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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
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第36話:時の止まった世界の中で ②

夜。

月光がレース越しに落ち、皇后の寝室を淡く染めていた。

息を潜めたような静けさの中、灯火はすでに落とされ、

そこにはふたつの影だけが寄り添うように存在していた。


ひとつは──寝台で横たわる皇后、エレツィア。

もうひとつは──その寝台の傍らで控える近衛、ヴィクトリア。


透き通る月光は白い布を撫でるように滑り、

薄い寝衣に包まれた皇后の輪郭を、静かに、柔らかく浮かび上がらせていた。

その光だけで、ヴィクトリアの胸の奥が熱を帯びる。

手の届かない距離なのに、その存在が胸を締めつける。


「……まさか陛下が、このような強硬策に出るとは。」


ヴィクトリアが項垂れる。

影になった前髪が揺れ、落ちる。


脳裏に、皇帝の低い声がよぎった。


『悪さが出来ぬよう、貴様らを寝室に閉じ込める。

夜明けまで、この部屋から出ることは許さぬ。』


「……これは合理的だとか、そういう話ではない気がするわ。」


ため息混じりのエレツィアの声は、それでも月明かりに溶けるように柔らかかった。

昼の彼女──皇后の威厳を纏い、誰より強く咲き続ける姿とは違う。

いまは、寝衣越しに体温の気配さえ伝わるような、ただのひとりの少女だった。


その姿を見るだけで、鼓動が早まる。

胸の奥が、どうしようもなくざわめく。

ヴィクトリアは耐えきれずに視線を逸らした。


「長椅子をお借りします。──私は、少し休めば十分ですので。」


「長椅子では満足に休めないでしょう?

寝台は広いわ。こちらにいらっしゃいな。」


「そんなこと……許されるはずがありません。」


「……変なところで真面目なんだから。

許されないというのなら、そもそも私たちの関係がそうなのよ。」


「うっ……。」


「さあ、諦めなさい。今夜は私と一緒に休むの。」


「……はい。」


そう言って騎士服を脱ぐと、月光に晒された白い肌が淡く光を返す。

衣擦れのほんの少しの音さえ、静けさの中ではひどく大きく感じられた。


その影を見た瞬間、エレツィアの瞳がわずかに揺れる。

小さく、息を呑む気配。


「……エレツィア様?」


「あっ──な、なんでもないわ。さ、ヴィクトリア。こちらにいらっしゃい。」



寝台の上に、ふたつの影が並ぶ。

互いの息が触れ合う距離。

月光がふたりの髪を滑り落ち、静寂の中で──

鼓動だけが、互いの存在を確かめるように響いていた。


「ふふ。ちょっと……照れるわね。」


「……はい。」


返す声はわずかに震えていた。

ふたりの間を満たす温度が、静かに絡み合う。


ふと、エレツィアが問いかける。


「……そういえば、以前からずっと聞きたかったのだけれど。

貴女、たまに『あたし』と言うわよね。あれが、貴女の素なの?」


「……そういう訳ではありません。

ただ、かつてスラムにいた頃、私に食事を恵んでくれていた方がいたのです。

幼い頃は、その方の口調を真似ていましたから。

今でも感情が昂ると……つい。」


「そうなのね。

──ねえ、ヴィクトリア。今だけ、その話し方をしてみてもらえない?」


「えっ。」


「大丈夫よ、私以外は誰も聞いていないわ。お願い。」


「…………。」


長い沈黙が落ちる。

呼吸を整える音が、静寂の中でやけに大きく響いた。


ゆっくりと赤い瞳が閉じられ、

開かれた時には、どこか幼い影が宿っていた。


金糸の髪へ、そっと指先が伸びる。

その髪を撫でながら、凛とした、けれど少し掠れた声が夜に響く。


「──あたしにこんなことさせやがって。

これで満足かよ、エレツィア様?」


「……!」


一瞬、空気が跳ねる。

鼓動が熱を持ち、早鐘のように鳴り響く。

寝室の温度がひとつ上がったようだった。


エレツィアは両手で顔を覆う。


「……エレツィア様?」


「ダメよ。」


「エレツィア様?」


「私以外の前で、絶対にその口調で話してはダメ。

絶対によ。これは命令です。」


「ええ……?」


「命令よ。」


「……御意に。」


再び落ちる沈黙。

ふたりの呼吸が、淡く重なる。


そして──ヴィクトリアが静かに口を開いた。


「……エレツィア様。」


「なぁに?ヴィクトリア。」


「私にこのような“お願い”をするのは、貴女だけです。

困惑することも多いのですが……。

それでも、その後には胸の奥が不思議とあたたかくなる。」


エレツィアは言葉を返さない。

ただ、その瞳の色が「続けて」と優しく告げていた。


「この胸の熱を……私は“恋”だと思っていました。

ですが、その恋が叶った今も、確かに熱が残っています。

……きっと、私は“幸福”なのだと思います。

貴女と共に歩めることが。

貴女と共に笑えることが。」


その言葉に合わせるように、純白のシーツがわずかに沈んだ。

互いの体温が、次第に近づく。


「ヴィクトリア……。」


名を呼ぶ声が、自然と柔らかくなる。


「……以前、陛下と結婚相手の条件についてお話ししたことを覚えていらっしゃいますか。

『私を幸せにしてくれる、最も価値のある方』。

エレツィア様。私にとってその方とは──貴女です。

貴女以上に、私を幸せにしてくれる人はきっと現れない。」


「でも……でも、私では、貴女に家族を持つ幸せをあげられないわ。

貴女も、家族を持っていいのよ。」


思わず、声が震える。

赤い瞳が静かに細められた。


「私にとっては瑣末なことです。

家族よりも、誰よりも私のことを愛してくださる方が、既にいる。

……エレツィア様。私は、身も心も貴女のものです。

私はそれがいい。貴女だけに、愛されたい。」


エレツィアがそっと手を伸ばした。

指先が頬に触れた瞬間、寝台の上の空気がゆっくりと熱を帯びる。

交わる視線。触れ合う肌。

小さな呼吸が、互いの唇にかかるほど近くなる。


指が触れ、

手が重なり、

唇が交わる。


柔らかな月光が、互いの境界を曖昧にしていく。

ふたりの輪郭が夜気に静かに溶け、混ざり合う。


世界は月の影に息を潜め、

ふたりだけを残して時を止めた。


時の止まった世界の中で──愛だけが、確かに存在していた。

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