第5話:夜明けを呼ぶ声
静かな夜だった。
月明かりが薄く地を照らし、焚き火の灯がその下でかすかに揺れている。
風は鳴かず、虫も息を潜めている。
野営地を包むのは、穏やかすぎるほどの静寂──それが、かえって不気味だった。
慣れぬ馬車での寝心地に、私は浅い眠りから目を覚ます。
空気は冷たい。吐く息が、夜の闇に溶ける。
窓の外では交代で不寝番に立つ帝国騎士たちが静かに巡回し、
焚き火のそばでは侍女たちが毛布に包まり眠っていた。
その少し先、夜風に黒髪を揺らす影が目に入る。
月光の下に、ひとり立つ女騎士。
剣を腰に、背筋を伸ばしたまま、動かない。
(……まさか、眠っていないの?)
気になって、私はそっと馬車の扉を開けた。
ぎぃ──と軋む音。
その瞬間、赤い瞳が振り返る。
「いかがなさいましたか、殿下。」
「少し……目が冴えてしまって。」
月明かりの中、ヴィクトリアの表情は静かだった。
けれど、夜の光に照らされたその横顔には、翳りがあった。
そっと、彼女の隣に並ぶ。
「ヴィクトリア、貴女は眠らないの?」
「……休憩は取るようにしております。」
「わたくし、貴女が眠っているところを一度も見たことがないわ。」
「……護衛ですので。」
歯切れの悪い答え。
それが、心に小さな棘のように残る。
「……眠れない理由が、あるのね?」
沈黙。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……眠ると、夢を見るのです。」
「夢?」
「……戦場の、あの音を、忘れられないのです。
そして、血と、鉄の匂い。目を閉じれば、まだそこにある気がして。」
その声は、凍った夜気よりも静かで、痛々しかった。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……ごめんなさい、無神経だったわね。」
「いえ。殿下は見ないでください。あの夢を。
見ないままでいてほしいと、願っております。」
祈りのような声音。
その言葉が胸に沁みた瞬間、私は咄嗟にその手を取っていた。
指先は驚くほど冷たく、氷のようだった。
思わず息を呑む。
その一瞬、ヴィクトリアの肩がわずかに強張る。
戦士の反射──だが、次の呼吸で力が抜けた。
逃げない。ただ、静かに受け入れてくれる。
焚き火の光がふたりの影を重ね、橙の揺らめきが指先を染める。
その冷たさの奥に、確かな温もりを感じた。
なぜ彼女の手を取ったのか。
憐れみか、慰めか、自分でも分からない。
けれど──離したくなかった。
そのとき、彼女が小さく息を呑んだ。
視線が交わり、言葉の代わりに微笑みが生まれる。
ほんの刹那、世界が静まり返る。
──金属の唸りが、空を裂く音。
「──ッ!お下がりください!」
鋭い音が夜を叩く。
ヴィクトリアの剣が何かを弾き、火花が散る。
「敵襲ッ!!」
叫びと同時に、帝国騎士たちが動いた。
焚き火が蹴り消され、闇が野営地を包む。
侍女の悲鳴が、夜の闇に響いた。
「殿下、馬車の中へ!姿勢を低く!」
「……っ!」
言われるまま馬車の床に伏せる。
金属のぶつかり合う音、怒号、そして風を裂く音。
世界が、一瞬で戦場に変わった。
⸻
(……不覚だ。)
ヴィクトリアは冷たい空気を吸い込み、歯を噛みしめた。
月は雲に隠れ、森は墨を流したように暗い。
微かな鉄と血の匂いが鼻を刺す。
風が、草の葉をわずかに鳴らした。
闇の中を、影が駆ける。
音を殺した殺気の流れ。
殺気は十を超えている。
弓を引く音、刃を抜く金属音。
鎖帷子が微かに鳴り、位置を変える足音が土を擦った。
訓練された刺客たち──恐らく、反対派が雇った兵。
──多いな。
だが、恐れはなかった。
護るべきものがある今、幾万の敵にも向かっていける。
「数を減らしてくる。馬車を頼む。」
そう告げると、闇へと駆ける。
息を整え、呼吸を数える。
一息ごとに、一つの影が消える。
剣が風を切るたび、夜が裂けてゆく。
