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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第四章
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第35話:陽光に芽吹く命 ②

朝靄に包まれた帝都。

朝の帝都に響いた最初の鐘が、青空へ吸い込まれるように溶けていく。

その余韻とともに──皇后懐妊の報せは、風そのものとなって帝都を駆け抜けた。


祝福の鐘が次々と鳴らされ、

街路では人々が一斉に顔を上げる。


歓声、笑い声、そして再び歓声。

“先帝の死”から街を覆っていた陰が、ゆっくりと払われていく。


金の花弁が風に散り、

夏の陽光に負けないほどの熱が、人々の胸に灯った。


──帝都は、一日で色を変えた。



皇后の私室。


薄いレース越しの陽光が床を淡く照らし、

静まり返った空気の中に、柔らかな温度を落としていく。


エレツィアは長椅子に腰掛け、

両手でそっとお腹を包むように撫でていた。


「──もう少ししたら、お腹が大きくなり始めるそうよ。

不思議ね。私の中に、新たな命が宿っている。」


その声音は驚くほど静かで、しかし確かに命を育むものの力があった。


背後に控えていたヴィクトリアが、口を開く。

漆黒の騎士服に身を包む彼女の声音は、澄んだ声でありながら、どこか少し心許なげだった。


「はい。……ご懐妊、おめでとうございます。」


エレツィアは振り返り、穏やかな微笑みを返す。


「もう。何度も聞いたわ。──でも、ありがとう。」


そう言って、そっと隣を手で示す。

促されるままにヴィクトリアが腰を下ろすと、

ふたりの距離がひどく近くなった。

互いの吐息すらも触れ合うほどに。


エレツィアは、静かに言葉を紡いだ。


「ヴィクトリア。私のお腹に手を当てて。」


夏の日の中でも少し冷たい手を、エレツィアはそっと導いた。

ヴィクトリアの掌が触れた瞬間、室内の空気がわずかに震えた。

光が揺れ、風が息をひそめる。


「……まだ何も感じないかもしれない。だけど、これは確かに貴女が護った命よ。」


一言ごとに、胸が熱くなる。


「貴女がいなければ、私は教会に拐われていたかもしれない。

反対派の手で命を落としていたかもしれない。」


過去の影が淡く浮かび、光がそれを打ち払う。


「宰相によって心を壊され、こんな風に喜びを感じられなかったかもしれない。

全部、貴女が護ってくれたから。

貴女が“護るため”に剣を握ってくれたからよ。」


ヴィクトリアの赤い瞳が揺れた。


「……私は、“護る剣”を振るえていたでしょうか。」


「ええ。貴女はずっと私を護ってくれている。今この瞬間もね。」


その言葉はひどくまっすぐで、ヴィクトリアの胸の奥深くまで届いた。


「……だから、少しお休みしましょう。

大丈夫よ。貴女はきっと、必要な時には剣を握ることができる。」


エレツィアは頬を寄せるように近づき、囁く。


「その時まで、私の傍にいて。──貴女は不要になんか、ならないわ。」


ヴィクトリアはゆっくりと目を伏せた。


「……お気付きでしたか。」


「当たり前よ。貴女、ずっと暗い顔をしていたわ。」


エレツィアは少し拗ねたように微笑む。


「『剣を握れない私が、近衛として傍にいていいのだろうか』とか考えていたのでしょう?」


「……はい。」


「もう、怒るわよ。」


軽やかな声音が、やわらかく響く。


「剣が握れないくらい何よ。

平和な時代になったら、どっちにしろ剣なんか必要なくなるわ。」


風のように軽く、けれど祈りのように深い言葉。


「それでも、私は貴女を愛してる。

しわくちゃのお婆ちゃんになったって愛してるんだから。」


紫水晶の瞳が、まっすぐに向けられる。

ヴィクトリアが息を呑む。

赤い瞳が再び揺れた。


「エレツィア様……。」


「だから、ね。ヴィクトリア。」


エレツィアは胸に手を当て、震える声で続ける。


「私が子どもを産んでも、お母さんになっても。

ずっと、ずっと。私のことを、愛してね。」


その瞳は真剣で、脆くて、涙を堪える色に揺れていた。


息が詰まる。胸にあたたかいものが溢れていく。

ヴィクトリアはそっと腕を回し、抱き寄せた。

肩越しに触れる体温が、ふたりの境界を溶かしていく。


「……勿論です。私は貴女を愛しています。

これからも、永遠に。」


静寂が落ちる。

その静寂の奥で、ふたりの鼓動だけが寄り添っていた。


夏の陽光がレースの隙間から差し込み、

新たな命の影を淡く部屋に描き落とす。


その光はまるで──

ふたりの未来を照らす、祝福の灯火のようだった。

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