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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
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第38話:母のあしあとをたどって(後編) ①

夜。

冷たい風が、崩れた街並みの隙間を静かに抜けていく。

瓦礫に残った灰がふわりと舞い、湿った土の匂いに焦げた石の名残が混じった。


スラム街の通りは、息を潜めたように静まり返っていた。

かつて炎と死が渦巻いた通りには、いまはただひとつの影だけが揺れている。


ヴィクトリアは、かつて自分が通い続けた娼館の前に立っていた。


壁は煤に黒く染まり、触れれば崩れ落ちそうなほど脆い。

屋根は半ば崩れ、かつて灯りが滲んでいた窓は、黒い穴のように闇を抱えている。


焼け焦げた扉。

歪んだ金具が月光を鈍く反射し、風が看板を揺らすたび、きぃ──と細く泣いた。


(……ここだ。)


胸の奥が、かすかに痛む。

懐かしさではなく、冷たい鉛のような重さが静かに沈んでいく。


飢えた幼い自分が、震えた手でこの扉に触れた夜の記憶が、淡く蘇った。

あの頃と同じ冷たい空気が、今もなお、この場所に漂っている。


扉へ手を伸ばしたその瞬間──背後から声が落ちた。


「娼館はやってないよ。

兵隊どもがぞろぞろとやってきて、みんな壊していったからね。」


しゃがれた老婆の声。


「……娼婦を買いに来たわけではない。」


淡々と言って振り返ると、古びた椅子に腰掛けた老婆がいた。

皺だらけの顔と、鋭く濁った目。

しかし、その面影には覚えがあった。


「……あなたは。」


それは、娼館の元締めの老婆だった。

老婆の目も見開かれた。


「……こりゃ驚いた。あんた、あのときの“ちび”かい。

ずいぶんと──立派になって。」


ヴィクトリアは静かに頭を垂れる。


「はい。ご無沙汰しておりました。

……ご壮健なようで、何よりです。」


「やめなやめな。そんな堅苦しい挨拶。

昔みたいに“ばばぁ”でいいさ。」


「それは……さすがに。」


「まったく、真面目だね。そっくりだよ。

──あんたの母親に。」


空気が、ひとつ震えた。

ヴィクトリアが、小さく息を呑む。


「……やはり、私の母がここに。」


「そうさ、マリーの娘。

あの子は確かに、ここで働いてたよ。」


老婆は遠くを見るように目を細め、言葉を紡いだ。


「……腹の大きな女がね。

『ここで働かせてほしい』なんて来た時は、そりゃ驚いたよ。

でも、かなりの上玉だったからね。

あんたの乳離れまでは、ちゃんと面倒みてやった。」


ヴィクトリアは静かにその言葉を聞いていた。


「その後は、あんたも知ってる通りさ。

あの子は母とは名乗らず、食事だけ恵んで……

毎晩、裏口であんたを待っていた。」


「……。」


老婆は目を伏せ、続ける。


「で、あの夜さ。

兵隊どもがやってきて、スラムが燃えちまった日。

あたしは娼婦たちを隠し部屋に避難させたんだけどね……。

あの子だけは、誰かの名前を叫びながら飛び出していって、それっきり。」


そう言って、肩を竦めた。


「ばかな子だよ。

出てったところで、何ができるわけでもなかったのに。

……でも、そういうもんなんだろうね。母親ってやつは。」


そこで、老婆はふいに立ち上がった。


「そうだ。あんたに渡すものがある。」


家の奥に消え、しばらくして戻ってきた老婆の手には、一通の手紙があった。

縁が焦げ、ところどころ茶色く波打っている。


「燃え残った、あの子の部屋から出てきたんだよ。中身はまだ読める。

この前スラムが燃えた時も、これだけは隠して守ってやったんだ。

感謝しな。」


「……ありがとう、ございます。」


震える手で、ヴィクトリアは手紙を受け取る。

胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。


そっと封を開き、焦げと皺に覆われた紙に目を落とした。



愛しい我が子へ


あなたがこれを開いたということは、

私はあなたの前にはいないのでしょう。


あなたはいま、何をしていますか?

大切な人は、出来ましたか?

いま、あなたは幸せですか?


そして、あなたは私の娘であると気付いてしまったのですね。


どうか、あなたの父を責めないであげてください。

彼は孤独に苛まれ、寂しかったのだと思います。

私は、私の受けた処遇については恨んでいません。


ですが、あなたをスラムに残してしまったこと。

それだけは、哀しく思っています。

もっと、一緒にいてあげたかった。

もっと、抱きしめてあげたかった。

もっと、愛してあげたかった。


あなたは、私のことを恨んでいるかもしれませんね。

あんな接し方しかできなかった愚かな私を、どうか許さないで。


それでも、これだけは忘れないで。

私は、あなたを愛しています。


この世の誰よりも。

何を犠牲にしてでも、守りたい愛しい子。


本当は、この名前を贈るつもりでした。



我が子、ソフィア。



あなたがどこへ行っても、何をしていても。

あなたの幸せだけを、願っています。


あなたの母 マリー・カルシェ



手紙を読み終えた時、ヴィクトリアの指先が震えた。

紙を握りつぶしてしまいそうで、慌てて力を抜く。


次の瞬間、膝が落ちた。

硬い地面の冷たさが、そのまま全身に染み込む。


涙が、止まらなかった。


ぽた、ぽた、と。

手紙の上に丸く落ち、滲んでいく。


肩が震える。

声にならない声が喉の奥で何度もつかえ、ようやく絞り出された。


「……お母、さん……っ。」


その姿を、老婆だけが何も言わずに見守っていた。


月明かりに照らされ、

ヴィクトリアの影が静かに揺れ続けていた。


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