影は声を上げる暇もなく倒れた。
闇の中、剣の残光だけが瞬いて消える。
音が遅れて届く──刃が骨を断つ鈍い衝撃。
血が、音もなく散る。
風が、その痕跡を攫っていく。
そして、静寂。
夜そのものが、息を潜めた。
(──逃げたな。)
殺気が一つ、遠ざかる。
ヴィクトリアは地を蹴り、闇を裂いた。
「ぐぇっ!」
呻き。
掴み上げた腕を背中に捻り、地面に押し伏せる。
月光がその姿を照らす。
「貴様は……」
「や、やめろ!剣聖!私が誰か分かっているのか!」
月明かりの下、押さえつけた男の姿がよく見えた。
刺客には似つかわしくない、丸々とした体躯。
肌には戦場の風どころか、贅沢な香油の匂いすら残っている。
そして身を包むのは、夜の闇でなお光沢を放つ絹の外套。
それだけで、この男がどんな立場にあるかは容易に察せられた。
「……蛙に知り合いはいない。」
だが、今この場でそれが誰であろうと、関係はない。
抵抗を封じ、捕らえたまま野営地へ引きずる。
戦場の後始末をしていた騎士たちが此方に視線を向け、ざわめきが広がった。
「ヴィク、手土産付きか!」
「お手柄だな。……でもよ、そいつ多分──」
「ええい!無礼者め!私はレッゾ子爵だぞ!控えよ!」
子爵は肩を怒らせ、なおも喚き散らす。
「聞け、愚か者ども!貴様らも我らに与するなら、今のうちだ。王国の守りはあと一押しで瓦解する!ここで和平など死者への裏切りだ!我らと共に帝国の未来を護るのだ!」
幾度となく聞いてきた詭弁を戦場で聞かされ、
騎士たちの間に、白けた空気が流れる。
「……あっちゃあ。お貴族様だ。」
「反対派か。面倒だぞ、斬ったら。」
ヴィクトリアは無言で子爵を見下ろした。
赤い瞳が、深く、冷たく光る。
──その“大義”の色は、幾度となく見てきた。
知っている。その大義を振るう者たちが、
自らの利益しか考えていないことを。
知っている。その大義を振るう者たちが、
これから流れる血の量に、まるで無関心なことを。
それに──
こいつは──殿下を殺そうとした。
あの気高き“花”を手折ろうとした。
護らねば。何を斬ったとしても。
剣の柄を握る手に、力がこもる。
息をすれば、血の匂いが蘇る。
「け、剣聖、やめろ!わ、私を斬れば、貴様もただでは済まんぞ!」
「……覚悟の上だ。」
月光が刃の線を描く。
あと少しで、子爵の首が飛ぶ──その時。
「お待ちになって。」
澄んだ声が、夜を震わせた。
その声は、闇を裂く光のようだった。
⸻
全員が動きを止める。
焚き火の残光を背に、エレツィアが立っていた。
金糸の髪に、夜明けを先取りするような光を纏いながら。
「お初にお目にかかります、レッゾ子爵。
わたくしはエルスーア王国第一王女、エレツィア・シャルル・エルスーアと申します。」
「……お、おうじょ……殿下……」
驚愕する子爵の前で淑女の礼を取り、彼女は柔らかく微笑んだ。
その微笑みは、あらゆる警戒を解きほぐす。
「ヴィクトリア。」
「はっ。」
「貴女が何よりも優先して、わたくしを護ろうとしてくれたこと。本当に嬉しく思いますわ。
……けれど、子爵は解放しましょう。」
「な……!」
子爵が声をあげて狼狽し、ヴィクトリアも眉を動かす。
「……こ、この私を許すと仰るのか!?」
「いいえ──許しませんわ。」
その声音は凛として、焔のように揺らがなかった。
「この件は皇太子殿下に報告します。
そして、我が祖国からも正式に抗議いたします。
けれど今この場では、わたくしたちに貴方を裁く権利はありません。
帝国の法で、正しく裁かれなさい。」
その声が、夜を鎮めた。
沈黙が訪れ、焚き火が再び灯を取り戻す。
ヴィクトリアは剣を下ろし、静かに頭を垂れた。
夜風が吹き抜け、空がわずかに白む。
東の地平が、淡く染まりはじめていた。
⸻
「ヒュウ!あの姫さん、綺麗なだけの花じゃねえな!」
「あーあ。どうやらヴィクは姫さんにゾッコンみてぇだが、ありゃ大変だぜ。」




