第37話:母のあしあとをたどって(前編) ①
秋の深まる気配が帝都を包む。
帝国は未だに戦時中ながら、静かな空気がどこかその気配を遠いものとしていた。
午後の陽光が、淡く部屋を照らしていた。
静かな執務室。紙の擦れる音だけが響いている。
その中で、エレツィアは長椅子に腰かけ、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
湯気が揺れ、その金糸の髪を柔らかく縁取る。
「私は……十六なのよね。」
ぽつりと落とした声に、クロイツァーが手を止める。
視線は書簡から動かさぬまま、短く答えた。
「……なんだ。年齢の話か。」
「そうよ。クロイツァーさまは先月で二十五歳でしょう?
それで、ふと思ったのだけれど……ヴィクトリアって何歳なの?」
エレツィアが問い返す。
その声には柔らかさと、純粋な疑問の色が混じっていた。
その問いが向けられると、傍らの近衛がわずかに姿勢を正した。
「エレツィア様……私はスラムで義父に拾われるまで、歳を数える習慣がありませんでした。
なので正確な年齢は──」
「十八だ。」
皇帝の声が遮った。
顔を上げることもなく、事実だけを置くような口調だった。
「陛下?」
ヴィクトリアの眉が、かすかに動く。
「黒曜の母は、俺が六の時に姿を消した。
そこから黒曜を産んだのならば……俺とは七つ違う。
だから、十八だ。」
続く言葉も先ほどと同じ、
静かに、事実だけを並べる声音だった。
一度も躊躇のない声音。
その冷静さと重さに、ヴィクトリアの赤い瞳が揺れた。
「陛下……何を仰って……。
いえ。私の母を、ご存じなのですか……?」
クロイツァーはようやくペンを置き、視線を向けた。
「貴様の母は、俺の侍女だった。
その目も、その佇まいも……瓜二つだ。見間違えようがない。
父のこともよく知っている。──先帝シルヴァだ。
……貴様は、先帝の娘だ。」
残酷なほどに静かに、淡々と。
その言葉だけが重い刃となって室内に落ちた。
「クロイツァーさま、なぜ突然……!」
エレツィアが声を荒げる。
紫水晶の瞳が怒りとも不安ともつかぬ光を宿した。
だが皇帝は、変わらずに冷静だった。
「……秘密は既に破られた。
真の“剣聖”が皇族からしか出ぬと知れた以上、
聡いこれは、遅かれ早かれ真実に辿り着く。
ならば俺が告げるべきだ。──この世でただひとりの“兄”として。」
その言葉は、重く響いた。
ヴィクトリアの顔色が、みるみるうちに蒼白になっていく。
肩が震え、指が冷え、呼吸が乱れる。
エレツィアが慌てて隣に寄り、手を握った。
触れた手は、驚くほど冷たかった。
「ヴィクトリア、落ち着いて。大丈夫よ、大丈夫。」
しかし、その声は今の彼女には届かなかった。
ヴィクトリアは、震えた口で絞り出すように言った。
「……陛下。全てご存じだったのならば──何故です。
“あなたがたは……なぜ、わたしをスラムに捨てたのですか”。」
絶望が、その瞳に宿っていた。
「──っ!」
エレツィアが息を呑む。
クロイツァーは拳を握りしめ、歯を食いしばっていた。
「……分からぬ。
先帝の選択も、貴様の母の選択も。
最早知る者は誰もおらぬ。
……言い訳がましいが、俺が貴様の存在を知ったのは、貴様が騎士として入団した時だ。
それほどまでに、徹底して秘されていた。」
沈黙。
重く、深い沈黙。
やがてヴィクトリアは膝から崩れ落ちた。
ぽたり、と。
赤い瞳から、涙が床に零れ落ちる。
「すまぬ。ヴィクトリア──すまぬ。
これは帝国皇族の……俺たちの責だ。」
謝罪の声はかすれ、空気に溶けた。
外から差し込む陽光が雲に遮られ、部屋がわずかに翳る。
その影が、この場の重さを一層深くした。
しばしの沈黙の後、ヴィクトリアがか細く尋ねる。
「陛下。……母は、どのような人でしたか。」
クロイツァーは目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「……そうだな。
貴様と同じ赤い目をしていた。
夜の灯火のように、穏やかに微笑む侍女だった。
母を亡くしたばかりの俺には……心の支えとなっていた。」
「……そうですか。」
ヴィクトリアの目が、遠いものを見るように揺れた。
「母のことは、考えないようにしておりました。
物心ついた頃には独りで……思い出そうにも、形がなくて。
……いないものと、同じでした。
でも……こうして話を聞くと……。
会ったこともない人なのに、もっと……知りたくなります。」
「……それが、“家族”を想うことだと思うわ。」
エレツィアはそっと寄り添い、優しく言う。
「ねえ、ヴィクトリア。
貴女のお母様が城勤めの侍女だったのなら、きっと記録が残っているはずよ。
同じ時期に働いていた方たちを探せば……
お話を伺えるかもしれないわ。」
「それだ、エレツィア!」
クロイツァーが勢いよく立ち上がる。
その動きは、普段の振る舞いよりも少し慌ただしかった。
彼なりの不器用な優しさが、そこに窺えた。
「すぐに侍女長の元へ向かうぞ。」
その言葉で、重く沈んだ空気がわずかに動いた。




