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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
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第36話:時の止まった世界の中で ①

帝都の空に、秋の風がひとすじ流れた。


夏が過ぎた帝都には、

戦の匂いがわずかに薄れつつあった。


鐘楼の間を抜ける風は冷たく、

陽光は夏よりも柔らかく街を照らす。

石畳に落ちる淡い金色の影が、季節の移ろいを静かに告げていた。


エレツィアが皇后となってから、いくばくかの時が経つ。


懐妊の報せから日が浅いにもかかわらず、

彼女は驚くほど精力的に政務へと取り組んでいた。


最初に着手したのは──皇后直属の監察局の創設。


皇后の号令のもと、監察局は宮廷と官僚組織に大規模な捜査を開始する。

静かな命令ひとつで、帝都の陰が震えた。


反対派が隠し持っていた汚職。

税の中抜き。

ノーレとの密通。

誰かが“見て見ぬふり”をしていた不正の数々が、次々と白日の下へ晒されていく。


没収された財は皇后府へ収められ、

その大半がすぐさま“救い”の形へと使われた。


巡幸による、宰相叛逆で揺れた民心の慰撫。

帝都の医療体制の改革。

女官・侍女の管理制度の見直し。

孤児院への寄付と再建。


そのどれもが、帝都の空気をゆっくりと澄ませていった。


帝国議会では政策に大鉈を振るう皇后の姿に驚愕の声が上がる。


「皇后陛下は宰相も兼任されるおつもりか。」


皮肉とも賞賛ともつかぬざわめきが、議場を満たした。

帝国の重鎮たちでさえ、彼女の手腕には舌を巻かずにいられなかった。


だが、彼女の手はそこで止まらなかった。


ノーレに通じていた女官・侍女の洗い出しと解雇。

積極的に催される茶会での、各派閥との折衝。

女官長・侍女長との調整を繰り返し、宮廷内の乱れた秩序を再構築していく。


さらに、かつて宰相ファーガスにとって不都合であると冤罪に落とされていた官吏たちに恩赦を与え、

才ある者を自らの下に迎え入れていった。


彼女が打つ点、そのすべてが徐々に繋がり、星座のように形を成していく。


皇后となってわずか数ヶ月。

エレツィアは宮廷の内部を完全に掌握し、

“帝都の女主人”として揺るぎない地位を築き上げていた。



皇帝の私室。


窓から差す秋光が、机上の書簡を柔らかく照らす。

静まり返った空間に、インクの香りだけがわずかに漂っていた。


クロイツァーは筆を置き、表情を緩めずに呟いた。


「……宮廷の風通しが随分と良くなったようだ。」


政務の最中にもかかわらず、

エレツィアは皇帝の隣の長椅子でくつろいでいた。

「気晴らしになってちょうど良い」と、

彼が許したからだ。


エレツィアは膨らみ始めたお腹に手を当て、

穏やかに微笑む。


「クロイツァーさまの地盤作りの助けになっているのなら、何よりよ。」


「……その言葉に、それ以上の含みが本当にないのだから、恐ろしいな。

普通の奥方なら“これだけ働いたのだから”と、何かしらねだるものではないか?


「あら。私はあなたに“平和な時代”をねだっているのよ。

これ以上ないほどの、欲張りでしょう?」


「……そうだったな。

そんなものを望まれては、夫として応えぬわけにはいかぬ。」


そこで、後ろに控えていた近衛が小さく息を吸った。


「ですが、エレツィア様は政務に公務にと、夜遅くまでご無理をなさっています。

御子様のためにも、今後はどうかご自愛を。」


その声音は静かだったが、心からの案じを含んでいた。

しかし、その言葉を受けて、紫水晶の瞳がきらりと光る。


「……ヴィクトリアが、それを言うのかしら。

知っているわよ。あなた、夜ごと“滅魔の剣”と睨み合っているのでしょう。」


「なっ……!」


空気がぴたりと止まる。

剣の名を出された瞬間、室内の温度がわずかに下がったようだった。


クロイツァーの声が低く響く。


「何だと?剣は握るなと命じたはずだが。」


「……握っては、おりません。」


赤い瞳がわずかに揺れた。

エレツィアは肩を竦め、目を細める。


「ラウラにまた泣かれるわよ。

貴女が運び込まれた時も、目を覚ました後も泣いてたのだから。」


「うぅ……っ。」


呻き声を上げる近衛を見やり、

エレツィアは唇に笑みを浮かべる。


「ふふ。どちらが無理をしているか、決着はついたようね。」


「……いや、まだだ。」


クロイツァーが静かに立ち上がる。

椅子が軋む音が、妙に大きく響いた。


「貴様ら“ふたりとも”に休養が必要だとよく分かった。

夫として、皇帝として──俺は務めを果たさねばならぬ。」


「クロイツァーさま……?」「陛下……?」


獅子帝の青い瞳が鋭い光を帯びる。

その目はひどく真剣で、そしてひどく優しかった。


肩を震わせるふたりの前で、

室内の空気が、わずかな緊張と温もりをもって震えた。


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