第38話:母のあしあとをたどって(後編) ②
しばらくして、ヴィクトリアは老婆に別れを告げた。
「ありがとうございました。この御礼は、必ず。」
深く頭を下げると、夜風が煤けた路地を抜け、小さな埃を巻き上げる。
焼け跡だらけの通りに、冷たい空気だけが流れていた。
老婆は肩を揺らし、愉快そうに目を細めた。
「ふふ……かの“黒曜の剣聖”に恩を売れるとはね。まさかの拾い物だったよ。」
「……私の素性を?」
「スラムにだって噂くらいは流れてくるさ。
黒髪、赤目、若き女騎士。──それだけ聞けば、馬鹿でも分かる。」
そう言って、老婆がにやりと笑う。
「ま、お貴族様に嫌気が刺したらおいで。
あたしの店はいつでも歓迎するよ。あんたも上玉さね、しっかり面倒を見てやる。」
「……それは謹んでお断りします。」
「つれないね。まあ、いいさ。さっさと帰りな。」
老婆が手をひらひらと振る。
ヴィクトリアはもう一度だけ頭を下げ、燃え跡の路地を歩き出した。
足音が小さく石畳に響く。
夜のスラムは静かだった。
崩れかけた建物の影が月光を受けて長く伸び、遠くから、かすかに鐘の音が届く。
その中を、迷いなくひとつの影が進んでいった。
⸻
ヴィクトリアが帝城に戻ったときには、夜もすでに更けていた。
それでも城門前は暗くはなかった。
高く掲げられた灯火が揺らめき、門の前にはふたつの影が立っていた。
「「ヴィクトリア!」」
皇帝と皇后の、重なる声。
焦りと安堵が入り混じったその響きに、ヴィクトリアの足がわずかに止まる。
ヴィクトリアはふっと微笑んだ。
「──ただいま、戻りました。」
灯火に照らされたその顔は、かすかな疲労の影を帯びていた。
だが、その瞳には、確かな煌めきが宿っていた。
⸻
再び、皇帝の私室。
燭台の灯りが揺れ、窓の外には夜の帝都の篝火が遠く瞬いている。
静かな室内で、ヴィクトリアはすべてを語った。
娼館へ向かったこと。
かつてを知る老婆と再会したこと。
母の最期を知ったこと。
そして──母から自分に宛てられた手紙のこと。
長机の上に広げられた焦げの混じった紙片。
そこから伝わるものは、母からの確かな愛。
エレツィアとクロイツァーは、その手紙を読み終えたあと、しばらく言葉を失っていた。
「……貴女のお母様は、心から貴女を愛していたのね。
それなのに……こんな愛し方しか許されなかったなんて。」
エレツィアの紫水晶の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
指先で拭っても、次から次へと溢れて止まらなかった。
クロイツァーは拳を強く握りしめ、天を仰ぐ。
年若い皇帝の肩が、小さく震えていた。
「……これほどの仕打ちを受けてなお、先帝に恨み言ひとつもないとは。
どこまで……どこまで優しいのだ。
俺は……この罪をどう償えばよいのだ。」
吐き出される声には、怒りとも悔恨ともつかぬ色が混じっていた。
ヴィクトリアは、ゆっくりと首を振る。
「償いは不要です。母も、私も──そんなことは望んでいません。」
淡々とした口調。
だが、その赤い瞳には、灯火のような優しさが宿っていた。
「だが……それでは俺の気がおさまらぬ。
何か望みはないか、ヴィクトリア。
貴様が望むならば、ソフィア・カルシェとしての身分でも、
ソフィア・オルヴァンスとしての身分でも、用意してやれる。」
クロイツァーの言葉は、皇帝としての懺悔であり、ひとりの兄としての約束でもあった。
エレツィアも、そっと言葉を重ねる。
「ヴィクトリア。
クロイツァーさまを想うなら、何か受け取ってあげて。
ずっと抱え続けるのは……辛いものよ。」
その声音は柔らかい。
だが、痛みを知る者だけが持つ、灯火のような強さが宿っていた。
ヴィクトリアはしばらく目を閉じ、胸の内を整えるように息を吐く。
そして、静かに口を開いた。
「……まだ、“ソフィア・カルシェ”として生きるつもりはありません。
私は“ヴィクトリア・ロムルス”としての役目を終えていない。」
赤い瞳が、まっすぐ青い瞳を見据える。
「ですが、もし全てが終わり……許されるのならば。
──その時は、母の贈ってくれた名と共に、生きてみたいと思います。」
迷いのない、澄んだ響き。
“今”を見つめながらも、“未来”を望むその言葉に、クロイツァーは深く頷いた。
「……そうか。分かった。
いつでも言うがいい。俺はいつでも、貴様の新たな人生を祝福しよう。」
「ありがとうございます、陛下。」
そこでヴィクトリアは視線を落とし──小さな声で告げる。
「それと、陛下……。もうひとつ、“お願い”がございます。」
「“お願い”だと……?」
クロイツァーが眉をひそめる。
この近衛がそんな言葉を口にするのを、かつて聞いたことがない。
「はい。
自分を孤児だと思っていた私は、兄妹というものに、ずっと憧れておりました。
……どうか、一度だけ──“兄”と呼ばせてはいただけませんか。」
静寂が落ちる。
クロイツァーの青い瞳が、わずかに揺れた。
「…………許す。好きなように呼ぶがいい。」
ヴィクトリアは、微かに唇を震わせながら言葉を紡ぐ。
「……兄上。」
「ああ、ヴィクトリア。」
返事は、掠れた声だった。
その声を残したまま、クロイツァーはくるりと背を向ける。
額に手を当て、天を仰いだ。逞しい肩が、静かに震えている。
その姿勢のまま、絞り出すように言った。
「……望むなら、何度でもそう呼ぶがいい。
その時は、俺も妹として貴様を扱おう。」
エレツィアが、くすりと微笑む。
「まあ……クロイツァーさま、随分とお喜びね。
良かったわね、ヴィクトリア。」
「はい。……ありがとうございます、兄上。」
「…………ああ。」
“家族”としての夜は、穏やかに更けていった。
帝都の夜気は冷たかったが、三人の間には、確かな温もりが灯っていた。
⸻
数刻後。
「ねえ、ヴィクトリア。
クロイツァーさまを“兄”とするのなら……。
私は義理の姉にあたるのだから、“義姉”と呼んでちょうだい。」
「えっ……はい。
承知しました、義姉上。」
「んっ……ヴィクトリア。
やっぱり、義姉は……やめておきましょう。」
エレツィアは笑顔のまま、膝から崩れ落ちた。
クロイツァーが、深いため息をつく。
「これはいかん。腹の子のために、“義姉呼び”は厳禁とする。」
「……はぁ。」
軽く肩を落とすヴィクトリアの横で、
ふたりの皇族は、なぜかとても満足げだった。




