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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
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第37話:母のあしあとをたどって(前編) ②

城内の奥まった一室。

古い扉が軋む音とともに、かすかな埃の匂いが舞い上がった。


皇帝、皇后、剣聖。

三つの影がそろって侍女長室へ入ると、老いた侍女長は驚愕に手を震わせながら、深々と一礼した。


「……まあ。これは……恐れ多いことでございます。」


その声には畏れと同時に、年を重ねた者だけが持つ、どこか包み込むような響きがあった。


「かつて皇子付きで働いていた、“赤い目”の侍女について話が聞きたい。」

クロイツァーの声に、侍女長は記憶をたどるように目を伏せる。


「ええ、ええ……覚えておりますとも。

よく気が利き、心優しくて。

妬まれて陰口を言われても、陽だまりの花のように静かに微笑む娘でした。」


その回想に、ヴィクトリアの喉がわずかに震えた。


侍女長は古びた棚から目録を取り出し、慎重にページをめくる。

そして、ある一行で指を止めた。


「……この娘でございます。」


指先が示した名は。



“マリー・カルシェ”



「マリー……マリー、カルシェ……。」

その呟きは掠れて震え、赤い瞳が揺れる。


「──素朴な名だ。彼女によく似合っている。」

クロイツァーの声は低く静かだった。


侍女長は続ける。


「急に“故郷に戻る”と言い、職を辞したのを覚えております。

その時は、随分と不思議に思いました。

王国国境にほど近い村の出で……戦火に焼かれたと聞いておりましたから。

尋ねると、なので遠縁を頼る、と。……ですが、その後の行方は分かりません。」


「……当時、一緒に勤めていた侍女は分かるかしら?」

エレツィアの問いに、侍女長はいくつかの名を挙げた。


「次は、その方々ね。……何か手掛かりが残っているかもしれないわ。」


三人は静かに頷き、侍女長の部屋をあとにした。



皇帝の私室。


クロイツァーとエレツィアが長椅子に腰かけ、ヴィクトリアは背後に控えている。

窓から差し込む秋の光が、三人の影を長く引き伸ばしていた。


「……何人かに聞いたが、どれも手掛かりにはならぬな。」

クロイツァーの声には、疲れを押し隠す硬さがあった。


「ええ。“ある日突然いなくなった”──そればかりね。」

エレツィアの眉も曇る。


ヴィクトリアは俯き、静かに首を振った。


「ありがとうございます、おふたりとも。

……ですが、私はもう十分です。

“母は私をスラムに産み落とし、どこかへ消えた”。

──それで、構いません。」


その声音はあまりに静かで、哀しい痛みが滲んでいた。


エレツィアが顔を上げる。


「待って、ヴィクトリア。

乳児がスラムで生き延びるなんて不可能よ。

貴女を守り、育てた人がいたはずだわ。……思い出してみて。」


クロイツァーも頷く。


「確かに……俺たちは何か重要なことを見落としているのかもしれぬ。」


その言葉に、ヴィクトリアは視線を落とした。

そして、ゆっくりと記憶の扉を開いた。


記憶の中のスラム街。

血と湿土の匂い。

怒号、泣き声……誰も惜しまれず死ぬ世界。


その中で、夜ごと足を運んでいた“あの館”。

裏口に立つ、あの人影。


食事を恵んでくれた温かい手。

静かで、どこか寂しげな眼差し。


『あたしのようにはなるんじゃないよ』


そう言って頭を撫でてくれた。


鬱陶しいとその手を払い除けた日も、

その人はただ目を細めて見ていた。


そう、あの目。



……あの、“赤い目”。



目を見開き、震える声で言った。


「……思い、出しました。

その方の目は……“赤かった”。」


「赤い目……?」

クロイツァーがわずかに眉を寄せる。

「帝都ではまず見ぬ色だ。その女が……貴様を?」


エレツィアは静かに言葉を継ぐ。


「……繋がったわね。

貴女のお母様マリーは行き場を失って帝都に残り、

スラムで貴女を産み……母とは名乗らず、ただ近くで守っていた。

──貴女が義父に拾われる、その日まで。」


その言葉は推測とは思えないほど、確信に満ちていた。

しかしクロイツァーの目には、なおも疑問の影が落ちていた。


「……だが何故、母であると名乗らなかった?

スラムとはいえ、隠す理由はあるまい。」


その問いに、ヴィクトリアは目を伏せる。


「……その方がいた場所は……娼館、です。」


室内の空気が、ぴたりと止まった。


クロイツァーは深く息を吐き、机に手をついた。


「……皇帝の子を身ごもった侍女が、娼館へ落ちたと?

我ら皇族は……どれだけ罪を積めば気が済むのだ。」


深い怒りと悔恨が混じった声音だった。


「クロイツァーさまが背負う必要はないわ。」

エレツィアが静かに首を振る。

「──先帝陛下には、山ほど言いたいことがあるけれど。」


その時、ヴィクトリアは顔を上げた。

赤い瞳は揺れていたが、そこに迷いはなかった。


「陛下。私は……その娼館に行こうと思います。

二度も燃え、何も残っていなくても……自分の目で確かめたいのです。」


「……そうね。行きましょう。」

エレツィアが迷いなく答える。


クロイツァーも頷きかけて、すぐに思いとどまった。


「待て。エレツィアは行ってはならぬ。

身重の身でスラムなど論外だ。

代わりに俺が──」


その言葉を、エレツィアがすっと遮った。


「クロイツァーさま。

身重の妻を置いて、“若い近衛”を連れて娼館に通われると?

……もう一度、わたくしの目を見て仰っていただけるかしら?」


柔らかな微笑み。

しかし、その背後に潜むのは確かな威圧──牙を剥き威嚇する、母虎の気配だった。


「……すまぬ。俺が悪かった。共に留守番をしよう。」


クロイツァーは即座に降参した。


「ヴィクトリア。警護に第一騎士団を──」


「不要です。」

ヴィクトリアは静かに答える。

「剣がなくとも、暴漢程度であれば素手で十分ですので。」


こうして、剣聖は再びスラムへ降りる。


夕陽の光の中で細く伸びるその背は、

どこか痛いほどに脆く、しかし確かに前へ進んでいた。

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