──その時は、母の贈ってくれた名と共に、生きてみたいと思います。」


迷いのない、澄んだ響き。

“今”を見つめながらも、“未来”を望むその言葉に、クロイツァーは深く頷いた。


「……そうか。分かった。

いつでも言うがいい。俺はいつでも、貴様の新たな人生を祝福しよう。」


「ありがとうございます、陛下。」


そこでヴィクトリアは視線を落とし──小さな声で告げる。


「それと、陛下……。もうひとつ、“お願い”がございます。」


「“お願い”だと……?」


クロイツァーが眉をひそめる。

この近衛がそんな言葉を口にするのを、かつて聞いたことがない。


「はい。

自分を孤児だと思っていた私は、兄妹というものに、ずっと憧れておりました。

……どうか、一度だけ──“兄”と呼ばせてはいただけませんか。」


静寂が落ちる。

クロイツァーの青い瞳が、わずかに揺れた。


「…………許す。好きなように呼ぶがいい。」


ヴィクトリアは、微かに唇を震わせながら言葉を紡ぐ。


「……兄上。」


「ああ、ヴィクトリア。」


返事は、掠れた声だった。

その声を残したまま、クロイツァーはくるりと背を向ける。

額に手を当て、天を仰いだ。逞しい肩が、静かに震えている。


その姿勢のまま、絞り出すように言った。


「……望むなら、何度でもそう呼ぶがいい。

その時は、俺も妹として貴様を扱おう。」


エレツィアが、くすりと微笑む。


「まあ……クロイツァーさま、随分とお喜びね。

良かったわね、ヴィクトリア。」


「はい。……ありがとうございます、兄上。」


「…………ああ。」


“家族”としての夜は、穏やかに更けていった。

帝都の夜気は冷たかったが、三人の間には、確かな温もりが灯っていた。



数刻後。


「ねえ、ヴィクトリア。

クロイツァーさまを“兄”とするのなら……。

私は義理の姉にあたるのだから、“義姉”と呼んでちょうだい。」


「えっ……はい。

承知しました、義姉上。」


「んっ……ヴィクトリア。

やっぱり、義姉は……やめておきましょう。」


エレツィアは笑顔のまま、膝から崩れ落ちた。


クロイツァーが、深いため息をつく。


「これはいかん。腹の子のために、“義姉呼び”は厳禁とする。」


「……はぁ。」


軽く肩を落とすヴィクトリアの横で、

ふたりの皇族は、なぜかとても満足げだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